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母の香水は大人のにおいがする。
嗅いだことのない香りで、なんというか上品なサラダ油みたいなにおいだった。
私は、香水を始めにつけた首筋の匂いを確認するため、顎を引き、くんくんと嗅いでみたけれど、自分の体につけた香水の香りがどんな匂いなのかさっぱり分からない。香水とはこういうものなのだろうと、何となく納得するしかない。
私は母の宝石みたいな香水瓶をカバンにしまう。
化粧台に雑に置かれる小さな時計の針は丁度5時をさしていた。
そろそろバス停に向かわなければ、バスに乗り遅れたら大変だ。
一時間に一本しかこないんだから。確実に遅刻になる。学校から直接向かえれば、そんなこともないんだけど。
これで彼の気を引ければいいのだが、本当のところは不安だった――。
◇
秋になったせいかもしれないけど、日が落ちる時間も早くなって外はもう真っ暗だった。
肌寒くて、息も白い。指がかじかんで、感覚が麻痺し始めた。
はぁ、こないな天童君。
学校には来てたから、塾が遅れてるだけだと思うんだけど。
あと数本過ぎたら、最後のバスになっちゃうよ。
私は両手をポケットに突っ込んで、一人バス停のベンチで彼を待っている。
彼の告白に答えるためだ。
このまま、このあいだの告白が有耶無耶になってお互い別の高校に行ってお別れなんて、絶対に嫌だ。そう思ったから。
…実はこないだの天童君に告白されてから、お互い学校で会っても一言もその話しはしていない。うんだとか、おうだとうか、簡単な挨拶は交わせるけど、社交辞令ぐらい。
その態度がまるで彼が告白したことをなかったことにしてるみたいで、私はヤキモキした。返事をしてない私が悪いのだけれど…いやいや、こないだは逃げ出した天童くんが悪いよ。あんなふうに告白して帰っちゃうんだから…天童くんの意気地なし。でもその間彼が心変わりしないか心配だった。
だって、それが本来の私達の距離感なんだから。
「綾地?」
「天童くん?……もう遅いよ」
彼は月明かりが出てくる時間帯になってようやくバス停に現れた。
天童くんはぼけっとして、私が彼を待っていることに驚いている様子だ。
「どうしてここに」
「…待ってたんだよ、天童くんのこと」
「ああ、実はさ――」
彼の説明によると、どうやら塾で試験があったみたいだ。もともとテストは決まっていたのだが、前回の帰りに言い出す機会がなかったらしい。彼はそう私に弁明してきて最後に、こう告げた。
「…もう綾地帰ってると思ってた」
私はすかさず彼の前に両手を差し出す。
「はい」
彼は口をポカンと広げ、困惑した表情をしている。
そうだろうとも、逆の立場なら同じく反応をする自信はある。
「えーと何?」
「手出して」
「こう?」
繰り出された彼の手のひらを、私は問答無用でつかんだ。
彼の手は暖かくて、私の氷みたいな手とは正反対だった。
「ほら、指先凄い冷えてるでしょ?結構、待ったんだから」
「ごめん……連絡しておけばよかった」
彼の声は上ずり、恥ずかしそうにそう答えた…私のほうが恥ずかしいのに。自分でも自分の行動が以外だった。私のキャラじゃないし…切羽詰った人間というのは大胆になるものらしい。
「あ、あのさ。こないだの告白のことなんだけど…」
私は思い切って、この間の告白のことを訪ねてみることにする。
失うものなんてなにもないから。先ほどの彼と手をつなぐという暴挙のあとでは、もうどうにでもなれと捨て鉢に考えていた。
「そ、そのさ」
「…ベビードールか?」
彼は話を逸らしてるわけでもなんでもなく、キョトンとしてそんなことを私に聞いてきた。
「何が?」
「その香水だよ」
彼は栗色の髪をぽりぽりとかいて、困ったような表情を浮かべる。
そんな名前なんだね、と我が事ながら他人事みたいに答える。
だってしょうがないじゃないか。この香水は母ので、どんな名前なのかも知らないのだもの。
けど、まさかこんなタイミングで香水のことをたずねてくるとは思わなかった。
彼にとっては重要なことなのだろうか?
「……綾地がそういうのつけるの珍しいな」
「どうしてか知りたい?」
私はわざとそんなことを聞いた。私は腕を組んで、極めて平然と尋ねた。
「そりゃあ」
「実はある人の気を引きたくてつけてみたんだ」
「俺の知ってるやつか?」
天童君は口と眉をへの字に曲げて、私に尋ねてくる。
どうしてそうなるのだろうか?弱ってしまう。
彼は何か勘違いをしているようだった。
私の意図が伝わらない様で、なんだかむずがゆい。
「…誰だか知りたい?」
「うん」
「一つ目は私と同じ学校の学生だよ」
「なら先生ってことはないな」
「二つ目は受験に向けて真面目に勉強してる人」
「じゃあ同学年かな。受験近いし」
「わからないよ、最近は1年生でも受験に備えて勉強始める人っているからね」
「まじか…」
彼は生返事をする。なんだかショックを受けているように見えた。
もしかしたら自分のことかも、と期待していたのだろう。ちょっと意地悪だったかな。
「あ、バスが来たよ」
「あ、ああ。そうだな」
「最後のヒントはね…いつも私とバスで帰る人」
電光掲示板とヘッドライトを輝かせ、私達が待ちわびたバスがやってくる。
「ほら、天童くん。帰ろうよ」
私は立ち上がり、呆気にとられる彼に微笑む。
そして待っていたとばかりにバスのドアが開いた。