(4)
躾、だと。
そう言われた。
痛いと喚いた声は大きな掌に塞がれた。硬い掌の感覚は未だに鮮明に思い出せる。今でもこの唇を押え付けているような気がしてならなかった。
エメと出会う前まで、ジネットはとある家の女中であった。ジネットは産まれて間もなく捨てられていたところを拾われ、物心つく頃には既にその家で女中として働かされていた。
冬の井戸水は皮膚を裂くように冷たかった。裸足の指先は、鋭い爪を立てられているかのような痛みを伴い、痺れさえ覚えた。それでも手を止めれば、平手が幼いジネットを容赦なく襲った。痛いと喚けば、声を上げるための口を押えられもう一発殴られた。
殴られながらジネットは何度死ぬことを想像しただろう。数え切れないほど、ジネットはいつかこの主人に殺されるのではないかと思った。思っても、逃げることはできなかった。逃げて、逃げて、逃げ延びたとしても、そこで生きていけるはずがなかった。逃げ出す勇気だって、ジネットにはなかった。
そんなある日。たいしたことではなかった。水が冷た過ぎて洗濯に時間がかかった程度のことだった。だが、虫の居所が悪かった主人に、ジネットは皿を投げつけられた。投げつけられた皿はジネットの頭上で壁に当たって割れた。割れた皿。落ちてくる破片。反射的に顔と頭を庇ったジネットの右腕に熱が走った。痛みを感じるのは随分と後だった。それでも走った強烈な痛みは呼吸を奪うほどで、それなのにジネットは声を上げることもできなかった。唇を血が出るほどに噛み、殴られないために声を殺した。
十歳かどうかという年頃の時、それよりも遥かに小さく幼く見えたジネットはエメに出会う。
――私と来な。
そう言って無理やり手を引っ張ってくれたエメと共に城下町にやって来たジネットは少しずつ笑うことを覚えた。
ジネットにとってエメは母であり姉であり友だった。
「……――……エメ……?」
呼び声を口にすると共にジネットは夢から覚めた。だが目を開けることがつらかった。重く、少しだけ痛い。頬が引きつるような感覚がある。
昨晩は泣きながら眠ってしまったのだ。その所為で、これほどまでに顔が痛いのだろう。きっと自分はひどい顔をしている。そう思いながら身体を起こしたジネットは部屋の中央に用意されたソファーに座るラルドルフの姿を見付けた。
「起きたか」
単調な声だけをジネットに投げ、ラルドルフは彼女の方へ顔を向けなかった。だが、自分の顔のひどさを想像してジネットはそれに安堵した。誰であろうとひどい顔を見られるのは本意ではない。
そう思っているとラルドルフが立ち上がった。こちらに顔を向けようとした彼を見るや否やジネットは枕を手に取り、ラルドルフに向けって放った。
「こっち見ないで!」
「……」
投げつけた枕は見事にラルドルフの顔面に直撃した。ラルドルフはその恰好のまま固まっていたが、長いため息と共に見事に顔に張り付いたままの枕を右手で取り去った。
「……お前は俺の想像を超える乱暴者だな」
「あんたの方が乱暴じゃない」
そう言い返したジネットへラルドルフが顔を向けた。やはり相当目が腫れていたのだろう、ラルドルフが明さまに顔を顰めた。
「……ひどいな」
それはジネットが放った言葉に対してではないだろう。ジネットは自分の顔がどうなっているのか不安になった。
窓の外は既に明るい。だが、太陽の位置からしてまだ陽が昇って間もないのだろう。扉が開かれるまでにはまだ時間がかかるに違いない。
ラルドルフは慣れた手付きで部屋の隅にある本棚から本を一冊取り出した。彼はこの部屋に来たことが何度もあるのかもしれない、とジネットは思う。彼はヴァネッサと仲が良かったのだろうか。元々王家に興味がなかったジネットは王家の噂話すら知らない。だが、彼の仕草から、そしてヴァネッサの名を口にする口調から彼と死した王女の仲はジネットでも少しくらいは感じ取った。
「……ねえ、」
ソファーに座り、本に目を落としているラルドルフにジネットは問いかける。
「王女様はあんたのこと、何て呼んでたの?」
それにラルドルフが顔を上げた。鋭い隻眼がジネットを見ている。顰められた眉が疑問を表していた。
「……合わせた方が、いいでしょ」
「……ラル」
彼は本に視線を落として、言った。
「ラルドルフでは長いからと」
「……そう」
ラル、とジネットは彼の愛称を舌の上で小さく転がす。不躾な彼には何だかその可愛らしい愛称は少し似合わないような気がした。
「……そういえば、」
ぱたん、と本を閉じてラルドルフは呟いた。
「聞き忘れていたな」
そこでふっとラルドルフはジネットを見た。他愛のないことのように彼は言葉を紡ぐ。
「お前の名は?」
「わたし?」
「まさか『ヴァネッサ』ではないだろう」
短く鼻で笑ったラルドルフが上目で様子を窺うようにジネットを見ている。馬鹿にしたような彼の態度に少しばかり苛立ったが、今の自分の顔を思い出して込み上げた怒声を抑えることにした。
代わりに不機嫌の声のまま問いかける。
「知ってどうするの?」
「どうもしない」
それとも、と不敵な笑みを浮かべ、ラルドルフが首を傾げた。
「名前を訊くのはこの国では不敬だったか?」
ジネットはそれにぷいっと彼から顔を背けた。
ヴァネッサは掴みどころのない性格から『泡沫姫』と呼ばれていたという。それならば、彼女の夫となる予定だったこの男もトンだ『泡沫王子』だ。掴みどころがない。彼が何を考えているのかジネットにはさっぱり見当がつかなかった。
「……ジネット」
ようやく発した彼女の声は、ぼそぼそと聞き取りにくいものだった。
「ジネット・アネルカ」
聞き取りにくかったはずのその声だったが、ラルドルフにはきちんと届いたらしい。
「ジネット……待て。アネルカ? 姓があるのか」
「……拾ってもらったの」
きっと彼はジネットが孤児院で育てられ、養子に貰われていたとでも思っていたのかもしれない。その予想通りだったのだろう、ジネットが『拾われた』と言うと彼は憮然とした面持ちになった。
「五年くらい前に、拾ってもらったの」
「……そうか」
彼は再び本を開いた。
視線を本に落とした彼の顔はジネットの位置からは眼帯をつけた右側しか見えない。だから彼が今、どんな表情をしているのか。ジネットには分からなかった。
「……ジネット」
その彼が、本のページを捲りながら言った。
「一昨日も言ったが、俺はお前と婚約したのは本意ではない」
「……わたしもよ」
「――だが、」
不服そうなジネットの声を受けながらラルドルフは続けた。
「俺はお前と婚約し婚礼を挙げ、夫婦になった。俺は将来、この国の王にならなければならない」
ラルドルフの顔はジネットに向かない。彼の声だけが、ジネットへ捧げられていた。
「相手がヴァネッサだろうが、お前だろうが、俺には関係ないんだ」
その声だけが、少し震えた気がした。けれど次の声は元の強さを伴って。
「自分の妻を愛せずして、国は愛せないだろう。だから俺はお前を愛さなければならない。それは、お前も同じだ」
そこでようやく彼の隻眼がジネットを捉えた。真っ直ぐな視線にジネットの呼吸が固まる。
そんなジネットに、だから、と彼は薄く微笑んだ。
「俺はお前を愛するよ」
それは、悲愴に塗れた彼の決意だった。
そのことをジネットは後日知ることとなる。