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(3)

 リゼットは、今でも覚えている。


 あの日は、寒い冬の日だった。馬車を一つ調達したヴァネッサはリゼットを連れて、王城を出た。リゼットが国王と王妃が心配するだろうと止めたがヴァネッサは聞かなかった。だが、実際リゼットは彼女を止めても無駄だと分かっていた。


 リゼットとヴァネッサを乗せた馬車は城下町を抜け、その先にある森を抜け突き進んだ。


 二人の目的地はただ一つだった。ヴァネッサの妹がいる町が目的地だった。


 ヴァネッサに妹の存在を教えたのはリゼットだった。


 昔、リゼットの母は王城に仕えるメイドだった。この時には既に他界していたが、その母からリゼットはヴァネッサの双子の妹の存在を教えられていた。


 目的の町に着くと、二人は馬車から降り、町を歩いた。それから程なくして、小さな少女の姿を見付けた。


 町の外れにある家の表にその少女はいた。


 布切れのような粗末な服を着て、棒切れのように細い手首と指をしていた。何も食べていないのではないと思えるほどに細い体。同じ顔をしているというのにヴァネッサは上級品の服を着て、寒さを感じないほどの分厚いコートを着ている。


 吐き出す息は同じ白だった。


 リゼットはヴァネッサの後ろに立っていた所為でヴァネッサの表情は分からなかった。だが、彼女の布に覆われた手が痙攣するように動き、それからゆっくりと握られていくのを見た。


 ヴァネッサは凛々しい少女だ。自分が人に与える印象を知り、相手に笑顔と言葉を向けることのできる聡明な王女だった。だが、口数の多い方ではない彼女のことを理解できないという大人は彼女に『泡沫姫』なんて呼び名をつけていた。


 リゼットは幼い頃からずっとヴァネッサといる。ヴァネッサの従姉であるジュリエッタと三人で姉妹のように笑い合うことだってあった。だから、偏屈な大人たちよりも、ずっとリゼットはヴァネッサの心が分かる。


 ヴァネッサは今、悲憤しているのだ。哀しみ、それと同じくらいに自分と同じ顔をした少女の扱いに憤っている。同じ親から生まれ、同じ時に生まれ、同じ運命を背負うはずだった少女。ただ母体から生まれる順番一つで人生は、こうも違うのだろうか。決して王女は楽なものではない。けれど、これはあんまりだとリゼットも思った。


 少女は黙々と、井戸の傍で冷たい水に手を突っ込んでいる。ヴァネッサがそのようなことをしようとするものならば執事やメイドに叱咤されるに違いない。


 その時、ヴァネッサが少女に向けて足を踏み出した。それをリゼットは止めようとしたが、その手をヴァネッサはすり抜けて少女の傍に立った。



 ――何をしているの?



 リゼットの制止を無視してヴァネッサは自分と瓜二つの少女の隣に彼女と同じようにしゃがんだ。


 少女は桶に入れられた水でばしゃばしゃと服を洗っている。冬の水だ。氷のように冷たいその水に手を突っ込む少女の手は、目を瞠るほどに真っ赤だった。



 ――洗濯。



 少女は素っ気なく答える。


 冬だというのに彼女の切る服の生地は薄すぎるようだった。それとは正反対に、ヴァネッサの服は生地の良いものだ。市民とできるだけ同じものを、と着てきたはずだったがあまりも粗末な服を着た少女と並ぶと全く意味をなさなかった。少女の服はメイドであるリゼットの服よりも遥かに、みすぼらしい。



 ――ねえ、お名前は?



 ヴァネッサはせっせと洗濯に励む少女へ問う。



 ――……ジネット。



 少女――ジネットは小さく答えた。



 ――誰につけてもらったの?


 ――捨てられた時に入れられていた籠にそう書かれた紙が入ってたって、旦那様が言ってた。


 ――旦那様?


 ――家の主人。 


 ――ジネットはその人の子供じゃないの?


 ――……じょちゅう。



 女中、の言葉にヴァネッサとリゼットは言葉を失った。それに気付かない少女は言う。



 ――旦那様は、そう言ったわ。


 ――……そう。



 ヴァネッサの声は静かだ。静かすぎてリゼットは不安になる。彼女の心が壊れてしまわないかと不安で、怖かった。


 見守るリゼットの目の前で次の瞬間、ヴァネッサは腕まくりをした。



 ――私、手伝ってあげるわ。


 ――お嬢様……!


 ――リゼット、あなたは黙ってなさい。



 ぴしゃりと言い放ったヴァネッサは水の中に手を詰め込んだ。綺麗に整えられた指先は、荒れて赤くなったジネットとは全く違う。ヴァネッサは手を動かそうとして、顔を歪めた。



 ――っ……!



 あまりの水の冷たさに痛みを感じたのだろう、ヴァネッサは水中から手を引っ込めた。


 不意に、ヴァネッサの様子を横目で見ていたジネットが赤味を帯びたヴァネッサの手を掴んだ。彼女の手を両手で包むように持つと、自分の吐息を彼女の手に掛ける。



 ――……こうすれば、少しは平気になるから。


 ――あ、ありがとう。



 戸惑いながらも告げたヴァネッサは、けれどどこか嬉しそうだった。小さく笑顔を浮かべたヴァネッサは手を温めてくれるジネットをじっと見下ろしている。


 不意に、こんな姉妹になっていたのかもしれない、とリゼットは思った。


 互いを思い合える姉妹になれていた可能性だってあるのだ。笑顔で、今頃笑い合えていたかもしれないのに。


 同じことを、ヴァネッサも思ったのかもしれなかった。



 ――ジネット。



 今度は、ヴァネッサがジネットの両手を掴んだ。



 ――私、あなたのこと好きだわ。


 ――……え?



 ヴァネッサの言葉に、ジネットは目を白黒させる。ヴァネッサの考えていることが分からないのだろう。リゼットにも分からなかった。


 昔から、ヴァネッサはそうだ。何を考えているか分からない、つかみどころのない少女だった。そう、リゼットだって、本当は彼女の本当の心なんて、何も分かってなどいなかったのかもしれない。


 ヴァネッサは強い眼差しでジネットを見て、言った。



 ――好きだと思ったの。だから、いつか絶対に迎えに来るわ。


 ――お嬢様……!


 ――リゼットは黙っていて。



 ヴァネッサはジネットの手を握る手に力を込めて。



 ――だから、それまで生きていて頂戴。



 そう、やさしくも強い声で告げた。



 ――約束よ、ジネット。



 同じ顔をした、けれど境遇の違う二人の少女が見詰め合う。


 リゼットはそれを不思議な光景だと思って眺めていた。


 その少しの間、視線を重ねていた姉妹は、何かを感じ取ったのだろうか。ジネットが強く、こくりと首を縦に振った。


 言葉は少なかった。出会ってからの時間だって、短い。


 けれど分かり合えることが、あったのかもしれなかった。



 ――ジネット、絶対にまた会いましょう。その時は、私の友達になってね。


 ――うん、分かった。



 絡めた小指の意味を、きっとジネットは分かっていなかっただろう。だが、それでもヴァネッサは笑顔を浮かべていた。



 ――またきっと会えるから。



 それまで待っていて、とヴァネッサは最後にジネットにそう告げた。


 ヴァネッサはジネットの手から手を離すと、すっと背筋を伸ばして立ち上がった。



 ――行くわよ、リゼット。


 ――はい。



 その時のことを、リゼットはあれから八年経った今でも覚えている。


 自分の前を行く小さな自分の主人の背中も、くたびれた服を着た主人と同じ顔をした少女のことも。


 瓜二つの二人の少女の運命は交わらないはずだった。リゼットの母が実の娘にジネットが捨てられた場所を教えたのは、せめてもの国王への抵抗だったのかもしれない。その母の意思を継いだわけではないけれど、それでもリゼットはヴァネッサに教えてしまった。


 こっそりと王城を抜け出した二人の、それはたった一日の旅だった。その旅の最後に、ヴァネッサはリゼットに言った。



 ――ありがとう。



 あなたのおかげだわ、と少しだけ哀しそうに笑って、たった一人の王女は言った。


 その時、王女の胸を焼いた誓いをリゼットは知らないけれど。馬車に揺られながら盗み見たヴァネッサの横顔は、それまでにないほど凛と強かった。







 暫し記憶を辿っていたリゼットは閉じていた瞳を開ける。その両目に熱い涙を溜め、乞うように両手を握り締めた。



「……本当に、死ぬ、なんて」



 口から溢れ出るのは、懺悔。



「死ぬなんて、思わなかった……――」



 声は無様なほどに震え、視界も涙で歪んだ。


 顔を上げてリゼットが見たジネットは睨むようにリゼットを見ている。ヴァネッサにはなかった、強い生気の籠った目をした彼女はリゼットから視線を逸らさなかった。


 戦慄く唇。歯の根はかちかちと、噛み合わなかった。


 ジネットを王城で見た時から分かっていた。あの時の少女だと、直ぐに気付いた。


 ヴァネッサが必ず迎えに行くと誓った少女だった。


 だが、瞳の奥にあるものも仕草も全てがヴァネッサと違う。そう思い知るたびに、本当にヴァネッサは死んでしまったのだと、――自分が殺したのだと痛いほどに実感した。



 ――貴女は、私の友人よ。メイドだと思ったことなんてないわ。



 いつの日か、リゼットが自分の身を弁えると告げた時にヴァネッサは怒ったようにそう言った。



(ヴァネッサ様)



 やさしくしてくれた。


 友人だと言ってくれた。


 母と同じように、孤独に死んでいくと思っていたリゼットの傍にいてくれた。


 それなのに。



 ――リゼット。



 名を呼ぶのは、少し掠れた男の声。


 彼はたった一つ残った片目でリゼット映していた。


 その瞳に、リゼットは心を喰われたのだ。


 実際は自分が喰われたのだと錯覚しただけだった。だが、リゼットにとっての恋とは、心を喰われることだった。そして、リゼットの心を喰らっていった男はどうしても彼女の手には入らない人だった。


 王女も、彼も、どちらも大切だった。大事にしたかった。


 だが、やはり血は争えない。


 リゼットは恋に狂った母の子だったのだ。


 恋のために、全てを捨てられる女だった。


 そして、恋の苦しみから逃れるために、リゼットは心を悪魔に売った。


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