プロローグ
王国ジェネフィードの城下町は今日も活気づいていた。大通りでは食品の叩き売りが開催され、裕福な人々の笑顔で満ちている。だが、そこから一歩裏通りへと入れば、職のない人々が壁に寄りかかるようにして地べたに座っていた。
その細い路地にぽつんとある酒場。壊れかけの扉は耳障りな甲高い音を立てながら客人を迎える。店内は薄汚れた外観とは違い、綺麗に手入れされている。その酒場では一人の少女が昼間から訪れる客人のために早朝にも関わらず床掃除を丹精込めて行っていた。
薄い栗色の髪は、貧相な服装の割に艶がある。腰まで伸びた髪が今は高い位置で一つに結われていた。暗い蛍光灯の下では瞳は灰色に見えた。だが、顔を上げた彼女の瞳に窓から差し込んだ光が当たれば薄い青色の瞳だと分かる。薄い唇に、凛々しい眉、雪のように白い肌、そして細い顎のライン。上品さ漂う端正な顔立ちはこの下町にはとても似つかわしくない。だが、布を縫い合わせて作られた彼女の服は下町にしっくりしていた。
「ジネット」
店の奥から出てきた女性が少女を呼んだ。少女――ジネットは目を向ける。四十前後だろうか、片手に煙草を持った女性はジネットに声をかける。
「掃除は終わりそうかい」
「あと十分もあれば終わるわ、エメ」
そう返して、ジネットは再び掃除を始める。
髪を振り乱しながら床を磨き上げていくジネット。エメは紫煙を細く吐き出しながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、今朝は王城が騒がしそうだったよ」
「王城?」
「ああ。馬車が二台くらい飛び込んでったねぇ……一つは黒い馬車だったから、あれはゴーワズの馬車かもしれない」
ゴーワズとはジェネフィードの隣国だ。昨年まで他国と戦を行っていたが、その戦に勝利を収めてからは平穏な国となっているという。その理由の一端には、経済的に裕福なジェネフィード王室が資金協力を担っていることが関わっている。
ゴーワズには王子が二人いる。第一王子は数年前に妻を迎え、次期国王となることが決定していた。一方の第二王子は聡明で先の戦にて英雄と呼ばれている。その第二王子は未だに妻を迎えずにいるが、戦争が終わった昨年から度々ジェネフィードを訪れることがあった。
「ヴァネッサ様ももう少しで結婚するのかね」
「どうかしらね」
この国の王室の子供はヴァネッサという第一王女ただ一人だ。彼女はとてもお淑やかであり、なおかつ聡明であると城下町でも有名である。だが人に媚びることなく、掴みどころのない人柄から、彼女は『泡沫姫』との愛称を持っている。その美しい姫君は時折、民衆の前に顔を出すことがあった。
その姫君とジネットの顔が似ている、とヴァネッサを見たことがあるエメはジネットに言う。
「あんた、こんなにもヴァネッサ様に似てるのにねぇ。どうして、ここまで男勝りなのか」
「お淑やかじゃ、生きていけないでしょ」
にこやかに、だが、そこにわずかに苦笑を混ぜてジネットはエメに返した。それに、とジネットは続ける。
「お姫様みたいになんてなりたくなんてない。例え餓えたとしても、わたしは自由に生きていければそれでいい」
ジネットは過去を思うように目を細め、箒を持つ手に力を込めた。その瞳は、何かを耐えるよう。
噛み締めるように、ジネットは言った。
「わたしは、自由であれば、それだけでいい」
だがその翌日、ジネットは城下町から姿を消す。
それから一週間後。
『泡沫姫』と呼ばれたヴァネッサはゴーワズの第二王子であるラルドルフ・フォルトナーとの婚約を発表した。