(4)
ラルドルフの手には、開かれないヴァネッサの日記がある。燭台の明かりが揺らめく形を作り、暗い表紙に影を落としていた。
彼は自室でソファーに座っていた。部屋には彼一人で、ジネットの姿はない。この部屋は、きっと母国の自室よりも狭いだろう。それにもかかわらず、なぜこれほどまでに広く感じるのか。
深い吐息を落とし、ラルドルフは視線を右へと流した。右の景色は欠けている。黒い布に塞がれた眼窩に映る光景は、花の匂いと血腥さが交互に繰り返されている。完全に暗闇へと落ちれば、この右目を裂いた男の顔がみるみるうちにはっきりと蘇った。
幼い頃から剣術は得意だった。兄よりも気性が荒く、お前は戦場に向いている、と国王は嬉しそうに語っていた。
――英雄だ。
戦地から帰ったラルドルフに向けられた台詞は、眼球に突き刺さった短剣よりも酷薄な痛みを彼に与える。その痛みと向き合い、血の臭いに身体を浸し、生きていくのだろう。この背に数え切れぬ血を背負い、国を守るのが自分の務めなのだ。
それでも痛む心は、どう殺せば良いのだろう。
つらさは、表情にも言葉にも出さないと決めた。そうして生きていくことが、血税を払い食物を無償で与えてくれる民に自分が唯一返すことができることだと、ラルドルフは知っている。
「ラル?」
扉が開く小さな音が聞こえてからややあって、ジネットの声がラルドルフの耳を撫でた。直ぐ傍らで足音が止まり、衣擦れの音。彼女が腰を折ったのだと感じた。
「右目、痛いの?」
「……いや」
目を開け、彼女を見ると心配そうな顔がそこにはあった。その場にしゃがんだジネットの顔を見下ろす。炎の影の所為だろう、泣き出しそうな顔だと思った。
逡巡するような間が、あった。
瞬きが、ゆっくりと三つ。彼女は深く息を吸うと、ラルドルフを真っ直ぐに見上げて言った。
「ラルは、ゴーワズでは『英雄』だったの?」
暗闇に溶けて消えていく、彼女の声にラルドルフは笑いそうになった。
「……誰から聞いた」
「グランから」
あのお節介焼きならあり得るな、と納得してソファーに背中を預ける。
「……英雄、か」
それは決してラルドルフにとって褒め言葉でも、誇りでもない。消えない傷痕のようにこれからも彼に纏わりついていくのだろう。
「お前は、英雄が素晴らしく見えるか」
「……分からない」
何気なしに投げかけた言葉に返って来たジネットの声は少し弱かった。自分の足元に視線を落とした彼女の旋毛が目に映る。
「戦争をして、苦しんだのなら、その言葉が良いものなのか、わたしには分からない」
甘い考えでしょう、とジネットは苦笑する。
「ラルは、苦しかったの?」
問いかけは、静かに。
労わるような声がラルドルフの鼓膜を揺らした。
痙攣するように彼の表情は暫し固まっていたが、やがて。薄く妖艶な笑みを浮かべた。
「さあ?」
いつもの固い声質が、彼の声帯を震わせる。
曖昧な言葉で誤魔化せるだろう、と思った。
それなのに。
ジネットは冷えた手でラルドルフの手を包んだ。冷たい体温だというのに、そこから感じたのは慈しみにも似た感情。
「大丈夫よ」
彼女の声はやわらかかった。
「わたしは、あなたのことを英雄だなんて言わない」
彼女の顔には微笑が浮かんでいたが、泣き出しそうだと思った。笑顔で感情を誤魔化すのかと静かに思うラルドルフの手を、彼女の手がぎゅっと先ほどよりも強い力で包む。
「わたしは、戦なんて分からない。でも、あなたは悪くないと思いたい」
ラルドルフは何も言わなかった。口を閉ざして彼女を見下ろしていれば、重なった視線を外さずに、彼女が口を開く。
「戦争は経済を回すのだとグランが言っていたわ。それで世界は保たれる、て。でも、」
自分は、冷めた目で彼女を見ているだろう。妙にぼやける脳で、ラルドルフはそんなことを考える。
伏せた瞼に、意味などなかった。
心を読まれるような感覚から逃れたかったのかもしれない。
彼女の青の瞳は、相手の心を読むような深さがあった。
「でも、それで人が傷付くのなら、世界を保つことはそれほどまでに重要なことなの……?」
その問いに答えられる人など、いるのだろうか。
苦しみ、もがきながらそれでも闘うのだ。この国を守ると、そう決めた時から。
開いた目で、ラルドルフはジネットを見る。
「……ジネット」
「あなたはわたしを護ると言ってくれた」
ラルドルフの声に重なったジネットの声は震えていた。彼の痛みを分かつように、震えて、濡れていた。
握られた手が、熱い。
再び目を伏せたラルドルフの身体を包む、匂いが、あった。
「だから」
声は直ぐ近くに。
背中に回った腕は、想像以上に華奢だった。
「あなたの心が少しでも軽くなるように、わたしもがんばりたい」
彼女が今、何を考え、なぜ抱き締めるのか。
ラルドルフの思考では、分からなかった。
彼女との婚姻は国のためだった。
彼女は無理やりこの王城に連れて来られたはずだ。
それならば、なぜ、彼女は今、慈しむように抱きしめるのだろう。
ジネットと寝台に入り、背を向けて目を閉じる。彼女は一人が怖いのだと言ったが、既に彼女の心が想像もできないラルドルフにはその理由が本当か否かは判断できなかった。
背越しに、人の気配を感じる。目を閉じればヴァネッサの残像があった。数日前よりも、ヴァネッサの声も顔も温もりも、随分と遠く、薄く感じる。
あの日。
――ラル。
ヴァネッサは庭で太陽の光を体いっぱいに浴びていた。庭にはラルドルフとヴァネッサ以外はいない。静かな空間に、鳥の囀りが響いた。
ラルドルフが雲の流れを目で追っていたら、ヴァネッサが言った。
――もし、私がもう一人いたらどうする?
――は?
――その私にも、やさしくしてくれる?
ラルドルフには彼女が何を言わんとしているのか、分からなかった。怪訝に眉根を寄せていれば、彼女は小さく笑った。
――ラル、あのね。
秘め事なのだろう、彼女はラルドルフの耳に唇を寄せた。吐息と共に彼女は声を彼の耳へ送る。
――私にはね、妹がいるのよ。
私とそっくりなの、とヴァネッサは自慢するように笑った。
――だからね、もし一緒にいられる日が来たら、その子とも仲良くして頂戴ね。
何の冗談か、当時のラルドルフには分からなかった。彼女は遂に頭が本当におかしくなったのではないかと思った。だが、彼女の顔に浮かぶ笑顔に向けて毒を吐くことはできず、彼はただ首肯した。
それから数ヶ月後、ラルドルフはジネットに出会った。ラルドルフはジネットを見た時に決めたのだ。本当に、ヴァネッサと瓜二つの少女をその隻眼に映し、決めた。
ヴァネッサが共に生きることを切望していたこの少女を護ろう、と。
自分の妻になるのなら、愛することもできる、と。
それは彼なりのヴァネッサを失った哀しみを埋めるための決意だったのだろう。
(ヴァネッサ)
どれほど唱えても、もう彼女には届かない。
届かなくても良い、と思う心がある。神の許に召されれば、彼女の魂は報われるのではないだろうか。こんなところに縛り付けておく必要は、ないのではないか。
背を向けていた方へラルドルフは身体を向ける。そこには小さく細い背中があった。
――あなたの心が少しでも軽くなるように、わたしもがんばりたい。
同情なのだろう。だが、その彼女の言葉に彼の心が震えた。理解されたいとも理解されたとも思わない。それとは違うものに、心が震えたのだ。
「……――ジネット」
彼女の髪を一束、そっと手に取った。その長い髪の毛先に口付ける。
この国には、母国を護るために来たはずだ。その覚悟を持って、ヴァネッサに化けたこの少女と婚礼まで挙げたのだ。
それなのに。
――二人での逃亡生活なら文句あるまい。
あの言葉を告げた自分の心に、嘘があっただろうか。
恋情ではないかもしれない。自分の方こそ、同情かもしれない。
簡単に人を好きになれるほど自分が単純でないことも、捻くれた性格であることも自覚している。
けれど。
ヴァネッサの死の真相を知りたいと願う強さと等しく、この少女を生かしたいと思った。