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(2)

 翌日の婚礼はジネットにとって地獄だった。


 唯一救いだったのは、聖堂には客人がいなかったことだろうか。ジネットとラルドルフ、それから司教の三人だけで婚礼は進められるという話だった。今のジネットではヴァネッサのふりを通すことはできないと考えられたのかもしれない。


 婚礼服に身を包む自分の姿をジネットは鏡越しに眺めていた。


 純白のドレス。滑らかなヴェールの下で纏め上げられた髪には美しい髪飾り。紛うこと無き花嫁の姿だった。首元に付けられた宝石がジネットの動きに合わせてきらきらと鋭い光を反射させている。



「頑張ってください、ヴァネッサ様」



 その声は直ぐ傍に立つメイドからかけられた。ジネットが王城に来てからずっと寄り添うようにして傍にいるメイドだ。名はリゼットだった。


 リゼットはどこか憐れむようにジネットを見ている。



「婚礼を無事に済ませなければ、あなたの身が危ないのです」


「……脅しているの?」


「あなたの身を案じているのです」



 なぜ、とジネットは視線だけで彼女に問う。



「今は、あなたが私の主ですから」



 リゼットは薄くやさしさの滲む笑みを浮かべて告げた。



「……この婚礼を失敗させたら、わたしは殺されるかしら」



 ジネットの問いかけにリゼットは答えない。


 きっと彼女の沈黙は、肯定だ。だからジネットはただ目を伏せ、深く吐息を零した。



「ラルドルフ様が、礼拝堂でお待ちです」


「分かってる」



 言いながら、ジネットは歩き出す。礼拝堂の中へ入れば、既に祭壇の前にラルドルフは立っていた。昨日とは違う、純白の服に身を包んでいる。彼には少し似合わないな、とジネットは真紅の絨毯の上を進んだ。その一歩一歩の重さを足の裏から感じながら、ジネットは彼の隣に辿り着いた。


 彼は少しもジネットの方を見ようとしない。無理はないだろうな、とジネットは思う。本当はジネットだって彼の顔など見たくないだろう。彼が結婚する相手は王女であったヴァネッサであり、下町で意地汚く育った偽りの王女なんかではない。


 ジネットは顔を上げる。その視線の先に美しいステンドグラスがあった。きらきらと太陽の光を反射して、煌びやかだった。


 隣に立つラルドルフは身動ぎ一つしない。それを横目で見ながら、ジネットは耳に流れ込んでくる司教の声を聞いた。



「汝、ラルドルフ・フォルトナーは、ヴァネッサ・オーディアールを妻とし、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しきときも、死が二人を分かつまで愛し合うと誓いますか?」


「誓います」



 ラルドルフの声は鮮明に聖堂内に響く。



(うそ)



 ジネットは心の中だけでラルドルフをなじる。――こんな婚礼に意味はない。



「汝、ヴァネッサ・オーディアールは、ラルドルフ・フォルトナーを夫とし、健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しきときも、死が二人を分かつまで愛し合うと誓いますか?」



 司教の声がジネットへ向けられた。ジネットは唇を開き、だが何も言えずに閉じた。



(意味なんてない)



 そう思っている。思っているからこそ、口先だけの誓いなんて簡単にできるはずなのに、ジネットの口から声が出なかった。



「……ヴァネッサ」



 ラルドルフの囁きがジネットの背を押す。


 戸惑うことはできない。ここで断れば、きっとジネットは殺される。そんなことが分からないほどジネットは子供でもないし、無知でもなかった。



「……――誓います」



 告げた途端に全身が総毛立った。悪寒ではない、肌の上を這っていった寒気。


 ヴェールが外され、反射のようにジネットは瞼を下ろす。相手の呼吸を近くに感じた。その直後に、重なった唇。そこから伝わってくる相手の体温に、ジネットは一瞬だけ目元に力を込めた。



(気持ち悪い)



 唇が重なった瞬間に噛み千切ってやろうかと思ったが、ジネットは司教の手前どうにか耐えることに成功した。


 婚礼を終え、着替え室に戻ったジネットは婚礼服を脱ぐよりも先に自分の唇を乱暴に拭った。純白の袖口を真っ赤なルージュで汚して、ジネットは吐き捨てる。



「気色悪いわ」


「そうおっしゃらずに。素敵な婚礼でしたよ」


「そう。こそこそと見ていたのね」



 ジネットはリゼットに冷たく返しながらヴェールを投げ捨てる。



「あなたはわたしを主って言ったけど、もれなくわたしはあなたも嫌いだから」



 背後に立つリゼットが息を飲むのが分かった。その空気すら嫌気が差して、ジネットは大きく嘆息した。



「心配せずとも、ここには敵しかいないと思っているから大丈夫よ」


「ヴァネッサ様……」


「残念だけど、わたしの名前はヴァネッサじゃないの」



 きっとこのメイドも、あの王子様もジネットの名前を知らないだろう。


 悔しさに奥歯を噛み締めれば、重怠い痛みが生まれる。


 ジネットが髪を解くと、服を脱ごうとする彼女を手伝おうとリゼットは手を差し出した。だが、ジネットは彼女のその手を擦り抜ける。



「自分で着替えるから、あなたは外に出てて」



 リゼットは一礼すると部屋を出て行った。


 残されたジネットは服を脱ぎ始めて、ふとその動きを止めた。


 鏡に映った自分の顔。


 この顔は、本当にヴァネッサと瓜二つなのだろう。ラルドルフがそう言っていた。仕草や口調さえ真似れば、誰も気付かないのかもしれない。



(わたしは、ヴァネッサになるのかしら)



 脱ぎかけの婚礼服。だが、袖を抜けば現れる、ジネット右腕にはくっきりと切り傷の痕が残っている。これはヴァネッサではない、ジネットであるという証拠だ。憎い過去の傷痕であるというのに、こんな時には自分を慰めるものになるなんて一ヶ月前のジネットは露ほども思っていなかった。


 ラルドルフはこの婚礼に何を思うのだろう。


 この王家の中では全てがジネットにとっては敵だ。だが、ヴァネッサの代わりにと差し出されたジネットと大人しく婚礼を挙げたラルドルフは何を思い、何を考えているのだろうか。彼もこの王国ジェネフィードの未来でも思いやってくれているのだろうか。



「……」



 唇に残る、感触と温度。


 その自分の唇が、紡いだ言葉。



(「誓います」か……)



 口先で告げただけの誓いではきっと神から天罰が下るだろう、と神など一度も信じたことのないジネットは心中で嘲笑う。





 ――………





 婚礼を終えたラルドルフは深い息を吐きながら襟元を緩め、ソファーに身体を埋めた。使用人は全て下がらせた。あとは服を着替え、馬車に乗り、王城へ帰るだけだ。そう思いながらラルドルフは隻眼を静かに伏せる。その瞼の裏に今でもはっきりと思い出せる光景がある。まだ一ヶ月も経っていない、ヴァネッサとの会話だ。


 その日はいつもよりも気温が低かった。その所為か、ラルドルフの右目が疼くように痛んだ。その鋭い痛みにラルドルフが顔を歪めれば、それを見逃さなかったヴァネッサが首を傾げた。



 ――ラル?



 何でもない、とラルドルフは笑ったが彼女はそれでも心配そうにラルドルフを見上げていた。



 ――どうしたの? また目が痛む?



 そう言ってヴァネッサはラルドルフの右目に眼帯の上からそっと触れた。慈しむようなその手にラルドルフの中で静かな熱が滾る。


 右目は、昨年まで行われていた戦の最中で失った。幸いだったのがその右目を奪ったのが銃弾ではなくナイフだったことくらいだろうか。死にかけた兵士に留めをさそうと振り替えた剣。相手が自分と同年ほどだったために生まれた躊躇は一瞬だった。だが、その隙にまだ息のあったその兵士が最後の力を振り絞ってラルドルフの右目をナイフで貫いたのだ。その時走った激痛に刹那、呼吸の仕方すら忘れた。それでも自分の兵の困惑を最小限に抑えるためにその時のラルドルフは平静を装うことに務めた。


 右目を見事に貫いたナイフは彼の目玉を奪い去った。それからラルドルフはその右目を厚い眼帯で覆い隠している。


 その傷もまだ完全に癒えないうちに終わった戦。その足で、戦果を告げるためにやってきたジェネフィードでラルドルフはヴァネッサに出会った。そこで一週間ほど彼女と過ごし、気付けばラルドルフは彼女に恋をしていた。『泡沫姫』の愛称の通り掴みどころのない性格だったが、時折見せるやさしさと笑顔にラルドルフの心はあっという間に彼女の虜となった。


 戦場から祖国に帰った時、父から『泡沫姫』が自分の花嫁となるのだと告げられていた。その『泡沫姫』が彼女だと知り、彼がどれほどの歓喜を覚えたことか。



 ――ラル。



 瞼の裏で、夢の中で、出会う彼女はいつだって穏やかな声でラルドルフを呼ぶ。



 ――右目は痛い?



 彼女はそう言って何度も彼の身を案じていた。


 彼女の白く細い指、少し骨ばった手の甲。白い花の蕾を連想させる彼女の手は、いつも体温が低かった。ひんやりとした掌が、髪に、頬に触れるたびにラルドルフの中で彼女への愛しさは募っていった。息苦しいほどに、彼女を愛していた。


 つらくなるほどに目を合わせ、重ねた彼女の唇の感覚は戦争で傷付いたラルドルフの心を癒し、今でも彼の心を熱くさせる。


 一週間前、ヴァネッサは死んだ。


 何の別れの言葉も言えなかった。聞けなかった。


 王城に辿り着いた時には既に、棺に彼女の亡骸が納められていた。美しく化粧を施された彼女の顔は整えられていたが、唇の端や目尻には苦痛の色が滲み、隠し切れてはいなかった。その時着せられていた黒いドレスはあまりにも彼女の白い肌に合っていなかったが、彼女をいつものように茶化すような軽口を叩くことはできなかった。


 涙すら流れなかった。ただ指先で躊躇いながら触れた彼女の頬は硬く、やわらかな感触はどこにもなかった。死体に口付する趣味はなかったが、礼拝室からラルドルフに気遣って人が消えると、ラルドルフは彼女の紅を引かれた唇に自分の唇を押し付けた。ただ陶器のような、彼女。愛した人は、もうこの世にいなかった。


 手を握りたいというのに、指先は彼女の胸の上で固められて動かなかった。


 彼女の死に嘆く暇もなく、ジェネフィードの国王はヴァネッサの代わりを用意したとラルドルフに告げた。互いの国のことを考えてほしい、とも付け加えられた。それは何も知らないふりをして、偽のヴァネッサと婚約してほしいということだった。


 ゴーワズは戦を終えたばかりだ。戦には勝利し平穏を取り戻しつつあるが、戦に金をつぎ込んだため資金がない。国を再建するには資金が必要だった。そして、それを援助してくれるのは、ジェネフィードだった。


 断れるはずがなかった。


 自分の祖国のことを考え、ラルドルフは全てを黙認してただ首を縦に振るしかなかった。



(そういえば、)



 目を開け、ラルドルフは何気ないことのように、思い出す。



(あいつの名前を、知らないままだな)



 ラルドルフはヴァネッサの代わりとして王城にやってきた少女を思い浮かべる。


 知る必要は、ないのかもしれないが。


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