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(3)

 昼食を済ますと、ジネットはラルドルフの部屋に行った。部屋ではラルドルフがソファーに座って本を読んでいた。彼はジネットが部屋に入ることに慣れてしまったのか、気にしていない様子で本に視線を落としたままだ。ヴァネッサの手紙を取りにきたジネットは手紙を隠した枕にちらりと目を向けるが、彼がいては手紙を取り出せない。隠し場所を失敗してしまった。


 どうしようかと悩んでいると、そのジネットにラルドルフの声が投げられた。



「……何しに来た」


「え、あ、いやー……」



 ジネットは何と答えようか迷って、目を泳がす。だが、ハッとするとぎこちない笑みを浮かべてラルドルフに顔を向けた。



「あ。ラルは食べ物で何が好き?」


「誤魔化すために俺の好物を訊いてどうする?」


「べ、別に誤魔化すためじゃなくて、作ってあげようと思っただけよ」


「作る……?」



 図星をさされて慌てたが、それよりもジネットの台詞にラルドルフは気を取られたようだった。彼は眉を寄せて難しい顔をしている。


 その彼にジネットは得意そうに頷いて見せた。



「わたし、料理できるのよ。エメの店でわたしの料理が出されていたんだから」


「食えるものなら良いがな」


「あのねー……」



 この男が毒舌家と呼ばれていたことをすっかりと忘れていた。そんな軽口を叩き合える時間すらなかったこともまた事実だが。改めて目の前で返されると、自然とジネットの腹が苛立ちで沸いた。


 ジネットが同じように嫌味でも返してやろうと思案していると、ふっとラルドルフが穏やかに息をついた。


 だが、と短く彼は続ける。



「キッシュは嫌いじゃない」



 その台詞でジネットの苛立ちは静かに失せた。彼が質問に返してくれたことに対する喜びと、それから驚き。



「王子様でもキッシュなんて食べるの?」


「……悪いか」


「悪くない」



 ゴーワズでは王子でも庶民と同じ食事をするのだろうか。そう疑問に思っていると、彼は面倒臭そうに吐息を一つ落として、言う。



「俺の母は民の出だ」


「民、て……貴族じゃないの?」


「ああ」



 彼の話によれば彼の母は街で働いていたところを彼の父である当時の王子に見染められたのだという。彼の国では国内の差別が殆どないのだそうだ。そのため、彼の母は一般人の身ながら王妃になったのだった。



「城にいる時には母が作っていたものを食べたことがある」


「おいしかった?」


「想像以上に不味かった」



 随分とはっきりと言う。



「……が、嘘でも美味いと言えば喜んでいた」



 ラルドルフの声には殆ど感情の変化はない。彼は表情一つ変えずに読んでいる本のページを捲った。



「じゃあ、今晩はわたしがキッシュを作ってあげる」



 その彼に言えば、彼の隻眼がジネットに上がった。それを見てジネットは告げた。



「ただし、わたしの料理の感想に嘘はいらないから。素直に美味しい、て言っていいのよ」



 ラルドルフはそれに短く笑った。



「それで、」



 彼は本を閉じるとジネットに目を戻す。



「お前は何しにここに来た?」


「……用がないと来ちゃいけないの?」


「用がなくともお前は来るのか?」


「……」



 さて次はどうやって誤魔化そう。


 ジネットが考えていると、扉がノックされた。



「誰だ」



 ラルドルフが誰何すると、リゼットの声が返って来た。彼に部屋に入ることを許可されたリゼットが扉を開け、中に入ってくる。



「ヴァネッサ様」



 リゼットはジネットを見付けると傍に寄った。そして、その手に持った本のようなものをジネットへ差し出す。



「お部屋からこれが」


「これは?」



 赤紫色の表紙だ。本のように見える。



「ヴァネッサ様の日記かと思われます」



 ジネットがそれを受け取ると、リゼットが言った。



「お教えした方が宜しいと思いまして、お持ち致しました」


「……そう」



 ジネットは日記の表紙を眺めていたが、やがてリゼットに視線を上げた。



「ありがとう」


「それでは、私はこれで」



 一礼したリゼットは静かに部屋を出て行った。



(ヴァネッサの日記か……)



 そっと赤紫色の表紙を撫でた。ここには彼女の日々が綴られている。


 見ることに罪悪感はある。だが、ここには彼女を殺した犯人を示すことが書かれているかもしれない。


 ジネットはラルドルフを見た。こちらを見ていた彼と目が合う。



「日記見るでしょう?」


「……見ない」


「どうして?」


「……」



 ラルドルフは答えない。それを見るとジネットは右手を彼の方に出した。



「じゃあ、じゃんけんで決めましょう」


「じゃんけん?」


「ラル、じゃんけんを知らないの?」


「知ってる」


「じゃんけんで、ヴァネッサの日記をどちらが見るか決めればいいじゃない」


「そんな安易な……」


「だって、見れば犯人が分かるかもしれないのにラルがそうやって駄々を捏ねるから」


「俺がいつ駄々を捏ねた?」


「今よ、今。たった今」



 そこまで会話をしたところで、ラルドルフが深いため息を吐いた。



「俺は、読まない」


「どうして?」


「……」



 彼が黙り込む。


 口を閉ざした彼にジネットはむっとして、日記の表紙に手をかけた。



「じゃあ、良い。わたしが一人で見るから」


「ジネット」



 制止の声は、鋭かった。


 ジネットが睨むように見れば、鋭い隻眼がこちらに向いていた。



「……死人の日記を読んで何が楽しい」


「だってっ」



 思わず裏返った声で、ジネットは口を閉ざす。冷静さを取り戻すように深い呼吸を一つして、ジネットは言った。



「これを見れば、何でヴァネッサが死んだか分かるかもしれないじゃない」



 ジネットはヴァネッサの死の真相を知ると決めた。ラルドルフだって、同じなのではないのか。


 顔を顰めるジネットに呆れたような表情をしてラルドルフは立ち上がった。彼は本を目前のテーブルに置き、ジネットの方へ闊歩する。怒られるのかと身を固めたジネットの手から、彼はすっとヴァネッサの日記を取り上げた。



「これは俺が預かる」


「え、ちょっと……!」



 驚くジネットを置いて、ラルドルフは扉に向かう。



「ラルっ」



 その彼の背に声をぶつけてみたが、彼は振り返りもしなかった。そのまま、彼は部屋を出て行く。



「ラルのばか!」



 ジネットは思わず近場にあった枕を既に閉められた扉に向けて投げつけた。その拍子にヴァネッサの手紙がひらひらと宙を舞い、虚しく床に落ちた。



「……ばか」



 ラルドルフはヴァネッサの死の真相を知りたいのではないのか。もし独り占めしてあの日記を読みたいというのなら、それも仕方ないかもしれない。だが、読まないという彼の選択肢がジネットには理解できそうになかった。


 むすっとした表情のままのジネットは床に落ちたヴァネッサからの手紙を拾う。埃がついてしまった気がして、何となく表面を叩いておいた。


 ジネットの手の中にあるのはヴァネッサから送られた手紙だ。この手紙の存在をラルドルフが知れば、同じように取り上げられてしまうのだろうか。


 そう思いながらジネットは手紙をベッドの隣にあるナイトテーブルの引き出しに仕舞った。その時、再びノック音が部屋に響いた。



「誰?」


『リゼットです』


「入っていいわよ」



 ジネットの言葉を聞いたリゼットが扉を開けて現れた。



「ラルドルフ様は……?」


「さあ。お腹でも空いたんじゃないかしら」



 ジネットがそう答えると、リゼットは小さく笑う。それにジネットが首を傾げていると、彼女は笑いを抑えようと努めながら言った。



「ヴァネッサ様もラルドルフ様と喧嘩をなさるとそのようにおっしゃっておりました」


「……わたしはヴァネッサじゃないわ」



 不貞腐れたようにリゼットに返してジネットはソファーに座る。そんなジネットにリゼットは困ったような表情をしていた。そんな彼女を見てジネットは罰が悪い気分になる。



「……そうだ」



 ジネットはぽつりと呟くとリゼットに視線を向けた。



「リゼットは、何かヴァネッサのことを知ってる?」


「ヴァネッサ様のことですか?」


「ええ。リゼットしか知らないヴァネッサが知りたい」



 日記なんて読まなくても、ヴァネッサの過去を知る方法はある。彼女の動向に犯人を探る手がかりだってあるかもしれないのだ。


 ジネットが向かいの席を勧めれば、リゼットは戸惑いながらもそこに腰を下ろした。そして、少しだけ寂しそうな笑顔を浮かべて言う。



「ヴァネッサ様はよく城下町に遊びに行っておられました」


「城下町に?」



 王女が城下町に下りることは許可されているのだろうか。それ以前にジネットは城下町で自分とそっくりな少女を見た覚えはなかった。


 城下町はさほど広くはないだろう。小高い丘の上にできた王城の向かいに広げられたようにできた町のさらに向こう側には森がある。そこを抜けて歩き続ければ次の町に行ける。世間で城下町と呼ばれる町自体は然程広くはないのだ。中央の広場には立派な噴水があり、表通りは店が並び活気付いている。だが、一歩路地裏に入れば暗い通りが続いている。その路地でジネットは暮らしてきたが、表通りに出ることも度々あった。


 首を傾げたまま考え込んだジネットに、リゼットは戸惑うように口を開閉させる動作をした。だが、やがて意を決したように、言った。



「『エメ』という酒場へ遊びに……」



 それはジネットが過ごしていた場所だ。夜、店を開ける時にはジネットは必ず店の手伝いをしていた。エメに拾われてから、この六年近くずっとだ。



「真黒の鬘を被って、眼鏡をして。覚えていませんか?」


「え……」



 その姿の少女にジネットは覚えがある。月に一度程度のペースであったが、自分と近い年代の少女があの酒場に来るのは珍しいことだった。だが、その少女は『クロエ』と名乗っていた。もちろん、王女が実名で城下町に遊びに行くことはないだろう。それは理解しているが、あんな路地裏にある酒場に王女が遊びに来る理由が思い当たらない。その上、生きているヴァネッサに自分が会っていた、だなんて。



「ヴァネッサ様は、貴女に会いに行っておられました」



 ヴァネッサの手紙には、ジネットに会ったことがあると書いてあった。八歳の時に、会ったことがあると。その当時からヴァネッサはジネットのことを近くで見てきたのだろうか。だからこそ、ヴァネッサは酒場にも現れていたのかもしれない。


 それならジネットだって、覚えている。黒髪の、眼鏡をした少女を覚えている。


 月一回の会合をいつだってジネットは楽しみにしていた。他愛のない会話をしたのだ。恋人がどうだとか、彼女はいつだって少しだけ怒ったように、けれど幸せそうに微笑んで話していた。あの恋人とは、ラルドルフのことだったのだろう。


 唇が戦慄いた。感動なのか、驚愕なのか。それは判別できなかったが、ジネットの心は体まで震わすほどの感情を感じていた。



「……わたしのこと、どうして知っていたのか知っている?」


「昔、会ったことがあるのです」



 リゼットはそう言って視線を自分の手許に落とす。訥々と昔を思い出すように目を細め、彼女は続けた。



「まだヴァネッサ様が八歳の頃です。たまには馬車に乗ってどこかに行きたいとおっしゃったヴァネッサ様と一緒に私は出掛けて行きました。そこで、働いている貴女にお会いしました」



 そのことは、覚えていない。幼い頃は、生きることだけで精一杯だったのだ。



「覚えてないのかもしれませんが、」



 目を伏せたジネットにリゼットのやわらかな声がかかる。



「ヴァネッサ様は、貴女と約束をしたのです」


「約束?」


「はい」



 顔を上げるとリゼットの瞳と視線が重なった。


 彼女は哀しそうに目尻を歪めていた。



「……――必ず、」



 絞り出すように掠れた声で。



「必ず迎えに来るから、と」



 そう言ったリゼットは涙で潤んだ瞳を閉じた。



「ヴァネッサ様は、貴女ことを愛しておりました。悔いておりました」



 立ち上がったリゼットはジネットの傍に膝をついた。



「いつか一緒に暮らす日が来ることを願っていました」



 リゼットがジネットの手を両手で包む。神に願うように手を組み、彼女は願った。



「どうか……どうか、ヴァネッサ様のことをお恨みにならないでください……お願いします……」



 彼女の切願はジネットの胸を焼く。


 贖罪のような言葉だった。


 リゼットの瞳の端から涙が一粒流れた。その透明の雫に偽りはないのだろう。


 リゼットは確かにヴァネッサを慕い、敬っていたのだろう。


 ジネットがヴァネッサを思う気持ちはきっと彼女には敵わない。勝とうとも思わなかったが、ジネットは直感でそう感じた。



「……恨んでない」



 でも、とジネットは言った。



「悔しいとは思う……」



 その台詞でリゼットの瞳がジネットに上がった。ジネットはその瞳を真っ直ぐに見ずに目を逸らした。彼女の瞳に映る自分を見ていられなかったのだ。ヴァネッサと同じだというその顔を、今だけは見たくなかった。



「ちゃんと名乗って、話してくれなかったヴァネッサに、悔しいとは思う」



 名乗られればジネットは怒っただろう。悲憤で彼女の頬を叩いたかもしれない。



「わたしは、ちゃんとヴァネッサと向き合ったことがない」



 それでも、とジネットは思う。



「でも、わたしは、ヴァネッサを好きだわ」



 リゼットの涙がぴたりと止まった。


 それにジネットは苦笑して、彼女の涙で濡れた目尻に指で触れた。



「理屈じゃなくて。それでも、好きだと思うの」



 ジネットは自分の持つ言葉がそれほど多くないことを知っている。その少ない言葉の中から、少しでも相手に自分の気持ちが伝わるように微笑を浮かべた。笑顔は得意ではない。笑みを殺して生きた時間がジネットには多すぎた。それでも笑うことで相手に与える感情を、ジネットはエメから教わっている。



「リゼット、話してくれてありがとう」



 ジネットの言葉を聞いたリゼットは左右に首を振りながら立ち上がる。涙の跡を消すように顔を擦った彼女がジネットに一礼して、扉に向かう。その扉に彼女が手を触れる直前。


 ノックもなしに、扉が開かれた。



「見つけたわ」



 そこに立っていたのは、ジュリエッタだった。彼女は目尻を吊り上げて、ジネットを睨むように見下ろしていた。彼女はずんずんとジネットに近付くと、ジネットの右腕を掴み、無理やり立たせた。掴まれた腕は痛く、その乱暴な扱いにジネットが顔を歪める。



「ねえ」



 ジネットの表情など気にも留めずに、ジュリエッタは低い声で言い放った。



「あなた、ヴァネッサじゃないでしょう?」



 その台詞にジネットは目を細めて、窺うようにジュリエッタを見上げた。彼女の深緑の瞳が、なぜか今は彼女を着飾るドレスと同じ真紅に見えた。それほどまでにジュリエッタの瞳の奥には殺意に似た感情があったのだ。



「冗談なんかじゃないわよ! お客が帰った応接室の扉が少し開いていて、そこから覗いて見たんだから!」



 黙りこくったジネットに苛立ったようにジュリエッタは声を荒げた。そして、ジネットの右腕の袖を捲った。


 露わになった腕にあるのは、一文字の傷痕。



「これは何!? ヴァネッサにこんな傷はなかったわ!」



 リゼットは顔を蒼白させて固まっている。



「答えなさい!」



 耳を殴るようなジュリエッタの声に、ジネットは眉をぴくりと一度動かしただけだった。



(どうする)



 険悪な表情をしたジュリエッタの顔を真っ直ぐに見据え、ジネットは思案を巡らせていた。傷痕を見られてまで誤魔化せるのだろうか。



「何とか言いなさいっ」


「……これは――」



 ジネットが言葉を紡ぐ、その前に。



「ジュリエッタ」



 あまりにも冷ややかな声がその場にいた皆の耳朶を打った。


 視線を向けると、静かに扉を閉めるラルドルフの姿があった。扉が閉まる音が空気に消え、ラルドルフがジネットの方へ近づいてくる。だが、彼が見ているのはジュリエッタだけだった。



「な、なによっ……?」



 ジュリエッタはラルドルフに怯えていた。彼の声質だけではないだろう、彼を包む空気がいつもよりも剣呑だった。触れれば斬れるような鋭さを持った彼はジネットを庇うようにジュリエッタと彼女の間に立った。ジュリエッタと向き合ったラルドルフは低い声で言う。



「この件は内密に」


「な、内密って……! これはこの国全土を揺るがすほどの問題よ! 黙っていていいわけないでしょう!」


「国王のご命令だ」



 ラルドルフの台詞にジュリエッタはぐっと口を噤んだ。その彼女に念を押すように、彼はより低く、より鋭い声で続ける。



「口外無用。――良いな」



 彼の腰の剣が、かちゃり、と物騒な音を立てる。それは国王の命令という言葉よりもジュリエッタの口を塞ぐには強力だったようだ。


 この王城でラルドルフのことを知らぬ者はいないだろう。彼がどれほどの戦果を過日の戦場で挙げたのか、知らぬ者はいない。



「……分かったわ」



 やがて、ジュリエッタは震える声でそう告げた。



「精々、あたし以外には見付からないように努力するのね」



 そう吐き捨てて、ジュリエッタは乱暴に扉を開け部屋を出て行った。だが、彼女が去ってもその場に残る不穏な空気は消えない。耳を殴るような音を立てて閉まった扉の残響がまだ耳の奥に残っているようだった。


 ジネットは傍に立つラルドルフをちらりと見遣る。それを見越していたように振り返ったラルドルフと視線が重なった。それを逸らすことができず、ジネットは睨め上げるように彼を見た。



「戻ってきたの?」


「……」


「……別に一人で対処できたわ」



 強がりだったが、何か話していないと弱音を吐いてしまいそうだった。


 ジュリエッタに腕を掴まれた時、殴られるのではないかと思った。身体に染み付いていることだとはいえ、身構えなかったことについては自分を褒めてやりたいとジネットは思う。だが、その所為か、ジュリエットが去った今も尚、彼女の速まった心拍は収まりそうになかった。



「ジネット」



 名を呼んだラルドルフが右手をジネットの前に差し出した。



「……なに、これ」



 その彼の手には、小さな袋が握られていた。その中には、可愛らしい形をしたビスケットが入っていた。


 ジネットはそれから顔を背け、腕を組む。



「……ビスケットで機嫌なんて直さないわよ」


「……」


「……」



 沈黙の最中、ジネットはそっとラルドルフの顔色を窺った。彼は黙ったまま手に持った袋を見下ろしている。その彼の姿が、何だか、少し、可哀そうで。



「……機嫌なんて、直さない、けど」



 ジネットは言いながら右手を彼に差し出した。



「……嫌いじゃないわ、ビスケット」



 そう言って、彼から袋を受け取った。袋を縛っていたリボンを解き、中のビスケットを手に取る。一口齧れば、脳が痺れるほどの甘い味が舌を刺激した。舌の上でほどけるように溶け、丸みをもった濃厚さが口内に広がる。エメにも食べてさせたいと、反射のように思った。



「……おいしい」



 思わず呟いて失言だったとジネットは口を押えた。顔を上げると薄く笑ったラルドルフの顔があった。


 袋の中のビスケットは残り一つだ。ジネットは納得のいかなさを覚えながら、その一つを取り出し、二つに折った。その片方を、彼に向ける。



「……あげる」


「一人で食べれば良い」


「本当に美味しいものは、一人で食べても美味しくないわ」


「……意味が分からん」



 ジネットはラルドルフの手に無理やりビスケットを置いた。彼女は自分の分を食べると、口にビスケットを運ぶラルドルフのその向こうに立ち尽くしているリゼットに目を向けた。



「リゼット、ちょっと席を外してくれるかしら」


「は、はい。畏まりました」



 リゼットは頷くと、静かに部屋を出て行った。


 ラルドルフはビスケットを飲み込みながらリゼットを部屋から出したジネットを訝しそうに見下ろしている。その彼の傍を離れるとジネットはベッドの隣に立った。そこにあるナイトテーブルの引き出しを開ける。そこから取り出したのはヴァネッサからの手紙だった。それを持ってジネットはラルドルフの傍に戻る。そして、その手紙を彼に差し出した。



「これ」


「……これは?」


「ヴァネッサからの手紙」



 その台詞にラルドルフが息を飲む。



「わたし宛に。部屋の本棚から出てきたの」



 ジネットはそう告げて、ラルドルフの右手を取った。自分の手よりも遥かに大きい、彼の手は武骨で、骨がごつごつと浮き上がっている。掌は固く、指先で触れただけで剣蛸があることが分かった。それよりもジネットが思ったのは、自分よりも冷たい彼の手だった。前に触れた時はもっと、温かったはずなのに。


 その彼の手に手紙を握らせようとしながら、彼の顔を見上げたジネットの動きが止まった。彼の細めた目に鋭さはなかった。哀しみのような色を宿したその瞳に、なぜだろう、ジネットの胸が痛んだ。その気持ちを掻き消すようにジネットは薄く微笑して、言う。



「ラル。これがあればヴァネッサが何で殺されたのか分かる。調べよう?」


「……断る」


「どうしてーー」


「ヴァネッサの死の真相が明かされれば、お前はどうなる?」



 間髪入れずに告げたラルドルフの声は淡々としていた。



「ジュリエッタには気付かれた。口止めはしたが、どうなるかは分からない」



 彼の言葉の意味を、ジネットは胸の中で噛み砕き、咀嚼して、理解する。


 ヴァネッサの死の真相を明かし、犯人に罪を償わせる。それは、ヴァネッサが死んだことを明らかにすることと等しい。誰もが隠していたヴァネッサの死を明らかにした時、ジネットがヴァネッサではないことが世間に知られることになるのだ。そうなれば、ジネットは殺されるのだろうか。王族の面子を保つために、適当な罪を被せられるかもしれない。



「大丈夫だ」



 ジネットの心を読んだような、ラルドルフの声。


 顔を上げれば、いつもの鋭さと、少しのやさしさを伴った彼の隻眼があった。



「俺が、お前を護るから」



 何度目になるだろう、その台詞。


 ジネットは困ったように笑って見せてから、視線を足元に落とした。



「なあに? いざとなったら遠くまで逃がしてくれるの?」


「ああ」


「……独りきりの逃亡生活なんて御免だわ」


「俺も行こうか」



 嘲るように言ったジネットの声に、被さったのは彼のやわらかな声。ジネットの心臓が熱を持ったように跳ねる。顔を上げれば、見たことのない彼の表情がそこにはあった。


 泣いてはいない。でも、泣き出しそうな表情だった。それは笑顔に似ていたかもしれない。それでも彼の強さはそこにあったけれど、けれど。


 ジネットの胸はひどく痛む。



「二人での逃亡生活なら文句あるまい」



 彼のそんな言葉、気休めだとジネットにも分かる。だが、嘘でもそんな言葉をかけてくれるとは思わなかった。


 ジネットの唇の隙間から零れ落ちる吐息が震える。涙が流せるなら、流してしまいたかったのに、目頭は熱さえ持たなかった。



「……ど、して」



 掠れそうになる声で、ジネットは何とか微笑を浮かべた。できるだけ、感情が読み取られないように、笑って、ジネットは問う。



「どうして、あなたはわたしに良くしてくれるの?」


「……さあ?」



 彼も笑った。


 それから。



「触れても?」


「……ええ」



 頷けば、彼の右手がジネットの毛先に触れる。掬い取るように彼女の髪をひとふさ手にした彼はそれを自らの唇へと近付けた。ただ、触れるだけの。手でも、額でも、唇でもない、ジネットの髪に、口付けを落とした。


 儀式のようだった。誓いのキスなんかよりも、ずっと。


 神聖で。


 ジネットの心が、軋むように戦慄く。



(……ああ)



 この人にとって最も大切なのは母国だろう。それを護るために、この国に来て、ヴァネッサの替え玉であるジネットと婚礼まで挙げたのだ。


 そんなこと、分かっている。


 こうしてジネットの髪に触れる、それさえも、そのためかもしれない。


 分かっている。



(けど)



 分かりたくない、とジネットは思う。


 例え、その母国のためだとしても、彼はジネットにやさしくしてくれた。愛すると言ってくれた。護ると言ってくれた。


 一緒に逃げるとまで、言ってくれた。


 それだけで充分だなんて、ジネットは言えないけれど。それでも。



(……――すき)



 この人を、好きだと思った。


 胸が軋むほどに痛み、思った。


 貴方は本当はヴァネッサを想っているのだろう。そんなこと、知っている。代わりで良いとは思わない。それでも、好きになってしまった。


 こんな、場所で。


 こんな絶望的な場所で。


 ジネットは初めての恋を、知った。


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