エピローグ
王国ジェネフィードの城下町の表通りの夜は今日も物寂しい。大通りでは今日も仕事を終えた人々が帰路を急ぐ。だが、そこから一本奥の道へ入れば、暗い路地裏が続いていた。
その細い路地にぽつんとある酒場。壊れかけの扉は耳障りな甲高い音を立てながら客人を迎える。しかし一歩中ヘ足を踏み入れれば、店内は薄汚れた外観とは違い、綺麗に手入れされていることが分かる。既に夜も更け、その酒場は繁盛していた。男達の呵々とした笑い声が響き渡っている。その様は、表通りよりも明らかに活気付いていた。
ジネットは店の奥にある自分の部屋で髪を結っていた。栗色の髪は、数週間前よりも艶を失っていたがそれでも美しかった。数日前に久しぶりに会った客には、随分と強い目になったなぁ、と不思議がられたがその秘密を教えはしなかった。
「ジネットー、お客さんからの指名だよー!」
店の方からエメの大声が聞こえた。ジネットは髪を高い位置で一つに結いながら店の方へ歩き出す。
「指名?」
「茶髪のハンサムなお兄さんから!」
その言葉にジネットは首を傾げる。
(茶髪の知り合い……)
茶髪の客はいる。だが、お兄さんと言われるほどの若さをした人物はいただろうか。
疑問に首を傾げながら店に出ると、客人の笑顔に迎えられた。グラスが空になっている初老の男性に新しい酒を勧めながらジネットは店の最も奥にあるテーブルへと向かった。
店の一番奥のテーブル。その丸テーブルは三人分の椅子があるが、その席についているのは一人だった。全身黒い服を着ているが、髪は確かに茶色い。鳶色のようなその髪をした男性は服の上から分かるほど精悍な身体つきをしている。だが、俯いて手許のグラスに視線を落としている所為で、彼の顔は分からない。彼のテーブルにはグラスの他にメニューとして用意されているジネットお手製のキッシュも置かれていた。
ジネットは自分の記憶を巡りながら、そのテーブルの傍に立った。と、彼が顔を上げる。
「……あっ」
「元気そうだな」
思わず声を上げたジネットに、客人は苦笑のような笑顔を浮かべた。髪色からは想像できないほどの漆黒の隻眼がそこにはあった。顔の右側が眼帯で覆われた、その青年をジネットは意外そうに眺め、やがて小さく笑った。
「下手な変装ね。なに、その髪?」
「ヴァネッサが幾つか隠していた鬘の一つを作り変えた」
そう答えたラルドルフの隣にジネットは座る。さり気なくジネットの分のグラスを持ってきたエメからそれを受け取る。中には酒ではなく水が入れられていた。
「ラルは、本当に国に帰らなかったのね」
水で喉を潤し、そうジネットが口にすればラルドルフは頬杖をついた。
「ゴーワズは兄が護っている。俺が護るのは、この国だ」
「奥方はいなくても?」
「娶れば良いだけの話だ」
酒を煽る彼が吐息を落とす。酒の匂いが辺りにふわりと濃く散った。その香りを感じながら、ジネットは思う。
この人もいつかは自分の隣を預けられる人を見付けて、この国の妃を選ぶのだろう。
伏せるように細めた視界の中、机の上に置かれた彼の右手を見た。武骨な手は、ジネットとは違い、骨ばっていて、国を守り、人を護ってきたものだ。
その手が持ち上がり、同じように机に置かれたジネットの手に重なった。
「ジネット」
吐息で薄まった声で彼女を呼び、彼は笑った。
「俺の母は、町娘だった」
その台詞でジネットは顔を上げる。
微笑んだ彼と視線が合った。息を飲んだ、ジネットにきっと彼は気付いていない。重ねた手に力を込め、彼女の手を掴み、彼は囁いた。
「待っている」
王城での最後の日と同じことを、彼は口にする。
その言葉を聞いた瞬間、心が震えた。それを誤魔化すようにジネットは笑う。
「いつまで?」
「いつまでも」
「いつまでも?」
「ああ」
「本当に?」
「本当に」
ジネットの双眸と重なった彼の隻眼をジネットは見つめ返す。彼の顔半分を覆う眼帯は昨年の戦で受けた傷だ。それを名誉の負傷と言う者がいることをジネットは知っている。だが、それで彼が傷ついていることも、ジネットは知っているから。
「……ラル」
ジネットは、テーブルに目を落として、続ける。
「この国が戦争をすれば、あなたは一番に戦場に行くでしょう。あなたの許に行けば、それをわたしは見送らなくてはならなくなる。……――でも」
そんなことできない、とジネットは言った。
「国のためと言われても、わたしはあなたのことを笑顔で見送ることなんてできない。きっと、泣いて、縋るように引き留めてしまう」
「それで構わない」
彼の答えは短かった。
それに顔を上げれば、困ったように苦笑する彼と目が合う。
「笑顔なんかで見送られたら、耐えられない」
嘘でも、彼は、戦がなくなるとも、戦に行かないとも言わなかった。
それが、彼の生きてきた世界なのだろう。
国を背負う覚悟というのは、きっとそういうものだ。ジネットにもそれは分かる。理解したくなくとも分かっていた。彼が国を捨てない人物であることは、ヴァネッサを失った後でもこの国に母国のため、やってきた彼を知れば直ぐに分かる。
ジネットは暫し瞳を閉じた。
ヴァネッサが死んで日も浅い。
彼はきっと恋情だけでジネットを王城へ誘うわけではないだろう。けれど、傍にいたいと願ってくれている。彼はジネットへの愛情はあるのだろう。それが恋情であるのかどうかは分からない。だが、素直に、嬉しい、とジネットは思う。
(すき、なんだ)
この人を、好きになった。
強くあろうと凛と背筋を伸ばして生きる彼を、ジネットは愛した。それだけを理由に、あの王城へ戻れるほど、ジネットは浅はかでも無垢でもなかった。
自分を不幸の生い立ちだと思うことは自分の全てを否定するかのようで、ジネットはそう考えることはしない。過去のつらさが今のジネットを作っている。
あの地獄のような日々は、ジネットの誇りだ。
あの日々で、ジネットは世の中を知り、そして人々の温かさも知った。その全ての日々を思い、そして、ジネットはゆっくりと唇を開いた。
「……わたしは、あなたに言った。『あなたの心が少しでも軽くなるように、わたしもがんばりたい』て……」
言葉を紡ぎながら開いた瞳で、ラルドルフを見た。真剣な表情の彼が真っ直ぐにジネットを見ている。その黒曜石のような瞳を見て、ジネットは言う。
「哀しみも傷付いた心も孤独も、全部消えることはないと思う。これからも、わたしも、あなたも、ずっと背負っていくものだと思う」
でもね、とジネットは言った。
「でも、分け合うことはできると思うの」
その背に幾多の血を背負い、傷を刻み、崩れそうになる日もあるだろう。それを消し去ることはできないだろう。だが、分け合うことはできる、とジネットは思う。
「全てを背負って、分け合って、前に進むことはできる」
彼の心が少しでも軽くなるように、ジネットは頑張りたかった。
苦痛を言葉にせずに、ただ、耐えるように暗闇の中にいる彼を見て、ジネットはそう思った。それは、きっと、今でも変わらない。
「戦に行くあなたを笑顔で見送ることはできない。戦場であなたが感じるものを同じように感じることもできない。でも、痛みを分けてもらうことはできる」
ジネットはあの王城での日々の中、きっと決して孤独ではなかった。それはきっと、彼がいたからだ。
今度は、ジネットの番だろう。彼の全てを癒すことなどできないかもしれない。けれど、それでも、彼の抱えている苦しみが少しでも和らぐことを願うから。
「あなたの痛みを、分け合うことはできると思いたい」
彼の目が少し。ほんの少しだけ、見開かれる。
そんな彼にジネットは笑いかけた。
彼と繋いだ右手に、ゆっくりと、想いが伝わるようにと力を込めて。
「ラルは、どう思う?」
言葉の代わりに薄く笑ったラルドルフの手が彼女へ伸びた。伸ばされた彼の指先は彼女の髪の先を一束だけ掴み、そして自分の方へ引き寄せる。
髪に落とされる口付けを、やはり、婚礼の儀式のようだ、とジネットは思った。
完




