(2)
ジネットはヴァネッサの部屋の前に立っていた。目前に聳え立つ扉は固く閉ざされている。この部屋は未だジネットが襲われた状態のまま荒れているのだろう。
だが。
(わたしは、強くなりたい)
過去なんて大したことない、と。
他人の視線に怯えずに生きていけるほど、強くなりたい。
ジネットはこの部屋の中に入ることを決めていた。この部屋の中に犯人に繋がる手がかりがあるかもしれない。
あの時はあれほどの暗闇だったのだ。昨晩の犯人が何か所持品を落としていても気付かずに逃げ去った可能性だってあるのだ。それならば、犯人が取りに戻る前に探し出す必要性がある。
犯人を見つけ出したかった。見つけ出したことで、ジネットの中の何かが変わるかもしれない、と思っていた。
じっとりと嫌な汗を滲ませる掌は強く握り締めた。ジネットは扉に触れると恐怖を押し殺すように呼吸を止めた。吐き出した息の勢いに任せるように扉を開ける。
室内は昨晩のままのようだった。倒れた棚や零れ落ちた本、割れたガラスの破片。割れた窓から流れ込む風でカーテンがゆらりゆらりと靡いていた。その中にジネットは足を踏み入れる。下を見て、きょろきょろと元あったものと違うものがないかと探す。
こんな場面をリゼットに見られれば直ぐに追い出されるだろう。リゼットはジネットがヴァネッサではないと知っていても、それでもジネットに過保護だった。彼女はジネットを、自分の主だから、という理由で世話をしているらしいのだが、ジネットにはその彼女の心情が分からない。だが、王城というのはそういうものなのだろうか。
ガラスの破片の上を歩くと、ぷち、と堅い感覚が足の裏から感じ、くぐもった破壊音が耳に届いた。
ガラスの破片の上を踏み締めるように歩きながら、ジネットは昨晩のことを思い出していた。
ラルドルフはヴァネッサの演技をするジネットを褒めてくれた。別にそんなことを望んでダンスや作法を覚える努力を続けていたわけではないのに、あの一言であのつらかった日々がやわらかく浄化されていくようだった。
胸の内に広がった温かさはかつてエメに褒められた時のものとは少し違っていた。もっと胸の奥を焼くような鮮明で強い熱さだった。同時に手に入れた自信がこうしてジネットにこの部屋に入る勇気を与えられたのだろうか。
この部屋でジネットが襲われた時に一番にジネットを見付けて、助けに来てくれたのはラルドルフだった。あの時の衝撃と安堵はきっと孤独に押し潰されそうだったジネットの心を救ってくれた。
エメと共に暮らしてからも、自分の身は自分で護らなくてはならないと思っていた。誰も生きることに必死で、誰かに助けを求める余裕すら持ち合わせていなかった。
だからあの時現れた彼の存在はジネットの中で強く焼き付いている。護る、と言ってくれた彼の台詞を思い出す度、ジネットの胸に込み上げるのは言い表しようのない感情だ。困惑と、それから少しの恥ずかしさ。
(だって、誰かに、助けてもらえるなんて)
救いを求めることすら忘れた幼い自分を抱き締めてくれる人がもしいたのなら、どんなに良かっただろう。
そこまで考えたところで何かが頭の隅に引っかかった気がした。それに眉を顰め、視線を足元に落としたその時。
「これ……」
本棚から崩れ落ちた幾つもの本。その内の一冊の本の間から、封筒が見えた。
白い封筒だった。
古くないだろう、新しいそれをジネットは本の隙間から抜き取った。
封筒にはしっかりと封蝋が押されている。今ではすっかり見慣れた、この王家の紋章だ。封筒の下の方には、小さく端正な字で、ヴァネッサの名が書かれていた。
(ヴァネッサが書いた手紙……?)
本棚の本は何度か読んでみたことはあったが、この手紙には気付かなかった。ジネットは手紙の封を切りながら、ガラスの破片を避けたソファーに座る。
封筒に宛先は書かれていなかった。だがジネットは中を見ると決めた。あの泡沫姫が書いた宛先のない手紙の内容が気になったのだ。
ジネットは封筒の中から便箋を取り出す。真白の便箋だ。封筒や便箋の色から古いものでないことは明らかだった。極最近に書かれたものだろうか。ジネットは二つ折りにされていた便箋を開く。
そこに書かれていた名前と内容に、ジネットは息を飲んだ。早鐘を打つ脈がジネットの視界を大きく揺らす。それでもどうにか一つ一つの文字をジネットは胸に刻んでいく。ジネットの字とは違って、綺麗な文字だった。きちんと教育を受けてきたという証拠を突きだされているかのようなその字を、ジネットは目で追う。
震える指先でジネットは便箋を捲る。便箋は三枚にも及んだ。隙間なく文字が敷き詰められた手紙を読み終えると、ジネットは勢いよく立ち上がった。しかし一歩踏み出したところで固まる。
(彼がこれを知ったら、何を思うだろう)
ラルドルフにこの手紙の存在を知らせようとしたジネットの心に迷いが生じた。
いい気分はしないだろう。この手紙が犯人に繋がるかどうか、ジネットには分からない。ラルドルフが読んだとしても、理解はできないかもしれなかった。
ジネットだって理解できない。
あの、王女が。
他人に興味がなかったという、あの『泡沫姫』が。
なぜ生前にジネットへの手紙を残しているのだろう。
ジネットにはヴァネッサに出会った記憶はない。会っていたなら気付くはずだ。何せそれまでヴァネッサに関わってきた人々を騙せるほどに、王女と自分は瓜二つなのだから。
(どうして……)
ジネットは手紙を見下ろす。その手紙の、最後の文。
『ジネット』
呼びかけは、やはり綺麗な字で。
けれど、最後の文字は少し、歪んでいた。
『私が貴女に、未来をあげる』
その文章の意味を、ジネットは理解できない。
『ジネット。私が貴女に、未来をあげる』
未来、なんて。
ジネットは望んでなどいなかった。ジネットはエメと生きる未来が最も嬉しかった。それが幸福だと、今でも信じて疑わない。
立ち尽くしたままで、ジネットは手紙を読み返す。
『貴女の全てを奪ってしまったのが私なら、せめて、貴方に選択肢を。飢えのない王女の生活か、今の自由な少女の生活か。貴女は選ぶことができる』
選択肢をあげる、とヴァネッサは告げる。
『私は昔、貴女に会ったことがあるのよ。ずっと昔。私達が八歳の時に』
記憶を探る。けれど、思い出せない。
八歳のジネットは苦痛な生活を強いられる日々の中にいたはずだ。冷たい水に無理やり手を突っ込んで、痛みを覚えながら、感覚を失いながら、それでももがいて生きていた時。そんな時に、出会っただろうか。
『私は、貴女のことを知った日から、貴女と言葉を交わした日から、私のたった一人の妹の存在が頭から離れなかった』
だから、とヴァネッサは続けた。
『どうか、貴女が幸せになれる未来を』
未来をあげる、とヴァネッサは言う。
私の所為、だと泡沫姫は言った。
ジネットは双子の姉の存在を知った時。
双子だった所為で地獄に突き落とされたのだと知った時。
彼女が死んだ所為でこんな場所に連れて来られたのだと知った時。
その全ての時で、ジネットはヴァネッサを確かに恨んでいた。彼女の所為ではないと知っていても、他に怒りを向ける矛先を知らなかった。だが、そんなジネットにヴァネッサは、未来をくれる、という。私が全てを奪った、のだと彼女は言った。
記憶の限り、ジネットはヴァネッサに会ったことがないはずだ。それなのに。
なぜだろう、頬を伝う涙があった。
唇が無様なほどに戦慄く。唇を噛んでその震えを抑えてしまいたかったのに、ただ痛みを覚えるだけで震えは治まってはくれなかった。
あなたの所為ではないのだと言ってあげたかった。恨んだ心はあったけれど、あなたの所為ではないのだと、そう言いたかった。
王女の地位を手に入れた。泡沫姫と呼ばれた、姉がいた。
誰にも愛想を振るわずに生きてきた彼女の心はいつも何を思っていたのだろう。妹が捨てられたのが自分の所為だと信じて生きていた彼女の心は何を感じていたのだろうか。
「ヴァネッサ……」
その名を、ジネットは濡れた唇でなぞった。
あなたの未来はもう、ないけれど。
だからこそ、あなたの命を奪った人物を許せない、とジネットは初めて思った。
ジネットは手紙を凝視する。
その前半に書かれた、内容。
『私はきっとこれから殺されるでしょう』
自分の死期を悟ったにしては、歪みのない文字で。
『私はもう生きてはいけないかもしれない』
彼女は、綴った。
『それでも、私は友を恨まないわ』
友、と書かれているということは、ヴァネッサはその犯人を知っていたのかもしれない。だが、彼女に友人がいたのかどうか、ジネットには分からない。
彼女は自分が死ぬと知っていて、水差しの水を飲んだのだろうか。何のためかは、ジネットには見当もつかない。ヴァネッサが自分の未来を諦めてしまえるほどに裏切られて悲しむ相手だったのだろうか。ジネットは手紙の内容を何度も読み直すが、そこに犯人の名前はなかった。
ジネットが知っている限り、ヴァネッサが死んだ夜、王城にいた人物は国王と王妃、リゼットにガヴィニエス兄妹、それから数人の使用人だ。そうして並べてしまうと、全ての人間が怪しく感じる。
ジネットは手紙の最後の文章を眺める。
『私が貴女に、未来をあげる』
涙が止め処なく瞳から零れ落ちていく。
今までジネットは自分のためにしか泣いたことはなかった。自分ではない誰かを想って流れる涙があるのだと、ジネットは初めて知った。
ジネットは会ったこともない姉を思い、声を殺して、涙で頬を濡らした。
(わたしが犯人を、見付ける)
そう、心に誓って。