(4)
夜宴は途中で抜け出した。失敗できないという恐怖と緊張で眩暈さえ起こりそうだったのだ。
ごたごたと装飾されていたドレスから既にネグリジェに着替えたジネットはぐったりとした身体を引き摺りながら部屋に戻った。そのままベッドに倒れ込むように伏せる。結局夜宴の中、ちっとも料理は口にできなかった。腹の虫が機嫌悪そうに泣き喚く声が部屋に響き渡っているが、誰もいないのでそのままにしておくことにした。
明かりの灯していない部屋は、カーテンが全開にされたままの窓から入り込む月明のみに照らされている。それでもはっきりと部屋にある家具の輪郭は分かった。
――上出来だ。
ベッドに埋まったままのジネットの耳に、ラルドルフの声が蘇る。あの時彼にされたように自分の髪に触れてみたが、あの時感じたように心を温かく満たしていく感覚はなかった。
小さい頃、ジネットは養われていた家の主人が自分の子供にしていたように自分の頭を撫でてみたことがある。撫でられるたびに嬉しそうに子供が笑っていたものだから、それほど好いものなのだと思っていたが、何か方法が違うのか手順が違うのか、ちっともジネットに笑顔など零れなかった。ただ、ぱさぱさとして髪質の手触りの悪さを荒れた指先から感じただけだった。エメに拾われてからは何度も何度も頭を撫でてもらった。小さなことでも一つ上手くできれば、彼女は満面の笑みと共に頭を撫でて、よくやった、と言ってくれた。その時ジネットは、母親とはこういうものなのかもしれない、と思ったのだ。
だが、今日ラルドルフに髪を撫でられた感覚はそのどちらとも違っていた。
(あれは、どういうことだろう……)
彼と出会ってそれほど時間は経っていない。彼のことだって理解できていないだろう。これから先だって、彼のことを理解できるとは思っていない。――けれど。
(あの人は、悪い人じゃないかもしれない)
そう、思った。
ジネットは窓の方へ目を向ける。窓から入り込んだ白い月光がカーテンの影を長く室内に伸ばしている。静かな空間。暖かな時期のおかげだろう、暖を取らなくとも寒くはなかった。ジネットは上向きになると自分の右腕を見た。くっきりと残る傷跡がある。それをじっくりと見て、ジネットは安堵を覚える。大丈夫だ、と。自分はヴァネッサではないのだと感じた。
周りがジネットをヴァネッサだと信じていくほどに、自分がジネットではない何かになっていくような錯覚があった。嫌で堪らなかった傷痕が、こんな時には安心感になるのだと、自分を繋ぎ止めておくための唯一になるとは思いもしなかった。
ゆっくりと顔を、身体をシーツから離していく。身体に絡みつくような疲労感がある。このまま眠ってしまいたかったジネットは枕の方へと這っていった、その時だった。
背後に、人の立つ気配。
「――!」
ジネットは勢いよく振り返った。視界に映ったのは、初め、大きな影のようだった。黒い塊は、人の形を取っている。それが闇に紛れるような黒い服で全身を覆った人物だと気付くのは、相手の手の凶器が目に映った頃になってだった。
頭上に翳された短剣の切っ先が反射する光。眼球に鋭い痛みを感じるほどの反射光で、ジネットはベッドを挟んで相手とは反対側へと飛び降りた。その拍子にベッドの傍らにある棚に身体をぶつける。水差しがその衝撃で落下した。ガラスの散らばる音と甲高い音が重なる。
裸足が床を蹴った、強さ。足の裏から堅い感覚。身体の中心を冷やされ、視界が激しく揺れた。
ジネットの足はもつれ合い、左肩に痛みが走り、視界の端で白い布が破けるのを見た。方向転換する手前で本棚に手が当たり、本が大きな音と共に落下した。
(誰か)
助けを求めようと声を上げようとして、気付く。ジネットの味方は、この王城にいただろうか。ジネットはこの城にいる人物を誰一人信じてはいなかった。そして、誰もがジネットではなく、ヴァネッサを愛しているだろう。
(誰か)
誰に。
(たすけを)
――求めれば、この手を掴んでくれる人はいるのだろうか。
逃げまどう。扉に向かいたくとも、扉を背後に相手は立っていた。そうなれば、ジネットが向かえる逃げ口は一つだ。――窓。
大きく聳える窓を破り、庭に飛び降りるしかない。
そう考えながら逃げた先で、ドレッサーと接触した。反動で、ドレッサーが派手な音を立てて倒れる。ガラスが割れる音が一際大きく空気を叩いた。その余りの酷さに、ジネットを追いかけまわしていた人物の足も止まる。
ジネットは壁を背に、相手と向き合った。逃げ場はない。ここで死ぬのだとジネットは思った。こんな場所で、こんな格好で、他人として、死にたくなどなかった。
「……――ぁ」
助けなど来ないかもしれない。
向けられる凶器と荒れたヴァネッサの寝室を見て、思う。
だが。
それでも、生きたかった。
足が無様に震え、歯の根は噛み合わない。腹など据えるつもりはなかった。こうなったら最後まで、無様でも惨めでも抵抗してやろう、と決める。ジネットは細く息を吸い込んだ、その時。
扉が、開いた。
破られるかのような、爆音。
同時に抜剣する、短い金属音。
ジネットは扉を弾かれたように見た。
「ヴァネッサ!」
耳朶を殴ったのは、ラルドルフの声だった。まだ夜宴の時の格好のままの彼がいた。その手には、いつも腰に差していた剣が抜き身で持たれていた。先ほどの抜剣の音は彼のものだったのだろう。
鋭い彼の隻眼が、ジネットの前に佇む人物へ向けられている。体格から男だろう。だが、顔が見えないため、相手の年齢までは分からない。
「ここで何している?」
ラルドルフの声は硬質だ。だが動揺はないように感じた。いつもの悠然とした様子で相手を見据えていた。
相手は暫くラルドルフと睨み合うように顔を向い合せていた、が。
次の瞬間、窓を突き破った。散るガラス。月光を鋭く反射したそのガラスに紛れるように、庭へと飛び降りた。
「待て!」
ラルドルフが窓へ駆け寄った。硬い革靴がガラスを踏み潰す鈍い音が立つ。バルコニーに出たラルドルフは庭を見下ろしていたが、直ぐに部屋の中へ戻ってきた。
「……怪我は?」
月明かりを背にする彼の顔は、ジネットには上手く見えない。
荒れ果てた部屋。ガラスがあちらこちらに散らばり、破かれていたらしいベッドから白い羽根が溢れ出ていた。
その状況を理解し、ジネットはその場に頽れた。
「……」
ジネットは自分の左肩に触れる。鋭い痛みを覚え、指の腹からぬるりとした感触を感じた。しかし、傷の手当てをしようと直ぐには思えなかった。
そんな放心状態のジネットの傍にラルドルフは膝をついた。
「怪我を」
そう言った彼がジネットへ手を伸ばすが、彼女は反射的に頭上から下ろされるその手にびくりと身体を震わせた。それに気付いたラルドルフが指を折り、自分の許へと手を戻す。
慌ただしい足音が部屋の前で止まった。
「これは……!」
リゼットの声だった。彼女も騒ぎを聞きつけて来たのだろう。他にも数人の足音が聞こえていたが、ジネットは顔を上げてその人物を確認することができなかった。その彼女の代わりに、ラルドルフが口を開く。
「リゼット。彼女の傷の手当をしたい」
「はい。今すぐに!」
道具を取りに行ったのだろう、リゼットが部屋を飛び出した。それに続けるように、ラルドルフが他の者たちも部屋から追い出した。ジネット自身とラルドルフの気配だけがこの空間に残る。
「……――ぁ……」
ようやくジネットの唇から零れ落ちた声は、吐息で薄まっていた。その声を聞き逃すまいとするかのように、ラルドルフが再びジネットの前に膝をつく。その彼を、ジネットはゆっくりと見上げた。
「わ、たし」
ラルドルフの眼は相変わらず鋭く、強い。その彼の隻眼をジネットは両目で捕えて、震える唇を噛んだ。やがてジネットはどうにか震えを殺すと彼を見て、声を発した。
「わたしも、死ぬの?」
血を吐くように、弱弱しく、それでも強い問いかけだった。ラルドルフと重なった視線。目を逸らしてくれない彼の隻眼の奥に潜む強さに耐えきれずに、ジネットは俯いた。
幼い日の痛みを思い出す。その全てに耐えて、生に縋り付く自分はきっと途轍もなく無様だっただろう。それでも、ジネットは生きたかった。希望や神様なんて信じたことはなかったけれど、それでもいつか他の町娘たちと同じように笑顔で暮らせる日が来るのだと信じていたかった。
今のジネットはあの日憧れた町娘たちよりも立派な服を着て、温かくやわらかなベッドも用意されている。それなのに、幼い日々よりも遥かに、欲しかった希望からは遠い気がした。
自分が自分ではなくなる感覚。それでも生きていたい、と願った。願ってしまったのだ。惨めでも良いから、と祈ったあの幼い日々よりも強く。また、エメに会いたいと思うから。
「ジネット」
ラルドルフに呼ばれた名前は、自分自身のものだ。この屋敷の中で、唯一ジネットを本当の名前で呼んでくれる、彼の声があった。
だが、ジネットは顔を上げることができない。知らないうちに、頬を伝う熱に気付いていた。喉の奥に込み上げるのは、コルク栓のような硬い感覚。恐怖からなのか、安堵からなのか、惨めさなのか、ジネット自身にもその感情の理由は分からない。それでも込み上げてしまうのは、なぜだろう。
強く瞼を下ろした時だった。
ふわっと温かさに包まれた。額に感じたのは、人の熱だった。濃くなったのは、相手の匂い。後頭部と背に回ったのは、ラルドルフの手だった。
「……ジネット」
「……なに?」
声を出すと共にジネットは鼻を啜った。情けないな、なんて頭を過る。
こんな場所で、こんな人に、こんな惨めな姿を見られたくなどなかった。
だが、誰もいない場所で一人で涙を流すのは、もう、それ以上に嫌だった。
「ジネット、」
低く、少し枯れた彼の声。
ジネットの鼓膜をやさしく撫でて、彼の声は幼い子供を宥めるようだった。
彼女には彼の表情は分からない。彼女のように彼の声は震えてもいなかった。それでも身体を包んでいる彼の身体から感じるそれは、きっと彼が心の中に閉じ込めた沈痛。
彼は深い吐息を一つ落として、言った。
「……俺がお前を護る」
だから大丈夫だと彼はジネットの頭を抱き締めて、静かに囁いた。