(3)
夜宴というのはここまで豪華なのか、とジネットは目前で繰り広げられている光景を眺めながら思った。見たこともないほど美しい、細かな宝石が散りばめられたドレスを身に纏う淑女と美しいシルエットの服を着た紳士で祝宴の間は溢れていた。天井から吊るされた幾つものシャンデリアが昼間かと見紛うほど会場を明るく灯している。テーブルの上に並べられた食事は豪勢な肉料理や魚料理が並べられ、客人の手にある酒も色取り取りだった。町で生きていては一生拝むことのできなかっただろう光景が今ジネットの前にある。
ジネットは淡い青のドレスに身を包み、髪は綺麗に結い上げられていた。胸元を飾るのは小ぶりの宝石だが、初めリゼットが用意していたのはこれよりも随分と大きな宝石だった。ジネットはそれを重いからいらない、と断ったのだが会場にいる女性を飾り付ける宝石はどれも大きく、高価なものばかりのようだった。
「ヴァネッサ」
ジネットが茫然と立っていることに気を留めてくれたのか、隣にいるラルドルフから声がかけられた。ジネットは大丈夫だと首を左右に振る。
ラルドルフは普段と変わらない黒い服に身を包んでいる。それでもいつもよりも遥かに高価な生地のものだと、下町育ちのジネットにも分かった。整えられた髪の所為か、片目がなくとも彼の美顔はこの会場の中で際立っている。
会場を見回せば、グランやジュリエッタの姿もあった。グランは純白の服だった。ジュリエッタは予告通り真赤の美しいドレスを着ている。ドレスが光に反射して輝いているのは、宝石でも編み込まれているのだろうか。
(もう帰りたい)
それに、どこに、と問われてもジネットは直ぐに答えることはできないだろう。本当に帰りたいのは、城下町にいるエメのところだ。だが、現在、帰りたい、と口にしてジネットが戻ることができる場所は、ヴァネッサの寝室しかない。
お世辞と嫉妬が飛び交うこの場所がジネットは嫌いだ。香水の臭いが鼻孔を刺激し、腹痛さえ覚え始める。これならば、下町の、エメの店で感じていた酒臭さの方が幾分も良かった。安い酒の臭いしかしなくとも、あそこには心から湧き上がる笑顔が溢れていたのだ。貧しくとも、心から笑える人間の方が、そんな場所の方が、どれほど良いか。
先ほどから変わり替わり、様々な人々がジネットとラルドルフの二人に話しかけてくる。ラルドルフ曰く、生前から話しかけられてもヴァネッサは答えることがなかったから何も言わなくて良い、と言われていた。そのため、ジネットは彼らの相手をラルドルフに任せてしまっている。
――黙って立っていれば、ヴァネッサ様にそっくりです。
そう、ドレスに着替えているジネットに、不安を読んだかのようにリゼットは告げた。その一言だけで全く安心など出来なかったが、それでもこの場を上手く切り抜けるしかない。
部屋の隅の方、壁際に数名の絵師の姿が見えた。どうやらこの夜宴の様子を絵にして納めているようだった。
「ヴァネッサ」
呼ばれた声の方を見ると、綺麗な女性がいた。年齢はエメと同じくらいだろう。だが、品と肌の艶はずっと良い。美しい女性だと、素直にジネットは思った。
そんな彼女に、ラルドルフは言う。
「あの方が、王妃だ」
ラルドルフの小声でジネットはわずかに瞠目した。
(これが)
ジネットの本当の母親なのだ。
初めて見る王妃は何度見てもやはり美人だった。王家に興味などなかったジネットには肖像画ですら見たことがない。だが、どこかで見たことがあると感じたのは、自分と同じ髪と瞳の色をしていたからだろうか。
ジネットは王妃を凝視するように眺める。王妃は躊躇いなくジネットの傍に近寄ってくると、目前で足を止めた。
同じ色の瞳が重なる。ジネットは何も言わずにただ彼女を眺めていた、その時。
「ああ、ヴァネッサ……」
そう口にすると同時に王妃はジネットを包み込むように抱きしめた。ジネットは思わず身体を硬くする。
「生きていて良かった……」
耳元で呟かれた吐息のようなその声にジネットは目を伏せた。
(何だろう)
随分と、懐かしい匂いだった。
生まれて間もないジネットは捨てられた。例えそれが国王の命だったとしても、この人も同罪だ。
なぜ彼女はジネットを抱き締めるのだろう。ジネットがヴァネッサではないと、彼女も知っているはずだ。それなのに。
(……いい匂い)
初めて感じた本物の母の温もりは、懐かしさを覚えた。だが、ジネットの母親は彼女にとってエメなのだ。そう思うと、自然と王妃を突き放したい衝動が生まれる。
ジネットがそれに耐えていると、王妃は静かにジネットから離れた。彼女は撫でるようにジネットの手を握り、微笑む。
「それじゃあね、ヴァネッサ。またあとでゆっくりお話しましょうね」
「……ええ、お母様」
名残惜しそうに手を離して、王妃は踵を返すとそのまま部屋の奥へと下がっていった。
夜宴は続く。
ジネットは時折薄く笑って、相手の言葉に言葉を返す。自分が偽者であると気付かれないように緊張を伴って話していた所為なのか、ジネットの声は抑揚のないものだった。だが、それが功を奏したのか、泡沫姫はいつも通り、と囁く声が聞こえた。
そんな声を聞くたびに、ジネットはヴァネッサという少女について考える。
ジネットはこの夜宴で殆ど笑っていない。愛想笑いをたまに浮かべる程度だ。それさえも驚くような表情をされるのだから、もしかしたらヴァネッサは人前であまり笑わなかったのかもしれない。それを自分の目で見て実際に確認する手立てはもう、ジネットにはないけれど。
絹の肌触りの良いドレスを着て、華やかに着飾った自分はヴァネッサと同じように人々の眼には映っているのだろう。城下町の路地裏にある酒場で働いている町娘であったなどと考える者はこの場には、きっといない。
そう思いながら一つ吐息を零した時、後ろから包むようにジネットの頭に触れた手があった。後方からだった所為か、それとも相手の手から悪意が感じられなかった所為なのか、ジネットは肩を縮ませることはなかった。
ジネットは振り返る。彼女の後ろには、いつもよりも凛とした雰囲気と顔をしたラルドルフの姿があった。伸びた彼の右手の行き先は、ジネットの髪だ。
「上出来だ」
触れられていたのは、ほんのひと時。
それでも触れられた頭から感じた彼の体温と自分の中に灯った感情が、彼女の心を歓喜で満たしていく。
喧噪が鼓膜に張り付いたように離れない。煌びやかな光景は、やはりジネットは好きになれそうになかった。けれど。
先ほどよりも、上手く笑えそうな気がした。