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 本当にわたしの話が聞きたいの、とジネットはラルドルフに尋ねた。



「わたしの昔話なんてきっと面白くない」



 ジネットとラルドルフの二人はラルドルフの寝室にいた。ジネットが使っていたヴァネッサの部屋は先ほど荒らされてしまった所為だ。


 ラルドルフの寝室はジネットの想像通り、殆ど色がなかった。婚礼を挙げる数日前に家具を母国の自分の部屋から運んできたというラルドルフの部屋は黒で統一されていた。


 ジネットはラルドルフのベッドで横になっている。天井を見上げながら、声だけを革のソファーに座っている彼に向けていた。



「きっと、気分も悪くなる」


「……構わない」



 先ほど怪我の治療をリゼットにされながら、冷静さを取り戻したジネットがラルドルフに言ったのだ。



 ――何かお礼がしたい。



 このままでは気分が良くない、とジネットは言い、それなら過去の話を聞かせてほしい、とラルドルフは返した。


 なぜ彼がジネットの昔話など聞きたいのか、ジネットには分からない。これは礼なのだから、その理由を訊くことすら憚れた。


 ラルドルフにベッドを使って良い、と言われたジネットは疲れていたこともあって、素直に彼のベッドに潜り込んだ。眠気と戦いながら、彼女は自分の過去を思い出す。



「……わたしは捨て子だった。物心つく頃には、拾われた家で女中として働いていたの。五歳くらいの子供が水を汲んだり、洗濯をしたり、掃除をしたり……今考えると途轍もなく酷薄なことだけど、その時のわたしにとっては普通のことだったし、逃げたら生きていけないと思っていたわ」


 ぽつりぽつりと追憶しながらジネットは口を動かす。当時の苦痛が蘇って顔を歪めてしまったが、きっと彼は気付かなかっただろう。できるだけ、声の感情は押し殺した。



「町の人は見て見ぬ振りしてた。そう、その時に虐待されていたの。これ」



 ジネットは言って、右腕の袖を捲りながら身体を起こす。そこに現れた傷痕を見下ろし、一文字に沿って指でなぞった。ラルドルフの視線がジネットに向いている。それを感じながらもジネットは彼の方を見ないようにしていた。



「この腕の傷は、主人に皿を投げつけられて割れて、腕に刺さった。傷痕は消えなかったから、これは誰にも見られないようにしないと……ヴァネッサじゃないってばれてしまうから」


「……続きを」



 話が外れたジネットをラルドルフの静かな声が促す。


 ジネットは小さく頷いて、続けた。



「毎日、痛いし怖いし、お腹は空いたままだし……そんな中でどうして頑張れたのか、その理由はもうはっきりと思い出せない」



 何かがあったはずだった。それでも逃げ出さずにいよう、と恐怖だけではなくそう思えた出来事があったはずだったがジネットにはもう思い出せない。記憶がないのではなく、頭の中のリミッターが働いているような気さえする。嫌な思い出に関わるものはなるべく思い出せないように、と。



「六年くらい前にエメに会って、この町に来たの。『一緒に生きよう』ってエメは笑って言ってくれた。それからは、まあ、裕福じゃなかったけど幸せだった。殴られることも、怒鳴られることもなかったし」



 エメとの生活は、ジネットがずっと夢見てきた生活だった。本物の母ではなくとも、髪を撫で、褒めてくれた。字も食器の使い方も全て彼女がジネットに教えてくれたのだ。



「……その、」


「え?」


「そのエメという女性は何をしている?」



 そのラルドルフの問いかけにジネットは驚きながら数度瞬きを繰り返した。



「城下町で酒場を経営してる。『エメ』って店名の」



 そうか、と短い返答が一つ。ジネットはそれを聞いてから、ベッドに横になった。



「それで、この前ここに連れて来られたの。あとはあなたも知ってる通り」



 自分の過去を話してしまえば、こんなに簡単に纏めることができる。その時々は、様々な感情が入り乱れて、あれほどまでに心も体も振り回されていたというのに。


 きっと今この時の記憶も簡単に片付けることがいつかできるようになってしまうのだろう。そう思いながら頭を過るのは、先ほどの出来事。もう少しラルドルフが助けてに来てくれるのが遅かったらジネットは今頃死んでいた。


 ジネットは殺されかけたのだ。ヴァネッサの替え玉にされたジネットは、殺されかけた。



「……ねえ、ラル」



 暗闇に、静かなジネットの声が浮かんだ。躊躇って、だがジネットは告げた。



「やっぱり、ヴァネッサは殺されたのかもしれない」


「……」


「自殺じゃ、ないのかもしれない」


「……ああ」



 ラルドルフの頷きは、凪ぐようだった。ジネットの声よりも遥かに、落ち着いていて。だからこそ、ジネットには彼の感情が見えなかった。


 ヴァネッサと婚礼を挙げるはずだった彼がなぜそれほど落ち着いていられるのだろう。


 きっとラルドルフはヴァネッサを愛していた。それは彼の言動を見ていれば分かる。それならば彼女が死んだ哀しみは彼にとってどれほどか、ジネットにはきっと想像すら難しいのだ。その彼がなぜ感情を乱さないのか、ジネットは不思議でならなかった。



「……ラルは」


「……」


「ラルは、ヴァネッサが好きだった?」


「……」



 彼からの答えはない。


 闇の中、彼の呼吸の音だけが聞こえている。彼の呼吸に乱れはなかった。



「……ねえ」



 頭に靄をかけるような眠気の中、ジネットは問いかける。



「どうして、ラルはわたしにやさしくしてくれるの?」


「……さあ」



 その彼の声は、少し。



「なぜだと思う?」



 本当に少しだけ、震えていた。


 それが笑っているのか、哀しんでいるのか。


 起き上がれば彼の表情で確認できるというのに、ジネットにはそれができなかった。


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