第五章(1)
ジュリエッタは激しくドレスの裾を翻しながら暗い廊下を歩いていた。昼間の苛立ちが今も消えないのだ。
現在のヴァネッサが替え玉であることを迫っていたらラルドルフに邪魔をされてしまった。右目しかないにも関わらず、彼の眼光は唸る狼のように鋭い。目が合った、それだけのことなのに殺されるのではないかと思った。
(あれは人がする目じゃないわ)
国王もとんでもない人物を婿に貰ったものだ。あんな目ができるような人物だから先の戦の英雄になれるのだ、とジュリエッタは心中で毒吐く。
だが。
ヴァネッサがこの王城にいないのだとすれば、王位継承権はどうなる。もしかしたら兄のものになるのではないだろうか。
ジュリエッタは兄であるグランのことが大好きだった。勘の良い母には、病気なのではないか、と何度叱責されたことだろう。だが、それも何らつらくなどなかった。兄の傍にいられれば、兄のやさしい笑みを誰よりも傍で眺めることを許されるなら、それだけで幸せだ。だってこの世界でジュリエッタの味方は兄一人だ。小さい頃から優しく笑って、いつも傍にいてくれた。どんなジュリエッタでも受け入れて、優しく頭を撫でてくれた。そんなグランこそ王に相応しいはずだ。
王城の、グランが泊まっている部屋の前に着くと、ジュリエッタは扉を叩いた。中にいたグランは相手がジュリエッタだと気付いていたのだろう、どうぞ、とやわらかな声が直ぐに返って来た。
「お兄様、聞いて!」
ジュリエッタが中に入ると同時に言えば、グランがジュリエッタに顔を上げた。窓を開けてバルコニーに出ていた彼は小さく苦笑している。
「まったく。相変わらず騒々しいね、お前は」
困ったように、けれど笑って彼は言う。
「どうしたんだ、ジュリエッタ」
やさしい微笑に導かれるように、ジュリエッタは兄の隣に並んだ。
「聞いて、お兄様。あたし、とんでもないことを知ったのよ」
「とんでもないこと? 何かな?」
そう問いかける兄の手許には本も何も暇つぶしになりそうなものはなかった。きっと今日もこの場所からのんびり星空でも見上げていたのだろう。そんな兄にジュリエッタは笑顔を浮かべて、告げた。
「あのヴァネッサは替え玉だったのよ」
その台詞に兄の笑顔が固まったが、ジュリエッタはそれに気付かずに続ける。
「今、王城にいるヴァネッサの右腕には傷痕があるの。おかしいとは思っていたのよ。前々から鼻に突くような物言いはしていたけど、最近は特に。品がなかったのよね」
「……」
「お兄様?」
グランは何も言葉を返してくれなかった。ジュリエッタは不安になって首を傾げる。
やがて、彼は深い、呆れのようなため息をついた。
「ジュリエッタ……どうして、お前はそんなにヴァネッサを毛嫌いするんだい? 昔はあれほど仲が良かったじゃないか」
「それはっ……」
確かに、ジュリエッタも昔はヴァネッサと仲が良かった。本当の姉妹のように笑い合ったこともあったのだ。だが、それが突然変わったのだ。
ジュリエッタではない、ヴァネッサが十年程前から変わってしまった。
その理由が分からなかったジュリエッタは、彼女に嫌われたのではないかと思った。そう思ったら、もう、今まで仲良かった故に接し方が分からなくなった。そして、相手の粗ばかりを探し始めてしまった。
「ヴァネッサは良い子だと僕は思うよ」
――そんなこと知っている。
ジュリエッタは反射的に思った自分の心に苛立ち、鋭く息を吸い込んだ。
「あれはヴァネッサじゃないわ!」
「ジュリエッタ……」
空気を破裂させるように叫んだジュリエッタにはグランの少しだけ不機嫌に歪んだ顔が向けられる。
「あ、あの女はヴァネッサじゃないのよ! ヴァネッサにそっくりの女なだけよ!」
ヴァネッサではない。
ジュリエッタの知っている、ヴァネッサではなかった。
「ヴァネッサはいないのっ」
怪訝そうな兄にどうにか笑ってほしかった。笑わない兄は途端に自分の知らない人物のように見えて怖くなる。
そんな目を向けないで。そんな顔で私を見ないでほしかった。
ジュリエッタは彼の腕を掴み、無理やり浮かべたひずんだ笑顔を彼に向けた。
「これが世間に知られれば王位継承権はお兄様のものになるわ! そうよ、はやくみんなに――」
「ジュリエッタ」
彼女の声を遮ったグランの声は、冷たかった。
「僕は、王位継承権なんてほしくないよ」
「どうして……!」
「このまま、何者にもならないまま暮らしている方が僕は好きなんだ」
「でもっ……!」
「それに」
彼は腕を掴むジュリエッタに自分の手を重ね、言った。
「僕は、彼女が本当のヴァネッサではないと知っていたよ」
「え……?」
「夜宴の日には既にすり替わっていたね」
細めた兄の眼は鋭い。全てを見透かしたような目をするのは、本当は彼が賢い証拠だ。自らの賢さを隠し、無精者を演じる理由をジュリエッタは知らない。それは禁忌の扉をこじ開ける行為のようで、ジュリエッタは指先一つ触れることができない。だからこそ喉の奥に声を絡め取られて、何も言うことができなかった。
「それがどういう意図で行われているのか、僕には分からない。でもね、ジュリエッタ」
言い聞かせるような声で話していた彼が訝しげに自分と同じ色をしたジュリエッタの瞳を覗き込む。
「彼女が本物のヴァネッサではないとして、それでヴァネッサを心配するのは分かるけど……お前はそれが少し違うようだね?」
ジュリエッタの目が見開かれる。それがどんな感情から来た反応なのか、ジュリエッタ自身にも分からなかったけど。
「ヴァネッサの身を案じても、僕は王位継承権の心配はしないよ。ジュリエッタ、お前は不謹慎すぎる。僕はそんな品のない女性は嫌いだ」
「っ……!」
兄の言葉は、ジュリエッタの胸を裂き、血を滲ませる。
唇を噛み締め、ジュリエッタは俯いた。涙は出ない。悔しさに胸が焼け爛れてしまいそうだった。
「このことは口外してはいけないよ。良いね、ジュリエッタ?」
「…………はい、お兄様……」
頷けばやさしい兄が髪を撫でてくれる。
その長い金色の髪で顔を隠し、ジュリエッタは俯いていた。視界に映る自分の手は、普段よりもさらに白く、拳を作って震えていた。