お嬢さまに出来ること2
この服だと、普段のドレスより何倍も走りやすいわ。いつもこの服でいれたら楽なのに。
着るたびに毎回思うことを今日も思いながら、リンシアは屋敷から見えなくなったところで、思いっきり走り出した。
リンシアが護身術を習う許可をもぎ取った時、弟のユリアンと同じように乗馬用のズボンを仕立てて貰うつもりだった。けれどそんなものを男爵家の子女には着せられない、と父親の強固な反対もあって、どうにかドレスの丈を膝丈にして、その下にズボンのようなものを履いて、膝までの編み上げブーツでとめる。という格好だった。
それでも腕も腕の動きを邪魔をしないように工夫してあって、普通のドレスよりは何倍も動きやすかった。それに合わせて髪もまとめて上に結い上げてある。
屋敷の裏、厩のある更に先に、いつも護衛術を習っている場所があった。生い茂る林の中の小道を抜けると、開けた場所に簡素な建物が見えてくる。
「すみません、遅くなりました」
その建物の前に立つ人影に向けて、声をあげながら最後のダッシュをかける。
「やあ、リンシア。今日は来ないのかと思ったよ」
「すみません、忘れて、しまっていたんです」
ゼイゼイとあえぎながらも、謝りの言葉をなんとか紡ぎ出し、手に持った荷物を地面へと放り投げると、前屈みになり、膝に手をあてて息を整える。
「あれ、ユリアンは終わりましたか?」
「一通り剣の型をやったところで、屋敷から迎えが来て戻っていったよ」
「そうだったんですか」
先に行ったユリアンがいないことに、内心で喝采をあげる。今日はやりたいことがあったのだ。どうしても。
「リンシアが僕の授業を忘れるなんて珍しいですね。また、何か夢中で作業でもしていたんですか?」
「いいえ。それが出来ないから、腹が立ってすっかり忘れてしまったのです。本当にお待たせしてしまってすみませんでした」
やっとまともに呼吸が出来るくらいに回復して、顔をあげると手で汗をぬぐいながら微笑む。
護身術を習う為に雇ったこのサリオンは、叔父、クライヴの昔からの知り合いだったらしい。
叔父と同じ年でこの間三十になったばかりで、優しい色の茶色の髪と瞳と柔和な顔立ちのせいだろうか、一見、とても腕が立つようには見えなかった。どちらかと言えば、叔父と同じように本を片手に部屋の中で研究をしている方が似合いそうだった。
「ああ、なるほど」
うんうん、と顎に手をあてて頷くサリオンに、更に言いつのる。
「しかももうすぐ成人の義を迎えるのだから、もう護身術なんて習うのはやめなさい、なんて言うのよ、お父様ったら」
「おや、それはまた。じゃあ僕はお払い箱かな?」
「いいえ!勿論そんなの、猛反発しましたわ。遺跡に行けないのなら、この授業くらいは続けさせて下さい、って」
「もしかしてにっこり笑って言ったのかい?なんとなく想像がつくよ」
クスクスと楽しそうに笑いながら話す姿は、尚更剣術、棒術、槍術、他武器を持たない格闘と、全てに通じている達人とはとても思えない。サリオンは、家がそういう家系だったからだよ、としか言わないけれど、本人の努力なくしてはそこまでの高みへ到達はしないだろう、ということはほんの少しかじっただけのリンシアにも分かる。
「勿論ですわ。全てが言いなりになるなんて、いくらお父様でも許せませんもの」
「じゃあ、今日はどうするんだい?的当てにするかい?それとも厩からロバを借りてきて横乗りの的当ての特訓でもするかい?」
リンシアが習っているのは、弓術。つまり弓だった。
最初は剣は無理でも短剣くらいは使えるようになりたかったのだけれど、刃物がてんで駄目だった。最初の半年で型の一つも上手く出来ない自分にみきりをつけ、自分に使える武器を探して試し始めた。短剣でさえ扱えなかったのに、棒や槍のような長い得物を扱えるはずもなく、様々な試行錯誤の結果、以外な結果が出た。それが弓、だった。
「とりあえず今日は、基本をひとさらいしたいのですけど、いいですか?」
「いいよ。じゃあ的を用意してくるよ」
小屋の方へと去るサリオンを見送り、放り出した荷物のなかから自分用に調整した弓を取りだす。
弓と言っても狩猟などに使う大きなものは、弦を引く筋力がリンシアにはなかった。だから使うのは鳥など小さな獲物を捕る時に使う、腕の中にすっぽりと収まるサイズの小弓だった。
弓に合わせて矢も小さくその分威力も落ちるため、余程当たり所が悪くなければ殺傷することは出来ない。そのことがリンシアは気に入っていた。
護身術を習った理由は、いつかは自分がこの家を出て行く時の為で、あえて人を傷つけることは望んではいなかったから。ただその為の護身術として、弓術が役に立つのか、というと普通に考えればある程度距離が離れなければ有効ではない弓は向かないだろう。
けれどリンシアは全てものは使いようだと思っている。そしてサリオンもその考えには賛同してくれていた。
「用意出来たよ。とりあえず短、中、長距離に的をおいてきた」
「ええ、ありがとうございます。最後の的を射おえたら、的を投げてくれますか。数と大きさはおまかせします」
「分かった。じゃあ待機するからちょっと待ってくれるかな」
「お願いします」
目の前の開けた野原に、高さも、大きさもそれぞれの的が設置されていた。それを見つめ、集中力を高める。サリオンから用意が出来た合図に手を振られると、肩にかついだ矢筒から矢を三本抜き、構える。
キュンっ。
高い弓弦の音とともに放たれた矢は、軽々と一番近い場所にあった拳ほどの木の実を貫く。それとほぼ同時に次の弓弦の音とともに真ん中の高い位置に設置された気の札の真ん中を正確に射貫く。そして次の矢も小弓ではぎりぎりの射程距離に設置されていた木の札の真ん中を射貫いていた。
その間、ほんの一呼吸ほど。弓弦の音もほぼ同時に聞こえたくらいの早業だった。
三つの的を射抜くと同時に息を吐き、息を吸った時には矢筒から次の三本の矢をつかみ取っていた。そしてサリオンの手によって間髪入れずに次々投げられる的の、その一つ一つの落下軌道を読み、一瞬の判断の下に矢を放つ。
トンっ。
次々と的に矢があたり、軌道を変えて地に落ちていく。次の三本の矢を放ち、更に三本の矢を掴みだしたとき、サリオンが大きく振りかぶって、開けた野原とは逆、生い茂る木立の方へとそれまでよりも小さい的を放る。
「これで最後です」
その言葉に一つうなずくと、足の向きを変え、弦を引く。何も遮るもののない野原とは違い、木々の枝に見え隠れしながら落ちる的をはっきり捉えた瞬間、矢を放った。
そして次々に矢を放ち終わった時、詰めていた息をゆっくりとはく。そして構えていた弓を下に降ろした時、最後の的が地面へと落ちた。
「おしかったですね、最後の一個は」
「かすりましたか?」
「ええ。わずかに落下軌道が変わりましたから。でも、格段に腕をお上げになられましたね」
その言葉に、首を振る。
「いえ、まだまだです。的が自由に動くものではないのですもの。落下軌道くらいは読んで、百発百中に出来ないようでは駄目ですわ」
「自分で動くものではない、ですか・・・。今度、鳥でも狩りに行ってみますか?」
「そうですね・・・。多分、必要に迫られることもあるのでしょうし、その時に慣れていた方がいいとは思うのですが・・・。とりあえず、練習だけでは生き物を傷つけたくないです」
護衛で習っている。そういう建前で、考えていたのは最初から外の世界へ出た時の自衛の手段だった。だから勿論目的としては、野生の獣や人に襲われた時の対応手段として、だ。
でもそうは思ってはいても、命を奪う、ということに甘いとは思っても、今はまだ一歩を踏み出す勇気はなかった。
人相手なら、腕があれば命を奪わないでいることも、多分できるわよね。
動いている人相手でも、腕や足を狙ってその間に逃げる。そう出来るように、弓の腕を磨いていたのだから。
「では本格的なキジ狩りはどうですか?上手く狩れたら厨房に持って行けば、晩ご飯のおかずになりますよ」
勿論旅の食糧調達でも弓は役立つだろうけれど。
「そうですね。でも、狩りだなんて、多分お父様はお許しにはならないと思います。それに・・・。結局馬には乗れませんでしたし、ね」
「では、ロバで特訓、と行きますか?リンシア様」
「そうですわね。そう、しましょうか」
「では、ロバを借りて参ります。的の用意をしてもらえますか?」
「分かりました。お願いします」
そう、馬にも乗れなかった。
この国でも、婦女子にも乗馬を楽しむことは上流階級では珍しいことではない。だから父親からも乗馬は反対はされなかった。
乗馬と言ってもズボンを履くことは婦女子の間では習慣がなく、従ってドレスでも乗れる横乗り、と言われる乗り方で、ドレスのまま馬の背に横に椅子に腰掛けるように座り、手綱と片側の鐙だけで馬を操る。勿論振り落とされる危険性が高いことから、普通は走らせることはなく、手綱を人にひかせて馬を歩かせて散策するくらいだった。
けれど、その横乗りもリンシアは一人で乗ることが出来なかったのだ。
馬にはなんとか座れたけれど、両足を鐙にかけ、歩く馬の振動にそのまま馬上に座っていることが出来ずに、滑り落ちたり、横倒しになったりで、しばらく諦められずに練習していたけれど、剣や短剣を習った時のようにまったく上達することもなく、しぶしぶ諦めた。そのかわり、馬よりも小さくおとなしいロバは、なんとか一人でも乗りこなすことが出来た。
それさえも出来なかったら、さすがに外に出た時にどうしようかと思ったわ。
「用意出来ましたか?」
「ええ。今日もよろしくね、イーチャ」
サリオンに手綱をひかれ、後ろを大人しく歩いてくるロバの首に抱きつく。
「ちょっと、やめてっ」
ベロン、と頬をなめられて、舌のザラっとした感触に身震いする。
首を抱いていた腕をはずし、たてがみをなで、その背に座る。そのまま手綱をサリオンから受け取り、的の前とすすませる。
的は一定間隔に配置してある木に、中くらいの大きさのを用意しておいた。
「行くよ、イーチャ」
手綱を握ったままでは弓は引けないので、手綱から手をはずし、片方の鐙だけで体重を支えて身体を起こす。そのまま背筋を伸ばして弓を構え、矢筒から矢を3本抜き取った。
そして一つ大きく息をはき集中すると、鐙でイーチャの腹を蹴りつけた。
「はっ」
小走りに走る揺れる背中から、体勢を崩さないように整えながら、的を通り過ぎる寸前に矢をはなつ。
シュッ。
続けざまに続いた計三回の弓弦の音に、的に矢が当たる音が重なる。
「どうっ」
全て矢を放ち終わると手綱を手にとり、反転して的に近づいて確認する。
「うーん。やっぱり最後が甘いですね。・・・まだまだ、ですね、私も」
「そうかい?結構いい出来だったじゃないか。他二つはほぼ真ん中だよ」
「この弓では威力がない分、命中率で補うしかないですから・・・」
ロバのイーチャを乗りこなすことが出来るようになった時、乗馬にも再度挑戦した。けれど結果はあまりかわらなかった。だから自分に出来ることは、出来るだけ完璧にしたかった。
「ねえ、先生。私、日暮れまで自習していきたいのですけれど、いいですか?」
チラっと自分の部屋から持って来た荷物の方を見る。
「んん?ああ、いいよ。今日はこれで終わりにするのかい?」
「いいえ。弓は終わりにして、不心得者に不意に襲われた時のおさらいをして欲しいのですが」
「不心得者、ね。ようするに、力で婦女子を襲おうとするろくでもない男に対しての、だね」
「ええ。先生がいざという時に、と教えてくれた身の処し方を」
ニヤっと人の悪い笑みを浮かべたサリオンに、ニッコリと微笑んで返す。そんな笑みを浮かべていると、あの叔父の友人だということを実感出来る。
だからこそ、父に雇われているとはいえ、リンシアが何をしているのか、何をしようとしているのかをある程度は隠さないでいた。ただ全部を話してしまったら、いざという時に迷惑がかかってしまうだろうから、全てを話すつもりはなかった。
武器は弓以外は全て駄目だった。体術もとても実用出来るレベルにはならなかった。だから、そんなリンシアにサリオンが教えたのは本当にいざという時の為に、心得がなくても出来る方法で。
実はこれが一番役に立つのかもしれないと、サリオンを相手に復習を繰り返した。
絶対に、外の世界へ行くんだ。自分の力で。