第一章(1)
腕の傷跡までは隠せなかった。
ジネットは無理やり着させられたドレスを見下ろしながら、一つ息をつく。長い袖の下には、幼い日に負った傷跡が残っている。それを見た時のメイドたちの蒼白とした表情を思い出して、ジネットはざまあみろと心中で毒づいた。
ジネットは大きな窓から城下町を見下ろしていた。つい先日までジネットもあの場所で生活をしていたのだ。だが、今はそこに紛れる一人ではなく、見下ろす側になってしまった。
彼女が現在いるのは、ジェネフィードの王城だ。
この場所で与えられた広々とした部屋は、それまでジネットが世話になっていたエメの酒場が二件以上は入るだろう大きさをしている。置かれた家具も傷一つない。ソファーからは触れたことがないほどやわらかく滑らかな手触りを感じた。肌触りの良い美しい色の服も、綺麗に梳かれた髪も、整えられた爪も、美しく施された化粧も、全てジネットが自ら行ったものではない。ちょこんと立っている間に、座っている間に、全ては今の形に作り上げられていた。
(まさかこんなことになるとは……)
細めた彼女の瞳が光の加減により灰色に見える。
逃げ出そうと何度か試みたが、全ては失敗に終わっている。最終的には、部屋に鍵をかけられ、閉じ込められた。窓から逃げ出そうと思えばできないこともないが、その所為で怪我でもしたら馬鹿らしいのでやめておいた。
(どうしよう……)
瞼を下ろしたジネットは本日何度目かになるため息をつく。
ジネットは一週間前、エメに頼まれて近所の酒屋に酒を買いに向かった。料理で使う酒がなくなってしまったので買ってきてほしいという彼女の頼みだった。店内の掃除も終えていたジネットは快くそれを引き受けると、酒屋に向かった。その途中だった。
――見つけた。
それは歓喜の声ではなかった。安堵の方が濃かったように思う。
え、と零れた疑問の声は後ろから口を塞がれ、奪われた。ジネットはそのまま抵抗する暇もなく、近くに停めてあった馬車の中に連れ込まれた。そうしてやってきたのが、このジェネフィードの王城だった。直ぐに今まで一度も拝んだことのないような豪華なドレスを纏わされ、この部屋に押し込まれた。
説明は、なかった。
なぜ自分はこの王城に連れ込まれたのか、ジネットは未だに知らない。まさかヴァネッサの影武者にでもさせられるのではないかと考えが過った。
エメの話によれば、ジネットは第一王女であるヴァネッサと瓜二つだという。
たった一人しかいない王位継承者のヴァネッサに影武者が必要なのではないだろうか。それならば、一生ここから出ることはできないのだろうか。その上、王女様のために死ななければならないのかもしれない。
(冗談じゃない)
ジネットの中で沸々と怒りが浮かび始める。握った拳は白くなっていく。整えられた爪が掌に刺さり、じんじんと響く痛みが広がった。
ここに来てからの一週間、何の説明もなしにマナーを叩きこまれた。抵抗すれば、容赦ない叱咤がジネットに振り下ろされた。その度に、ジネットは幼い日のことを思い出して、大人しく従うしかなかった。
(帰りたい)
エメのいる、あの町へ。
鼻が曲がりそうなほどの臭いだってあった。頬は煤けてしまうし、爪は汚れて黒くなる。服だって、ちっとも綺麗ではなかった。それでも、あの町がジネットは好きだった。酒場に来る人々と大声で笑い合って、礼儀もなく喋り合うあの空間が、愛しかったのに。
(どうして、こんなところに――)
ジネットのその思考は扉が開く音に遮られた。
ノックは、なかった。
唐突に放たれた扉。反射的に振り返ったジネットの目には一人の青年が映った。
ジネットよりも二つか三つ上だろうか。彼の羽織っている派手な上着は高価なものに違いない。短く切られた黒い髪。その髪と同色の瞳の色をしているが、右目は顔半分を隠すほどの大きさの眼帯で覆われていた。ジネットをゆったりと見下ろせるだけの高身だ。その彼がかつかつと黒いブーツの音を立てて部屋に入り込んできた。
鋭い彼の隻眼がジネットを見下ろしている。顔が半分隠れているが、それでも一目で分かるほどの秀麗さだった。怜悧さを感じる、彼の面。髪や瞳、服だけではなく、腰に差した剣までも黒い。闇を纏ったような人物だった。
「ヴァネッサ……」
男が口にした呼び名は、ジネットのものではない。
不快にジネットが顔を歪めると彼は怪訝そうにしていた顔を元に戻した。
「本当に瓜二つだな」
そう言って喉の奥で彼はくつくつと笑った。
「俺はラルドルフ・フォルトナー。お前の夫となる男だ」
ラルドルフ・フォルトナー。
聞き覚えのある名前だった。
そう、確か隣国ゴーワズの第二王子の名前がそれだったはずだ。その男がなぜ、今ここにいるのか、ジネットは分からない。それ以上に分からないのは、彼がジネットの夫となる人物らしいことだった。
彼はヴァネッサとジネットが別人であると理解していることは先ほどの発言から分かる。それなら、なぜ彼は初対面のジネットに自分が夫になるのだと告げたのだろう。
「わけが分からない」
「……何も聞いてないのか」
彼はそう呟くと、扉の方へ踵を返した。そして扉の向こう側にいたのだろう人を払うと、扉を閉めた。
「どうせ誰も説明などしないだろうな」
彼はジネットの傍まで歩み寄ってくると、彼女の隣に立ち止まる。そして、その背を冷たい窓に預け、天井を見上げると、彼は告げた。
「ヴァネッサは死んだ」
「……――え?」
あまりにも冷淡な声だった所為でジネットは自分の耳を疑った。
死んだ。
王女が、死んだ、と彼は言ったのだろうか。
「一週間ほど前、朝メイドが起こしに訪れた寝室で死んでいた。毒を飲んでいた。彼女の水差しに毒が盛られていたという話だ」
淡々とした声のまま、彼は続けた。
「ここで困ったのは、王と王妃だ。哀しむ間もなく、二人は王位継承権を誰に移すのか話し合う羽目となる。その時、思い出したのだ。――ヴァネッサには双子の妹がいたことを」
彼はやはりジネットの方を見ない。
見ないまま、ジネットさえも知らない真実を語った。
「昔から王家で双子が産まれると災厄が国に降り注ぐとされている。だが、生まれた子供は双子だった。そのために誰にも気付かれぬうちに、妹の方を処分することが決められた。――それが、お前だ」
ようやく彼がジネットを見下ろした。重なった視線。彼の口元には意地の悪い笑みが薄らと張り付いていた。
「できれば王も王妃も王位は自分の血筋の者に残させたい。第一、王女が毒殺されたなどと世間に知られれば恥だ。だからこそ、お前は再びこの王城に戻された。婚約者である俺と結婚させられるために」
彼の話を聞き終えると、ジネットは一度瞼を下ろした。思案するような間が数秒、沈黙となって流れた。
「……つまり、」
やがてジネットは唾を飲み込むと、探るように彼の瞳を見上げて言った。
「王女様が死んだから、双子の妹であったわたしの存在を思い出してここに戻し、あんたと結婚させられるってわけ?」
「そうだ」
何でこの男が自分すら知らなかった秘密を知っているのか、ジネットにはこの時そんなことはどうでも良かった。それよりも自分の目の前に突き出されたこれからの現実の方に気が向いていた。
自分はこれからどうなるのか。つまりは、この男と結婚させられるのだろう。
ヴァネッサの代わりとして、隣国の王子を花婿として迎えるのだ。
「わたしが王位なんて手に入れたらどうなるか考えなかったのかしら」
「まさか」
彼はジネットの独白を一蹴した。
「この国を動かすのは、王となる俺だ。お前は俺の隣で大人しくヴァネッサのふりをしていれば良い」
ジネットが口を噤めば、彼は再び彼女から上へと視線を戻した。気怠そうに、彼は低い、少し掠れた声で言う。
「唯一不愉快なのは、お前との間に子供を儲けなければならないことだが…まあ、そこは後々どうにでもなるだろう」
何も言い返してこないことを確認するようにジネットを眺めてから、ラルドルフは窓から背を離した。
「婚礼は明日。それまでにヴァネッサの仕草、喋り方、ダンスからマナーまで全てマスターしてもらう」
上着の裾を翻して歩き出したラルドルフは扉に向かう。その背に向かってジネットの手が伸びた。彼女は荒く彼の上着を掴む。
「ちょっと待ちなさいよ!」
声は、怒気で震えていた。
「わたし、あんたと結婚なんてしないわ。この国の馬鹿な王様をここに連れてきなさいよ!」
「……お前の意見が通るわけがないだろう」
ラルドルフは冷めた目でジネットを見下ろし、上着を掴んだままの彼女の手を払った。走った短い衝撃にジネットが彼の上着から手を離す。
「お前はこれからここで生きていく。それだけのことだ」
頭上から降り下ろされた彼の声は、冷徹だった。
再び歩き出したラルドルフの背を睨み付け、ジネットは叫ぶ。
「あんたとなんて結婚したくない!」
その台詞にラルドルフの足がぴたりと止まる。
ジネットはこちらに振り返る彼を見ずに自分の爪先に視線を落としたまま、続けた。
「あんただって、違う人と結婚すればいいでしょ! どうして、こんな――」
「黙れ」
遮ったラルドルフの声は強かった。彼に顔を上げれば、鋭い隻眼がジネットの心を貫いた。
「俺が好きでお前と婚礼を挙げると思うか?」
嘲笑するようなラルドルフの表情と台詞。
彼は残った隻眼で馬鹿にしたようにジネットを見ていた。たったそれだけのことだというのに、ジネットの中で何かが崩れていく音が、鮮明に響いたのだ。
過去と、エメとの生活と、ここでの日々。それが、彼女の目の前を駆けていった。
「……わたし、だって」
ジネットの途切れ途切れの声は次の瞬間、破裂した。
「わたしだって、好きであんたと結婚するわけじゃない!」
溢れ出す言葉は濁流のように、ジネットの声帯を震わし、舌を働かせた。
喉の奥が、重い。それが不快で、視界がじんわりと熱を帯びる感覚を振り払うようにジネットは声を荒げる。
「ずっとッ…ずっと町で生きていたかった……お金もごはんもろくになかったけど、でも、自由はあった。こんな馬鹿みたいなドレス着て食事のとり方も喋り方も仕草もマナーマナーマナー! ふざけ――」
「やめろ」
言葉はラルドルフの手で押さえ込まれた。
塞がれた声。ジネットは目前にあるラルドルフの顔を見上げる。
「……分かった。俺が悪かった」
そう言った彼は眉を顰めていた。不機嫌ではなく、申し訳なさそうなその表情にジネットはさらに続けたかった言葉を飲み込むしかなかった。同時に喉の奥に引っかかる飴玉のような硬い感覚も腹の底にどうにか落とす。
彼の掌がジネットから離れていく。
「……お前がヴァネッサではないことくらいは理解してる」
彼はその一言を落とすと、それ以上何も言わずにジネットに背を向けて部屋を出て行った。
ジネットはその彼の背中をもう引き留めることができなかった。
最後に見た彼の顔がジネットの網膜に焼き付いて離れない。
傲慢そうな声と、鋭い隻眼。それからは想像できなかったほどの、寂しそうな、悲愴な表情。
それが、ジネットの中に強く、濃く刻み込まれた。