(3)
夕食の最中、ジネットの向かいに座ったラルドルフは何も話をすることはなかった。ジネットがマナーについて叱咤されている中でさえ、ただその隻眼でちらりとジネットを一瞥した程度の関心だった。
(疲れた)
夜着に着替えたジネットは自室のベッドに腰かけている。自室と言っても、一週間前まではヴァネッサの部屋だったのだ。今は替え玉のジネットの部屋となったが、ヴァネッサが死んだことを知らない者は今でも彼女が生きていると思っているはずだ。
誰が疑うだろうか。自分の国の王女が死に、捨てられたその双子の妹が王女と擦り変わっていることに。
(わたしだって気付かなかったかもしれない)
自分だってその妹でなければきっと気付かないだろう。
メイドの様子を見ても、ヴァネッサが死んだことを知っているのは一番親しかったリゼットだけだと見える。
ジネットはベッドのシーツを指先で撫でた。ひどく滑らかな手触りだ。城下町では一度も触れることはできなかったし、こんな手触りの布が世の中に存在することさえ夢にも思わなかった。
その時、ノックなしに扉が開いた。
ジネットが目を向けると、部屋に入ってきたラルドルフが扉を閉めるところだった。彼もジネットと同じように夜着を着ている。
何か用だろうか、とジネットが怪訝に顔を顰めていると、彼はジネットの表情の意味が分かったのだろう。ああ、と短く声を零した。
「忘れたのか」
ラルドルフは吐息を一つ落とし、言った。
「婚礼を挙げたのは今日だ。その後に何があるのか忘れたわけではないだろ」
婚礼の後にあるもの。それは王家とは無縁の生活を送ってきたジネットでさえ知っていた。婚礼の夜にあるのは、初夜だ。
「……うそ……」
ジネットの消えそうなほどか細い声は、震えていた。
彼女は走り出すと閉められた扉のドアノブを掴んだ。だが、押しても引いても扉は開かない。
「出して!」
外から鍵がかけられていた。ジネットの声は、きっと外には届かない。
「やだ! 出して!」
ジネットの叫びは、闇に溶けて消える。だが、完全に霧消する前にジゼッとは同じ台詞を叫んだ。
そんな彼女の様子をベッドに腰を下ろしたラルドルフは呆れた表情で眺めている。
「諦めろ。その扉は朝まで開かない」
「冗談じゃない!」
扉を叩くジネット。その音と彼女の声が耳触りなのだろう、ラルドルフは少しそちらから顔を背けた。
「別に俺はお前を取って食おうなんて思って――」
「もうっ、何で開かないのよ!」
だが、ラルドルフの声はジネットには聞こえない。彼女は懸命に扉を叩き続けていた。
「おい、……ヴァネッサ」
「わたしはヴァネッサじゃない!」
彼がジネットへの呼び方に戸惑ったことには気付いていた。だが、怯えるジネットは彼を気遣う余裕などなかった。それがいけなかったのか。
顔を歪めたラルドルフが一気にジネットとの距離を縮めた。身を縮めたジネットに構わず、彼は彼女の細い手首を掴む。そのまま投げるようにベッドへ彼女を放った。
「痛っ……」
彼に握られた手首がじくじくと痛んだ。やわらかなベッドに叩き付けられた背中から伝わったのは衝撃で痛みはなかった。
ジネットは鋭く叫ぶための息を吸った。だが、吐き出す前に口はラルドルフの大きな手に塞がれる。
「……――」
「騒ぐな」
覆い被さるようにジネットを組み敷いたラルドルフの顔をジネットの瞳は真っ直ぐに見上げる。その目に浮かぶ雫は、音も立てずに彼女の目尻から蟀谷へと流れていった。
ラルドルフと絡み合った視線をジネットは逸らせない。鋭い彼の隻眼はジネットの瞳だけではなく彼女の心までも捉えていた。ジネットの身体は恐怖に硬直した。
ジネットが静かになったことを確認して、ラルドルフは薄く息を吐いた。少しだけ細めた彼の瞳はそれでも鋭利な刃物のようだ。その隻眼から逃れるようにジネットはぎゅっと瞼を閉じる。その直後。
ジネットが首に彼の吐息を感じた。驚きに息を詰まらせるジネットの首筋にちくりとした痛みが走った。薄い皮膚に立てられた固い感覚。生温い舌がジネットの首を這った。
「っ……」
括目したジネットは身体を捻り、逃れようともがく。それでも頭上で束ねられた両腕がラルドルフの左手に固定されたまま動かない。
彼の右手がジネットの頬を撫でる。指先の体温はジネットよりも高い。その手が腰に触れ、足に触れ。次にはジネットの髪に振れようと彼女の頭上に振り上げられた手。その光景がジネットの中でそれが過去の記憶と重なった。
「――やッ!」
顔を背けたジネットにラルドルフの手が止まる。ジネットは彼から顔を背けたまま、両目を強く瞑っていた。
「ま、待って……」
震える声で、どうにか言葉を紡ぐ。
怖くて怖くて、恐怖のあまりジネットは吐き気を覚えた。ジネットが薄らと瞳を開けると、彼が静かに右手を下ろしていくのが見えた。
それに安堵しながら、ジネットは自分に言い聞かせる。
(が、まん)
我慢。――これが終わらなければ、きっと殺される。
マナーを教えられる合間に何度も過った言葉だ。死という恐怖は小さい頃からジネットの肌に染み付いている。だからこそジネットは思うのだ。
(殺されさえしなければ、何だって耐えられる)
ジネットは目を強く瞑って、全てがただ過ぎ去ってくれることだけを願った。歯の根が噛み合わなくて、惨めな音をかすかに立てる。
それに交ざって、ラルドルフの小さく息を吸う音が聞こえた。
「お前――」
「何よ!」
キッとジネットはラルドルフを睨め上げた。それに彼はぐっと言いかけた言葉を押し殺したようだった。
否、と彼は短く首を左右に振ると吐息と共に告げた。
「……悪ふざけが過ぎたな」
彼はそう言うと、ジネットの上から退いた。
ジネットは震える呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと上体を起こす。彼女は乱れた夜着を整えながら袖口から自分の右腕が晒されていることに気付いた。開け放たれたままのカーテン。月光の下で、ジネットの傷痕がラルドルフの目に映っている。
「この傷はどうした?」
「……わたしがあんたにそんなこと言うと思う?」
袖を元に戻しながら、ジネットは俯いた。
「死んでも、あんたにだけは言いたくない」
声は強く保ったが、きっと今の自分はひどい顔をしている。怯えきった顔は、弱みは、できるだけ人に見せたくなかった。
重い沈黙が流れる。
だが、それを遮るようにラルドルフが動いたことが衣擦れの音としてジネットに伝わった。ベッドがわずかに揺れたのを感じながらジネットが顔を上げると、ラルドルフがベッドを下りるところだった。
「……俺は向こうで寝る。お前はここで寝ていろ」
彼はジネットに背を向けたまま告げると、部屋に取り付けられた執務室の方へと歩いて行く。そこに繋がる扉を開けた彼は執務室の中へと消えた。
ジネットは静寂の中、自分の掌を見下ろす。指先が暗闇でも分かるほどに震えていた。それを誤魔化すようにジネットは手を握り締める。それから右手で自分の首元に触れた。まだかすかに湿った感触を指先から感じる。
自分はヴァネッサの替え玉なのだ。婚礼も挙げた。もうあの王子の妻なのだ。それを頭で理解していても、心までは言う通りにはしてくれなかった。
「……う……」
唇が震えた。喘ぐように、唇が開く。頬が痙攣するように動き、瞼を強く下ろした。瞼の裏で膨れ上がった熱が、頬を伝っていく。
惨めに喉が引くつき、ジネットは無様に嗚咽を零した。