(2)
大丈夫だ、とジネットは自分に言い聞かせる。
応接室のソファーに腰かけたジネットの隣にはラルドルフの姿もある。ブラディはリゼットがこの応接室まで案内してくると話していた。
(大丈夫)
心の中でそう繰り返しながらも、ジネットはそっと自分の右腕に触れた。熱を持つように先程から痛んでいる。
その場所から手を離し、目を伏せた。暗闇の中で思い出すのは、幼い日々だ。
冷たい水に突っ込んだ指は、痛みを通り越して麻痺を起こした。白かった指先は赤く、皮膚が張るほどに膨れ上がった。裸足の爪先は、いつだって温かさを求めた。空腹は時折胃を蝕むようで、チクチクと痛みが身体の中心から全身に伝わる感覚があった。耳を劈く声はジネットの心にまで鋭い刃先を振り下ろす。
感情を殺すことに務めた日々だった。
それでも、どれほど惨めでも生きていたかった。逃げることもできなかったけれど、それでも全てを諦めてしまえるほど潔くはなかったのだ。
今でも怯える心はある。筋肉が縮こまり、背中を丸めてしまいたかった。悲鳴を上げて、逃げ出してしまいたかった。けれど。
ここで逃げ出せば、生きたいと願った全ては無駄になることを、ジネットは知っている。
「……ジネット」
ラルドルフの小声が目を閉じたままのジネットの耳に流れ込む。ジネットは瞳を開くと、大きく息を吸い込み、言った。
「……大丈夫」
鮮明に発せられた彼女の声は、ほんの少しの震えを残して、それでも凛と響いた。
扉を軽く叩く音が部屋に響いた。遠慮がちのそれは、リゼットのノックだ。すっかり聞き慣れたその音に、ラルドルフが許可を与える。すると、扉がゆっくりと開かれた。初めに見えたのは、少しだけ目を伏せたリゼットの顔。そして。
「ジネット!」
この国の民にしては質の良い服を着た男。ブラディ家の主だった。
丸々と肥えた身体がジネットの最後の記憶とはかけ離れていた。ジネットが最後に見た彼は随分と細く、もっと神経質な顔をしていたはずだ。しかし、今ジネットの目に映る彼はぶくぶくと太った腹をした男だった。それでも、ブラディの眼の奥にある色は昔と変わらない。
「ああ、やはりジネットじゃないか!」
歓喜に満ちた表情をしている。我が子に再会した親のようなその彼にジネットは顰めそうになる顔をどうにかそのままに保った。
この男は昔からそうなのだ。世間には良い顔を振りまくのが得意な男だった。
ブラディが両腕を広げ、ジネットに歩み寄るがリゼットがそれを制した。
ここでは、ジネットはヴァネッサだ。国民が王女に簡単に触れて良い国などどこにもないだろう。こうして謁見できることでさえ異例なのだ。
リゼットの制止をブラディは少し気に喰わなそうにしながらも受け入れ、ジネットとラルドルフが座るソファーから向かい合うにしては随分と離れた位置にあるソファーに腰を下ろした。
「まさかこんなところにいるとは思わなかった。ずっと探していたんだぞ、ジネット」
笑みを崩さず、ブラディは言う。だが、ジネットからの返答はない。彼女の細められた、どこか冷めた双眸がブラディを静かに映しているだけだ。
「ジネットだろう!」
少しだけ声を荒げたブラディの声が応接室に響く。早々に苛立つ癖は変わっていないようだった。
彼を正面に見ながら、ジネットはただ黙っていた。彼女は足の上で重ねた両手をぎゅっと握り締めたいのを耐えている。
(痛い)
右腕の傷が、痛んでいた。
彼女の視界はぐらぐらと揺れ、胃がぎゅっと締まる。込み上げる吐き気を抑え、感情を表情に出さないように努める。
(気付かれてはいけない)
こんなところで、死ぬわけにはいかなかった。
何もできないままで、終わるわけにはいかない。
ジネットは言い返す言葉を脳内で探るが出てこなかった。ヴァネッサならば上手い返しができるのだろう。それをできなければ、ヴァネッサではないと暴かれる。
心中で焦るジネットに気付いたのか、口を開いたのはラルドルフだった。
「その少女とヴァネッサがなぜ似ていると?」
「城下町に仕入れに来たんですがね、その時に絵描きの絵を見ましてね」
先日の夜宴には幾人もの絵師が来ていた。下町の絵師でもその腕が確かならば、夜宴へ絵描きとして呼ばれることがあるのだ。絵を好む国王の趣味だと聞いているが、それがこのような場で厄介になるなんて。
「さあ帰ろう、ジネット。また一緒に暮らそうじゃないか」
なぜこの男がそのような台詞を吐くのか、ジネットには分かっている。王女にそっくりなジネットを見せ物にでもするのだろう。その上、使える女中が増えるのだ。
彼にとって、ジネットは金蔓だ。
ジネットは反射的に右腕を抑えた。
酷く痛む。奥歯を噛み締めなければ、喘ぎが零れてしまいそうだった。その全てに耐えるようにジネットは目を瞑り、俯く。
当時の痛みや光景まで蘇ってくる。痛みと恐怖でもう、気を失った方が楽なのではないかと思った。
「ヴァネッサ」
隣からラルドルフの声がかかる。ジネットが黙って首を左右に振った。顔を上げて、彼の顔を見ると近くで視線が重なった。ラルドルフの手がジネットへ伸びる。それを視線で追っていた、その時だった。
いつの間にか傍に立っていたブラディがジネットの右腕を掴んだ。
「ここに傷痕があるはずだ! それが証拠だ!」
ラルドルフが息を飲んだ。ラルドルフは立ち上がる。だが、彼が止める前にブラディがジネットの服の袖を捲り上げた。
だが。
そこに、傷痕はなかった。
「なっ……!」
瞬時。
驚愕の表情をしたブラディの手を、ジネットは払った。同時に立ち上がる。その背は、凛と強く。
それまで黙然としていたジネットの唇がゆっくりと開かれた。
「……無礼者」
低く、冷静な声で。
「不敬である。直ちに打ち首にしても構わぬぞ」
そのジネットの声質と姿にリゼットが目を見開き、口元を抑えている。それだけでジネット自身が上手くヴァネッサを演じることができているのだと知るには充分だった。
「私の名は、ヴァネッサ・オーディアール。ジネットなどという町娘と同等の扱いをするとは言語道断……」
ひっ、と短くブラディが悲鳴を上げ、その場に尻をついた。その彼を見下ろし、ジネットは冷たく告げた。
「首を刎ねられたくなければ、直ちに私の前から姿を消せ」
ふいっとブラディから視線を外すとジネットはリゼットを一瞥した。それを受けたリゼットは頷くと、その場で腰を抜かしたままのブラディの傍に立った。
「ブラディ様、こちらへ。表門までお送り致します」
リゼットに促され、ブラディが立ち上がる。部屋を出て行く直前、彼は一度だけジネットをちらりと見たが直ぐに怯えたように視線を背け、部屋を後にした。
扉がしっかりと閉まるのを見届けてから、ジネットは再びソファーに腰を下ろした。
「……ジネット」
その彼女へラルドルフが眉根を寄せたまま尋ねる。
「傷痕は、どうした?」
「……リゼットが化粧で隠してくれたの」
ジネットはそう言いながら袖を捲り、自分の右腕を晒す。現れた腕を見ると、ジネットは傷痕のある部分を強く擦った。すると、彼女の腕に再び傷痕が蘇る。
「助かったわ」
初め頼んだ時は無理を承知だったが、リゼットは笑顔で頷くと見事にやってのけた。
ジネットは傷痕からラルドルフに顔を上げた。その顔に、微笑を浮かべて。
「ラル、ありがとう」
「……何が」
「わたし一人だったら、きっと足が震えていたから」
立ち上がった時の彼女の足は、滑らかに動いた。震えていれば、どれほど上手く台詞を吐けても相手を誤魔化すことはできないのだ。
「……どこから演技だった?」
「さあ?」
そう言ってジネットは首を傾げて笑った。
彼女は上手く台詞を吐き、演技をしていただろう。だが、本当は心の底から怯えていたのだ。当時と現在のブラディの姿に変化があっても、それでも思い出してしまう。けれど、隣にいるラルドルフと目が合った時、震えは不思議と落ち着いた。
その理由を、ジネットは気付き始めている。
愛そうと、護ろうとしてくれる彼に向けている感情が何かを、ジネットは知っている。