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(3)

 夜になると、ラルドルフは薄暗い灯りの下で本を読んでいた。昼間、エメに会った所為なのか、目が覚めてしまって寝付けそうになかったのだ。


 部屋にはラルドルフ一人だ。ジネットは今、新しく用意された部屋にいるはずだ。彼女が襲われたのが昨日の今日である。そのため、彼女の新しい部屋はラルドルフの寝室の隣に設けられている。


 ラルドルフは本のページを捲る。


 ヴァネッサが好きだと話していた小説だった。彼女が死んで以来、ラルドルフは彼女の体験したものを取り込むかのように、彼女の大切にしていたものをなぞっている。固執して、今でも彼女から離れられない。彼女から離れようと、忘れようとするたびにひりひりと痛むように冷たかった彼女の最後の体温が、ひしひしと蘇るのだ。ジネットのことを知ろうと始めた行動も、その一つなのかもしれない。


 彼女の片割れに触れることで自分の中に蹲る罪悪感から解放されようとしているのかもしれなかった。愛した女性を護ることすらできなかった自分への慰めでジネットを護り、救えなかった彼女に許されたいのだろうか。


 ラルドルフは本のページを捲る。童話のような小説だ。聖職者と呪いをかけられたお姫様の恋の物語。


 ヴァネッサが読んでいたとはとても想像できない。彼女はもっと推理小説のように、頭を使うものばかりを好んでいると思っていた。


 そう思いながらラルドルフが文字を目で追っていると、遠慮がちに扉がノックされた。顔を上げたラルドルフは扉に視線を投げる。



「……誰だ」


『……わたし』



 誰何して返って来た声はジネットのものだ。



「……どうした」


「……入ってもいい?」


「……ああ」



 ため息交じりに答えればゆっくりと扉が開けられた。そこから顔を出したジネットは苦笑していた。



「こ、怖くて」



 そう告げたジネットの声は心なしか、少し震えていた。


 彼女が襲われたのは、昨日だ。暗い室内に一人でいることに恐怖を感じることは不自然なことではない。だが、まさか彼女が自ら自分の許を訪れてくるとはラルドルフは想像もしなかった。その所為か、彼女に声を返すのがわずかに遅れた。



「……そのベッドを使えば良い」



 ジネットはラルドルフに言われた通りにベッドに向かい、シーツに触れたところでラルドルフに振り返った。



「ラルはどうするの?」


「ソファーで寝る」


「……一緒に寝ればいいじゃない」



 唐突な台詞にラルドルフは本のページを捲ろうとした手を止めた。顔の位置は本に落としたままにジネットへ目を向ける。彼女はいつもの平然とした顔でラルドルフを見ていた。



「わたし、エメと一緒に住んでる時はこの半分のサイズのベッドで一緒に寝ることもあったのよ。だから、大丈夫よ」



 何が大丈夫なのか、ラルドルフは問いたかった。先日自分が目の前の男に押し倒されたことを既に忘れてしまったわけではないだろう。今まで散々な環境で生きてきたくせになんて他人を信じやすい娘なのだろう。もしくはもう何もする気がないというラルドルフの考えがすっかり見透かされているのだろうか。そう考えるラルドルフの眉間に濃い皺が寄った。



「……意味が分からん」


「だって、ソファーで寝ていたら身体が凝るでしょう?」


「そんなことはな――」


「じゃあ、わたしがソファーで寝るわ」


「……お前な――」


「わたしがソファーで寝るか、一緒にベッドで寝るか。どっちかよ」


「……」



 ラルドルフの文句は全てジネットの声に押し潰された。ラルドルフは呆れたようにただ再びため息をつく。



(一度決めたら譲らんところがヴァネッサと同じだ……)



 ヴァネッサの頑固なところに何度振り回されたことだろう。今度はこの妹に振り回されると思うと、自然と口からため息が零れた。



「……分かった。分かったから、先に寝ろ」


「そうしたら、ソファーで寝るでしょう?」



 無駄に賢いところも、そっくりだった。この賢さと勘の鋭さなら、やはりラルドルフの心理など全て見抜いているのだろう。



「本ならベッドでも読めるわ。この棚に燭台を移せば良いじゃない」



 そう言ってジネットはベッドの傍らに置かれた、水差しの載ったナイトテーブルを指差した。


 頑として彼女はラルドルフをベッドで寝かしたいらしい。ここまできたら、もうラルドルフは反発するのも面倒になる。どうせ何と反論しても言い返されるに決まっている。仕方なしにソファーから立ち上がるとラルドルフは燭台をサイドテーブルに置いてベッドに入った。それを見届けたジネットも間を開けてベッドへと潜り込む。彼女が左側にいることがせめてもの救いだとラルドルフは心の中で呟いた。


 ジネットがベッドの上で本を読むラルドルフの横顔を見上げている。彼女に目を向けずとも、刺すような彼女の視線でラルドルフはそのことに気付いていた。


 彼はその視線に耐えられなくなると閉じた本をナイトテーブルの上に置いた。燭台の火を吹き消す。そうしても、カーテンの隙間から差し込む月光で部屋の中は薄らと見渡せた。


 その中で、ラルドルフは右目を隠していた眼帯を外す。隣のジネットが小さく息を飲んだのが分かったが、位置からして彼女には右目は見えていないだろう。


 ラルドルフの右目は一年前の戦争の傷痕がくっきりと残っている。既に目玉はないが上下で縫い合わされているため、遠目にはただ瞼を閉じているように見えるだろう。だが、縦に流れるようにある一文字の傷痕は、はっきりと刻まれている。



「……ラル」



 暗闇の中で左からジネットの声がかかった。ベッドに座ったままのラルドルフに合せるようにして、ジネットも上半身を起こした。


 彼女の方は見なかった。見れば、右目が見てしまう。この目を見た者が快くない気分になることは知っている。あの強靭な精神力を持った兄でさえ、この目を見たらまるで自分のことのように、痛みを感じたかのように目を細めていた。


 ジネットの、夜の空気で冷えた手がラルドルフの頬に触れた。


 ラルドルフは息を止める。思わずジネットの方を向けば、かつて愛した女と良く似た彼女の顔があった。



「今も右目は痛い?」



 痛みなどない、と言おうとしてラルドルフは口を噤んだ。



 ――右目は痛い?



 彼女が、かつてのヴァネッサと同じことを問うた所為だ。


 心が悲鳴を上げる如く震える。


 彼女が、ヴァネッサとは違うことは分かっている。それを理解しているからこそ、息が苦しくなる。胸に込み上げる想いを心の奥深くに押し込む。



「ラル?」



 ジネットは心配そうに目を細めて、首を傾げている。はじめて出会った頃とは全く違う彼女の反応とやさしさを知り、耐えられずにラルドルフは彼女から目を逸らすように瞼を閉じた。


 ジネットを愛するのだと決めたのはラルドルフ自身だ。それは決意だった。母国を護るために、彼女と婚礼を挙げることにしたのは、決意だ。


 そうだというのに彼女に触れるたび、知るたびに迷う心がある。昼間会った女性はこの少女のために心を痛めていた。苦しい過去を乗り越え、愛される日々を手に入れたジネットから自分は全てを奪おうとしている。


 今さら後戻りはできない。自分はきっと彼女を愛するだろう。そうすることで救える民がいるのだから。



「……否」



 ラルドルフは首を振った。



「もう寝ろ」



 告げて、彼は身体を倒す。そのまま、彼女とは反対側を向いた。


 隣のジネットも同じように体を横たえたのが気配で分かった。暫く寝難そうにもぞもぞと動いていたが、数分もすれば隣から規則的な寝息が聞こえ始める。


 それを聞きながらラルドルフも瞼を下ろす。


 隣に人の気配があるというのに、眠りにつくのはいつもよりも早かった。


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