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第二章(1)

 泣き腫らした顔をどうにかリゼットに化粧で誤魔化してもらったジネットは朝から中庭でダンスの練習をしていた。教育係のカーラは険しい顔に眼鏡をかけた気難しそうな表情の初老の女性だ。彼女はその表情通り、手厳しくジネットを躾けてくる。


 ジネットは男性役をするカーラとのダンスを繰り返しているが、先ほどから一歩足を出すごとにカーラの爪先を踏ん付けていた。



「ヴァネッサ様! どうして、左足が出るのですか。右足だと何度言えば!」


「……わたしはヴァネッサじゃないもの。彼女のようにダンスなんてできないわ」


「あなたはヴァネッサ様です!」



 ジネットが口答えすれば、耳を劈くようなカーラの声が返ってくる。ジネットは両耳を掌で塞ぐと、カーラから数歩離れた。



「あーあーあーあー」


「『あー』じゃありません! 聞こえないふりをしても無駄ですよ、ヴァネッサ様!」


「ヴァネッサじゃないですーあーあーあーあー」


「ヴァネッサ様っ!」



 耳を塞ぎ、声を上げながら顔をぶんぶんと左右に振るジネットは完全にカーラを馬鹿にしていた。それに気付いているのだろう、カーラの顔はトマトのように真赤だった。


 ジネットは躾が嫌いだ。トラウマなのだ。怒られる声も、今にも殴りかかって来そうな気迫も、怖くて堪らない。それを誤魔化すための行動だったが、それは寧ろカーラの怒気を荒立てるだけだった。



「いい加減になさってください!」



 その声と共にカーラの手がジネットの右手首を掴んだ。



「やだ!」



 ジネットは反射的にその手を払おうとする。だが、カーラの手は離れなかった。



「夜宴は今晩なのですよ!」



 今晩行われる夜宴は、ヴァネッサの替え玉であるジネットとラルドルフの婚姻のお披露目が目的だ。その場ではもちろんダンスが必要になるだろう。だが、そんな華やかな場所とはかけ離れた世界で生きてきたジネットにはダンスの欠片も分からない。カーラの厳しい指導で多少は理解できたが、人前に出るにはまだまだ未熟だった。


 カーラの怒声を遮るためにジネットは耳を両手で塞いだ。「あー」と低い声を出せば、カーラの顔がさらに歪んだが、ジネットの耳に彼女の声は聞こえなくなる。そうしていると、カーラが急に怒ることを止めた。彼女は屋敷の方へ目を向けたまま固まっている。ジネットもつられて目を向けてみれば、屋敷から出てきたラルドルフの姿があった。



「俺が相手をしよう」


「ラルドルフ様……!」



 耳から手を離したジネットは単調なラルドルフの低い声とカーラの驚愕を聞いた。



「ですが――」


「夜宴でも彼女の相手をするのは俺だろう」



 ラルドルフはそう言いながらカーラの前を通り過ぎるとジネットの左手を自分の右手で取った。



「ヴァネッサ、それで構わないな?」


「……ええ」



 ジネットが頷けば、ラルドルフはカーラに下がるように告げた。カーラは渋々屋敷の中へ戻った。



「……さて」



 ラルドルフは隻眼でジネットを見た。



「お前はどこまでできる?」


「……基本くらい」


「基本ができるのに、あれほど怒られていたのか。あの人は相変わらず厳しいようだな」



 そう言ってラルドルフは呆れたように笑った。その笑顔からジネットは顔を背ける。


 首が、熱い。胸を強く打つ鼓動が煩く感じた。



「始めるぞ」



 そんなジネットに構わず、ラルドルフはジネットの手を掴んだ。近付いた距離。腰に回った彼の手が、武骨で。温かな体温にジネットは一瞬自分の呼吸が止まったのが分かった。


 彼の片足が前へ出る。それから逃れるようにジネットは足を下げた。ダンスというには不恰好なジネットの反応だったが、ラルドルフは何も文句を言わなかった。


 近くにある彼の匂い。昨晩は恐怖が勝って、全く分からなかった。香料のようなやわらかな匂いは、彼には似合わない。彼は去年までの戦争で活躍したのだとリゼットが今朝ジネットの支度を手伝いながら口にしていた。そんな血に塗れ、剣を振るい、銃を打ち、人を殺し、英雄と呼ばれる彼からはとても想像できない、やさしい匂いだった。



「……ありがとう」



 ぽつり、とジネットが言えば、外方に向いていたラルドルフの目がジネットへ落ちた。



「……何が」


「……わたし、あの人嫌いなのよ。直ぐに怒るし」


「……」



 ラルドルフは口を噤んだ。


 やはり彼はカーラに八つ当たりのように叱られているジネットを見兼ねて来てくれたのだと確信した。本来ならあの場面でラルドルフが登場するはずがなかった。だからこそ、カーラは目を剥くほどに驚いていたのだろう。ジネットのぶっきら棒なダンスの練習に王子様である彼が直接手伝う必要なんてないのだ。ジネットが本当にヴァネッサなら、別だとして。ジネットは、ヴァネッサの替え玉に違いないのだから。



「……ジネット」



 彼の呼び声は、彼女の本当の名前。


 思わず驚きながら顔を上げれば、面白いものでも見たかのようにラルドルフは苦笑した。


 くるくるとダンスを続ける。二人の身体はいくつもの円を描くように中庭を移動していく。その間、ジネットは一度もラルドルフの足を踏んでいなかった。彼が上手く避けてくれているのか、それともジネットのダンスの腕が上達したのかは分からないけれど。


 ラルドルフは漆黒の隻眼でジネットを見下ろし、言った。



「ダンスなど出来なくても良い」


「え?」


「……ヴァネッサも踊れなかった」



 彼から告げられたその事実にジネットは足を止めてしまう。だが、彼はすっとジネットの身体を抱き締めるようにして引いた。



「右足を前に」


「う、うん」



 言われた通りに再び動き出すジネット。ステップを踏みながら、ジネットはラルドルフに訊く。



「王女様はダンスできなかったの?」


「……というよりも、踊ろうとしなかった」



 ラルドルフの目が、細くなる。



「ダンスは嫌いだと話していた。好きでもない人と体を寄せ合って踊るのは吐き気がすると笑っていたな」



 彼は過去を思い出すように、ゆっくりと瞬きを一度。


 ジネットはその彼の顔をじっと見上げていた。間近で見ても美麗な顔立ちをしていた。この人が右目を失う前はどれほど綺麗だったのだろうか、とふと思う。顔の右側を覆うようにある眼帯は彼の顔の半分を隠してしまっている。ジネットは彼の顔を凝視していることに気付いて、視線を逸らした。



「……王女様は、ラルとは踊った?」


「ここでは」


「この中庭で?」


「ああ。……だが、あいつは下手で。俺の足をよく踏んでいたな」



 小さく笑ったラルドルフ。


 彼は過去に想いを馳せているのだろう。楽しそうな、哀しそうな。その感情が半々入り混じった彼の表情がそこにはあった。



「それに比べれば、お前は上出来だ」



 ラルドルフはそう言って、少しだけきつい目尻を下げた。



 ――俺はお前を愛するよ。



 その彼の台詞が耳の奥深くで蘇る。喉の奥の方から込み上げる熱は、起こる動悸は、何なのだろう。


 ジネットは彼からぱっと視線を外した。本当は繋いだ手も離してしまいたかったけれど、それはなぜか憚れてしまう。



「ジネット」



 呼ばれ顔を上げた。その時だった。


 ラルドルフの手がジネットの右手から離れた。首を傾げる間もなく、ジネットの頭上に翳された彼の右手。



「っ……――!」



 反射的にジネットは彼から手を離し、その場に蹲った。護るように両手で頭を抱える。小さく震わす身体も、全てがジネットの意思に背いていたが蹲った体制のまま、ジネットは動くことができない。



「……やはりな」



 そのジネットの頭上から、ラルドルフの冷淡な声が降ってきた。



「お前、虐待されていたのか」


「……」



 ジネットは彼のその台詞で彼を睨み上げた。だが、彼は全くそれに臆する様子なく、初めて会った時と変わらぬ冷たい光を灯した鋭い隻眼でジネットを見下ろして言った。



「手を翳されて身構えるのは暴力を日常的に受けたことのある人物の証拠だと聞いたことがある」


「……」


「……悪い。今のはやりすぎた」



 ほら、とラルドルフは自分を睨んだまま動かないジネットへ右手を差し出した。



「お前は、どんな場所で生きていた?」



 疑問の声は、少しだけやさしい。それがジネットの中の怒りをわずかに和らげるから、彼女は気に入らない。それなのに、気が付けば彼の右手に自分の右手を伸ばしていた。



「……気が向いたら教えてあげる」



 素っ気なく告げたジネットは、彼の右手に引かれて立ち上がった。



「……今度、今みたいなことをしたらこんな城出てってやるから」


「それは恐ろしい」



 喉の奥で短く笑って、ラルドルフはジネットの灰青色の目を見詰める。



「ジネット、」


「……ねえ」



 ジネットは彼の声を遮った。



「本当の名前を呼んでくれるのは嬉しい。でも、誰かに聞かれたらどうするの?」


「愛称とでも言っておけばいい」


「……あんたの考えていることは、いまいち分からないわ」



 そのジネットの言葉にラルドルフは深い吐息を落とした。



「お前は、ヴァネッサではない」



 当たり前のことを告げた彼の瞳は、自然と地面に下がっていた。


 ジネットはそんな彼に何か言おうと唇を開いたが、結局何か言葉を紡ぐことはできずに足りない空気を欲するように唇を動かしてから、横に引いた。そして、彼から視線を外す。



「ヴァネッサ!」



 そう耳を打った声は、聞き慣れない男性のものだった。


 声のした方へジネットが目を走らせれば、美しい金色の髪をした男性の姿があった。白い服が良く似合っている。リゼットと年齢が近いように見えたが、彼の顔に浮かんでいる笑顔を見ればラルドルフと同じくらいかもしれない。おとぎ話の中に出てきそうな王子様にぴったりだった。彼の長い四肢は、ラルドルフと比べて筋肉などなさそうだった。その彼の後ろには同じ金色の髪を背中に流した女性の姿もある。



「……誰?」



 ジネットが小声でラルドルフに問えば、彼は答えた。



「グラン・ガヴィニエスとその妹のジュリエッタだ。お前の母の妹の子供だな」


「あの二人はヴァネッサが死んだことを知らないの?」


「知らないはずだ。知っているのは俺とリゼットと、国王と妃。それからカーラくらいのものだ」


「……わたし、ヴァネッサの口調が分からないわ」


「適当に話を受け流せ。ヴァネッサは相手の話を真面に聞かないような話し方をしていた」


「……分かった」



 二人の会話の間にグランとジュリエッタはジネットたちの傍にやって来た。グランは爽やかな微笑を浮かべ、ジネットの目前に立った。



「ヴァネッサ、今日の夜宴ではどんなドレスを着るんだい?」


「……リゼットが決めるんじゃないかしら。わたしは知らないわ」


「そうか。やっぱり君は自分のドレスにも興味がないんだな」



 うんうんと頷くグランはジネットとヴァネッサが入れ替わっていることに気付いていないようだった。グランはジネットからラルドルフに目を移す。



「これはラルドルフ殿」


「久しいな、グラン」



 話し始めたラルドルフとグランを眺めていると、ジネットは自分の右頬に刺さる視線に気付いた。



「ねえ」



 その声は、ジュリエッタのものだった。


 やわらかな砂糖菓子のような女性だ。白い肌はやわらかそうで、ぱっちりとした双眸に埋まる緑の瞳は宝石を思った。


 彼女は睨むようにジネットを見たまま、鈴のような声で言った。



「夜宴で、赤いドレスだけは止めてよね。あたしが着るから」


「……リゼットに言っておくわ」



 ジネットがそう言えば、ふんっと鼻を小さく鳴らしてドレスの裾を翻した。そのままジュリエッタは屋敷の中に戻っていく。



「悪いね、ヴァネッサ」


「……気にしてないわ」



 グランに返せば、彼は微笑した。



「ヴァネッサ」



 グランはジネットの双眸を真っ直ぐに見詰めて告げる。



「結婚おめでとう。ようやく君とラルドルフ殿が一緒になれて、僕は嬉しいよ」



 彼の台詞にジネットは心中だけで首を傾げ、顔には薄く笑顔を貼り付けた。



(ようやく?)



 それはどういう意味なのだろう。深い意味はないのかもしれないけれど。



「ありがとう、グラン」


「末永くお幸せに」



 そう言うとグランはくるりと身体を屋敷の方へ向けた。



「それじゃあ、僕は夜宴の準備の様子でも見てこようかな。また後でね、二人とも」



 ひらひらと手を振ったグランはそのまま屋敷の中へと戻っていった。


 その彼の姿を見届けるとジネットは胸を撫で下ろした。彼らの様子からどうやら自分がヴァネッサではないと気付かれなかったようだ。



「ジネット」



 ラルドルフの低い声がジネットの耳に流れ込んでくる。



「ヴァネッサが殺された夜、あの兄妹もこの王城にいた」


「え……?」



 驚愕でジネットはラルドルフを見上げた。彼は声調と同じ静かな表情をしていた。グランとジュリエッタが消えた屋敷に視線を投げていた彼はジネットに視線を落とす。真剣な隻眼は冷たくも見える。



「……一応気をつけておけ」



 ラルドルフの忠告は、ジネットの胸になぜか鈍痛を与えた。

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