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第三章(1)

 朝食を済ませたラルドルフは黒いコートを羽織った。城下で民が着ているような平凡なデザインのものだった。それを纏った彼は広い庭を通り、門へと向かっていく。



「ラル、どこ行くの?」



 後ろからかけられた声。振り向けば、そこにいたのは小首を傾げたジネットだった。その彼女を一瞥して、ラルドルフはコートのフードを目深に被る。



「散歩だ」


「ひとりで?」


「……お前は部屋にいろ」



 ラルドルフはジネットにそう返すと、彼女をその場に残して歩き出す。



(本当に)



 声までそっくりだ。


 死んだ者の記憶で最初に消えていくものは声だと、ラルドルフは思っている。表情や匂いや体温は目を瞑れば思い出すことができる。だが、相手の声質は時が経つほどに薄れる速度が増していくようだった。今ではジネットの声と重なって、ヴァネッサの声は彼の中で風化していく。しかし初めてジネットに会った時にヴァネッサの声と同じだと感じたのは確かだった。


 城下に出ると、ラルドルフは人々に紛れて歩いていく。表通りを歩いてみたが、目的のものは発見できなかった。仕方なしに路地裏を覗いてみる。路地の端には汚れた服を着た人々が地面に座り込む姿があった。表通りの華やかさなど全くない別世界だ。そのへたり込んだ人々の姿に、一年前まで見ていた光景が重なり、ラルドルフは自然と顔を顰める。だが、進むしかないのだ。ラルドルフは深く息を吐き出し、路地裏に踏み込んだ。


 煤で汚れたような黒い壁が続く。異臭はしたが、鼻を塞ぎたくなるほどではなかった。


 暫く歩くと、ようやく目的のものが見えた。


 小さな酒場だった。看板には手書きで、『Aimer』と書かれている。扉には準備中の札が下げられていたが、ラルドルフは構わずドアノブを掴んだ。鍵は閉まっておらず、すんなりと扉は開かれる。


 店の中は店に面している路地裏とは違い、古臭さはあるものの綺麗だった。薄暗い店内だが、わずかに入り込む日光でさえ丁寧に磨かれた床を輝かせるには充分だった。カウンターの奥にある棚には幾つもの酒瓶が並べられている。どれもラルドルフが見たことのあるものではないが、これほど多種の酒があることに彼は驚いた。裏通りの様子からしてそれほど多くの酒を用意できるほど金銭面に余裕があるようには見えなかったのだ。


 店内は、知っている匂いがした。初めて会った時、ジネットは少し甘い酒のような匂いを纏っていた。花の匂いのようなやわらかさではない、果実の甘味を連想させる匂いだ。それを感じたことでラルドルフはやはり彼女はヴァネッサではないのだと確信したのだ。


 ジネットが話していた通り、彼女はここで生きていたのだろう。そして過日、王女の双子の妹だった為に王城へ連れ去られたのだ。何の事情も知らなかったはずの彼女は今では上手く王女のふりを続けている。それがどれほど彼女の神経をすり減らしているのか、ラルドルフも気付いていた。


 店内を眺めていると、背後に人の気配を感じた。



「何だい、こんな真昼間から酒が飲みたいのかい?」



 振り向けば、カウンターの近くにある戸の傍に女性が立っていた。雰囲気がジネットと似ている。だが、髪は焦げ茶色で瞳もそれと同色だ。容姿だけ見れば、当たり前だがジネットとは全く違っていた。



「……酒は結構だ」


「そうかい。残念だけど、今は看板娘がいなくてね。チェスの相手を求めてるんなら私しかいないよ」



 ジネットはここでチェスの相手でもしていたのだろうか。


 あの弱さを見せまいと懸命な少女がここではどんな生活をしていたのかとラルドルフは不思議に思う。客相手に、笑って、酒でも提供していたのだろうか。上手く愛嬌を振る舞えるようには見えないから、きっと投げられる会話を適当にあしらっていただろう。



「うちには盗むもんはないよ。……て、あんたは人のもんを盗むほど貧乏でもないか」



 女性――ジネットの話によればエメという名だろう彼女はラルドルフを眺めてそう言った。できるだけ粗末な物を着てきたつもりでいたが、彼女には一目でラルドルフの服の価値が分かってしまったようだった。



「……娘はどうした?」


「少し前に消えちまってね。お客にも協力してもらって探したんだが、出てこなかったよ」



 どこの酒屋まで行ったんだろうね、とエメは苦笑する。



「あの子がいないとつまらなくてねぇ。いたって特別ぺらぺら喋る子じゃなかったからただ傍にいるだけだったんだけどね、いなくなると寂しいもんだよ」



 エメは煙草に火をつけた。途端、煙草の苦い紫煙が店内に充満し始める。味わうように彼女は深く煙を吸い込む。そして随分と時間を置いてから、深く白い吐息を落とした。



「あんた、あのお姫様の知り合いだろう?」



 ラルドルフは思わず目を細める。だが目深にフードを被っている所為か、エメは気付かずに続けた。



「ヴァネッサ様に伝えておくれ。『またいつでも遊びにおいで』って」



 世間ではヴァネッサはまだ生きていることになっている。ジネットをヴァネッサだと信じて。


 この店に来る途中で、昨日の夜宴でその光景を描いていた絵師の一人だろう男が広場でその時の絵を公開していた。そこにはヴァネッサに扮したジネットの姿もあった。ヴァネッサが死んだことを知らずにあの絵を見ていれば、ラルドルフでさえヴァネッサと見間違えるだろう。


 エメはヴァネッサの伝言として、『また』と言った。それはつまり、ヴァネッサがこっそりとここに来ていたということだろうか。



「……ヴァネッサがここに?」


「あれ、聞いてないのかい?」



 エメは驚いたように目を瞠りながら、灰皿に煙草を押し付ける。



「この前も来てたよ。下手な変装してね、いつも通りジネットと喋って帰ったんだ」



 下手な変装、にラルドルフは自分の現在の服装を思う。エメはラルドルフが上手く変装したつもりでも、王女の知人だと見抜いた。ヴァネッサの変装ではなく、彼女の洞察力が鋭いのではないだろうか。



「黒い鬘を被っていたし、眼鏡もかけていたからね。誰にも気付かれなかったみたいだけど、私にはバレバレだったよ」


「なぜ……」


「私はあの方が子供の頃に会ったことがある。その所為かもね」



 エメは得意そうに笑った。


 一方のラルドルフは納得がいない。ヴァネッサがこんな路地裏にある酒屋を見付ける理由が分からなかった。


 そんな彼の様子に気付いたのだろう、エメは二本目の煙草を取り出しながら言った。



「本当に何も知らないんだねぇ、あんた」



 苦笑したエメは話す。



「ジネットを見付けたのも、ヴァネッサ様のおかげさね。あの町に可哀想な子がいるから助けてほしい、って子供失くして死にそうだった私に言ったんだよ。馬車の前に飛び出して死のうとした私に、わざわざ馬車を降りてきて言ってくれたんだ」



 エメは懐かしむように目を細める。



「自分とそっくりな子供が過酷な目に遭っていることが耐えられなかったんだろうね……」



 ラルドルフは何も言わない。全て分かっていたとでもいうように、それ以上何もエメに尋ねなかった。代わりに一つ吐息を零した彼はフードを取った。



「……名乗るのが遅れた」



 フードの下から現れたのは黒い髪に同色の隻眼。彼は真っ直ぐにエメを見据え、告げた。



「ゴーワズ国第二王子、ラルドルフ・フォルトナーだ」



 ラルドルフの顔を見たエメは火をつける前の煙草を滑り落とした。驚愕の表情を隠さずに、彼を凝視している。



「あんた――」


「ジネットは生きている」



 告げる言葉は、初めから決めていた。



「それを、報告に来た」


「ジネットはどこにいるんだい!?」



 切羽詰まった剣幕でラルドルフに近付いたエメは彼の右腕を掴む。



「あの子は、私の大事な娘なんだ! 早く返しておくれ!」



 捕まえた腕が痛い。だが、ラルドルフは彼女の手を払うことはしなかった。目前にある彼女の様子からどれほど懸命にジネットを探していたのか、ひしひしと伝わってくる。


 ジネットは彼女にとって大切な娘だったのだろう。血は繋がらずとも、それでも大事にしていたのだろう。けれど。



「……それはできない」



 きっぱりと告げ、だが、とラルドルフは静かに続けた。



「生きていれば必ず再び会えるだろう」



 腕を掴んでいるエメの手にそっと左手を重ねる。すると、自然と彼女の手が離れていく。それを確認して、ラルドルフは彼女に背を向けた。



「邪魔したな」



 踵を返したラルドルフはフードを被る。



「待って!」



 鼓膜を殴るようなエメの声は一瞬。


 ラルドルフが振り返ると、彼女はひどく不安そうな表情をしていた。



「王子様が何でこんなところに来たんだい……ヴァネッサ様は元気なんだろうね……?」


「……」



 やはり彼女の勘の鋭さは人並み外れているらしい。


 ラルドルフは何も言わずに背を向け、静かに彼女の店を後にした。

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