(2)
謁見は、許された。
玉座の間に通されたジネットは玉座を見る。そこに国王が座っていた。その隣には王妃の姿がある。ラルドルフはジネットの後ろで片膝をつき、控えている。この空間で立っているのはジネットだけだった。
王と会うのは夜宴以来だった。否、こうして正面で向き合うのは生まれて初めてだろう。初めて国王を目前にして、ジネットは反射のように、逃げ出したい、と思った。彼の持つ威厳のような威圧感がそう思わせた。だが、ここで逃げたら駄目なのだ、と自分を鼓舞する。
ジネットはきっと、実父だというこの国王に抱き上げられたこともないのだろう。産まれて直ぐに捨てられたジネットは実の父だというこの男を見ても、喜びなど感じなかった。
ジネットを捨てるように言った男だ。だが、憎悪も畏怖も、何の感情も生まれない。ただ、彼の放つ圧迫感に足が竦みそうになった。
濃く皺の刻まれた顔。年齢よりもずっと年を取って見えた。それだけで彼がどれほどの重責を背負って生きているのか分かってしまう。その国王が、一つ吐息を落とした。
「自分のしたことが分かっているのか」
低く皺枯れた声だった。
怯えるな、自分を叱咤しジネットは口を開く。
「分かっています」
でも、とジネットは続ける。
「わたしは、ヴァネッサではないわ」
それが、ジネットの答えだ。
殺されるかもしれない、と瞬時頭を過る。今ならまだ勝手にヴァネッサに化けていたのだとジネットに全ての罪をなすりつけることは可能だ。リゼットとジュリエッタの罪を隠して、他人であるジネットに罪を全て被せることは可能だ。
ジネットはその考えを振り解き、言った。
「わたしはヴァネッサにはなれない」
「なれないとは?」
「……わたしは、この国の王女ではないから」
そう口にしたジネットは、ゆっくりと自分の過去を思い出す。
「わたしは産まれて直ぐにある町に捨てられました。そこで物心つく頃には奴隷のような扱いを受けました。一日の食事が掌の半分にも満たないパン切れ一つだったこともあります。それでも必死で生きていて、……――そんな時」
ああ、そうだ。
そんな折、ジネットの前に現れた少女がいた。
「小さな女の子に会いました。わたしと同じ年くらいの、綺麗なお洋服を着た女の子で。誰も近付かなかったわたしの傍に来て、仕事を手伝ってくれるって言ったんです」
靄がかかっていた記憶が澄んでいく。耳の奥で、瞳の奥で蘇る過去で、確かに、そう、彼女は手伝うと言ってくれた。
「結局は水が冷たくてできなかったみたいだったけど、でも、その気持ちだけで嬉しかった……その子は言ったんです。『絶対に迎えに来る』って。生きていて、て。だからわたしは、生きようと思ったんです」
だからジネットは生きていたかった。
生き抜いた先には必ず幸福な世界があると思ったのだ。初めて自分のことを好きだと言ってくれた、その喜びだけが壊死していたジネットの心を救い上げてくれた。
「必死で生きて、生き抜いて、そうしれば迎えが来る、と信じていました」
おかしな話だ、と思った。
思わず苦笑が浮かぶ。
「わたしには助けに来てくれる白馬の王子様はいなかったけど、可愛いお姫様はいたんです。自分と、そっくりの」
彼女と出会い、ジネットは生きることを誓った。また会いたいと思った。
初めて自分のことを好きだと言ってくれた、彼女を信じたかった。
「生きることに必死で忘れていたけど、彼女はきっとわたしの生きる希望でした」
あの日々の中で彼女はジネットの希望だった。赤く爛れた手を握りしめてくれた彼女の手は心まで届くほどに温かった。
「生きて生きて生きて。そうしたら、わたしを助けてくれる女性が現れました。手を握って、助けてくれて。それから一緒に暮らしたんです。もちろん、手伝いはしていたし、その前の家の時と暮らしはあまり変わりませんでした。でも、全く違うことがそこにはあったんです」
エメは、やさしかった。
本当の、母のように。
「彼女は、わたしを愛してくれました。大事にして、寒い日や寂しい時には一緒のベッドで寝てくれました。水が冷たい時には一緒に洗濯をして、お金がない時には一つのパンを半分に分けて食べました。でも、とても幸せだったんです」
あの日々は幸福だったのだ。
愛情を知らなかったジネットにとっては、天国のような日々だった。
ジネットは顔を上げ、国王を真っ直ぐに見た。その彼女の目にはもう、迷いも怯えも存在しない。
「ここには洗濯をするために手を入れなくてはならない冷たい水もお腹が痛くなるほどの空腹もありません。でも、わたしはここでは生きていけません」
ここはジネットの居場所ではない。
ヴァネッサの、居場所だった。
いつか迎えに来てくれる、とジネットに約束してくれた、彼女の。
真っ直ぐに国王の目がジネットに向いている。その彼の唇が薄らと開いていった。そのまま罪状が言い渡されるはずだった、――が。
「――国王陛下」
割り込むように流れ込んだのは、ジネットの後ろに控えていたラルドルフの声だった。思わずジネットが振り向けば、こうべを低く垂れたままの彼の姿があった。
「どうか、彼女に情状酌量の余地を」
続いた彼の声は緊迫感の漂う空間にはっきりと響く。
「王女を殺害した犯人を見つけ出した今回の一件は彼女の行動あってこそではないかと」
「……なぜ貴君がその者を庇うのか、問おう」
低い国王の声は、渋面の所為か機嫌が悪いように見えた。
その言葉に怯えていないかのように、それまで顔を伏せていたラルドルフが国王に顔を向けて、告げた。
「彼女は、私の妻です」
その言葉にジネットは奥歯を噛み締めた。
(やめて)
あなたまで、巻き込んでしまうかもしれない。
大切な人が傷つくのは、嫌だった。
罪を被せられるのなら、自分一人で充分だと、そう思ったのに。
「陛下、――」
耐えきれずジネットが口を開いた、刹那。
「失礼致します」
その声と同時にジネットの背後の扉が開かれた。
同時に背後で人が跪く気配。
「突然の無礼、お許しください。ですが、国王陛下。お言葉ですが、」
振り返らずとも分かる。
その声は、グランのものだった。
「僕だけではありません。彼女がヴァネッサではないと、彼女が申し出る以前から全ての使用人が気付いておりました」
グランの凛とした声は、言葉を重ねる。
「それでも、貴方のことを、この国のことを考えて皆黙っていたのです。ヴァネッサはこの世界に一人しかおりませんでした。誰も代わりにはなれないと、本当は貴方も気付いているのではありませんか」
その言葉に国王の瞳が一瞬だけ揺れた。
その国王にグランは言う。
「ヴァネッサはただの飾りではなかった。そして、彼女――ジネットも。誰かに愛されて、ここまで育ったのです。それをただの人形になど、例え貴方であっても許されることではない」
沈黙が重く降りる。
ジネットはそれに耐えきれず、俯いた。
(やだ)
今の行動で自分だけでなく、ラルドルフやグランまで罰を受けることになるかもしれない。彼らがそこまでして自分を護ってくれる理由が想像もできなかった。
(……――エメ)
自分ではどうしようもできない現状に、母を求めて心が軋んだ。涙がじわりと浮かびそうになった、その時だった。
「駄目よ!」
一際甲高い女性の声が響いた。
驚いてジネットが顔を上げれば、国王の隣の椅子に座っていたはずの王妃が立ち上がっていた。彼女はずんずんとジネットに近付いてくると、ジネットの肩に手を乗せた。怪訝に思うジネットに彼女は一瞬、大丈夫だとでも言いたげに微笑んだ。そして、国王へ睨むような視線を上げた。
「この子も、私の娘です」
凛とした声は、意志を持って。
「貴方に従い、貴方の言葉を信じることこそ、私の使命だと思っております。ですが、やはりこれだけは譲れません」
ジネットの肩に乗った彼女の手がぎゅっと強くなる。
「ヴァネッサもジネットも、どちらも私の娘なのです。私が、お腹を痛めて産んだ、私の子供です!」
声は耳が痛くなるほどの叫びだった。
だが、なぜだろう、ジネットの心には温かくやさしく溶けていく。
「もし、それでも駄目だとおっしゃるのなら私はこの子と共に逃げます。貴方が見付けられないところまで、逃げてしまいますから! そうしたら貴方は妃に逃げられた間抜けな国王ということになるでしょう! それでもいいの!?」
王妃の言葉の最後の方は滅茶苦茶だった。両目に涙を溜めて駄々を捏ねる子供のような王妃に国王は顔を右手で押さえて大きく嘆息する。
「……そのようなことができるわけがないだろう」
やがて国王が告げた言葉は、ため息と重なっていた。その声調や雰囲気が一気にやわらかいものに変わったのは王妃の所為だろうか。若くして夫婦になった二人は、まだ四十程度の年齢のはずだ。その年齢相応の空気を纏った国王は天を煽った。
「ヴァネッサは死んだのだ。分かっている」
国王は掠れる声で言った。
「だが、私にも理解できぬことはあるのだ」
突然に娘を失った父親とはどんな心情なのだろう、とその時ジネットは初めてふとそんなことを思った。ヴァネッサが死んで、まだひと月も経っていない。人を失った心の傷はそんな簡単に癒えるものではないだろう。実の娘なら、なおさら。
国王の瞳が再び鋭くなり、ジネットを捉えた。
「そなたは、ヴァネッサではない」
威圧感を伴った声のはずだった。しかし。
だが、と続けた声は少し、やわらかかった。
「その者は、そなたの母だ」
それが、きっと全ての答えだった。
国王は立ち上がると、そのまま玉座の間を出て行った。その背をジネットは扉に遮られるまで見ていた。
あの国王はジネットを認めることはないだろう。彼の中では今でもジネットはいなかった存在に違いない。
「ジネット」
呼び声は直ぐ、傍から。
顔を向けると満面の笑みを浮かべた王妃がいた。
「ジネット、これからはずっと一緒にいられるわ」
そう口にした王妃がジネットを抱き締める。過日の夜宴でも彼女はこうしてジネットを抱き締めてくれた。やさしい匂いで、少し懐かしい匂いで。ジネットの心をほぐしてくれる。
けれど。
「申し訳ございません、王妃様」
ジネットはそっと王妃から離れた。
「わたしは、ここには残りません」
「どうして……」
「わたしはただの町娘ですから。この国の王女は、今でもヴァネッサ一人だと思います」
彼女が実母であるのは事実だ。だが、それよりも大切な人が町で待っている。
「ごめんなさい」
「……貴女は、私の娘よ」
「はい」
ジネットは笑顔を浮かべる。
素直に、彼女の言葉が嬉しかった。
「ありがとうございます」
そのジネットの台詞に、王妃は静かに目を伏せた。




