音楽室のピアノを弾く彼女:一瞬の煌き
以前に書いた音楽絡みの恋愛未満な作品を「なろう」で再々掲載します。
これが「小鳥のように」につながっていったような気がします。
今、僕は目を閉じて、君の姿を思い出している。
思いのほか早く沈みかけたオレンジ色の、秋の陽の光が窓からほぼ水平に差し込んでいる、北校舎四階の音楽室で放課後のひととき、いつも音楽室のピアノを独占して、我が物顔でピアノを弾いている君の姿を。
髪の長い彼女は、こじんまりした子だった。丸顔で優しい顔だった。彼女の弾くピアノの曲は、いつも決まっていた。確か、ショパンの曲だった。
「練習曲 第十二番 ハ短調 オーパス一〇の一二 『革命』」
パリへ向う途中でワルシャワ陥落を聞いたショパンが、祖国ポーランドへの想いを託した曲だ。アルペジオや跳躍音程を用いた情熱的な曲だ。
僕は盗み聴くように音楽室の扉を少しだけ開けて聴いていた。
そんな僕の様子を察知した彼女は弾き終わると鍵盤から目を外して、ゆっくりとこちらを見た。そして決して大きくはないが、しかしゆっくりとハッキリとした声で彼女は言った。
「中に入って」
彼女に声を掛けられた僕はドキリとした。まさか、彼女が僕の存在に気付いているなんて僕はこれぽっちも考えていなかった。
僕は軽く咳払いをして居住まいを直した後、開き直ってガラリと音楽室の扉を開けた。
僕の、その騒々しい様子にもかかわらず、彼女はピアノの前に座ったまま、頭をこちらに向けることもなく、全く微動だにしなかった。
僕はおずおずと音楽室に入って、音楽室の入り口に一番近い席に座った。
僕が席に座ったのを確かめると、彼女はおもむろに鍵盤に指を掛けて、次の曲を弾き始めた。
「ワルツ 第六番 変ニ長調 オーパス六四の一 『小犬のワルツ』」
速いテンポで旋回するメロディが、自分の尻尾を追ってクルクル回る小犬の様子を奏でている。
弾き終わると、彼女はゆっくりと鍵盤から指を下ろし、俯いた頭をゆっくりと持ち上げ、目蓋をゆっくりと開けて、僕を舐めるように見た。
「もっと近くで聴いて」
彼女の目は、僕をキッと睨みつけてはいたが、目の奥の光がどこか優しい感じで光っていた。そして、口元には少し笑みも浮かんでいるように思えた。
僕は言われるままに、入り口の席からピアノに一番近い席に移動した。彼女は僕が移動するのをじっと見ていた。僕が動くと彼女の目と頭が動いていた。
僕が席に着くのを確認してから一呼吸置いた。そして、おもむろに弾き始めた。
「幻想即興曲 嬰ハ短調 オーパス六六」
右手の六連符と左手の十六分音符による、異なるリズムの組み合わせと急速なテンポが、幻想的情感を掻き立てる曲だ。
弾き終わった彼女はしばらくの間、ピアノに伏していた。彼女の長い髪が彼女の表情を隠し、さらに鍵盤をも覆い隠していた。
僕はじーっと彼女を見つめていた。顔の表情は判らなかったが、彼女はとても満足気に思えてならなかった。
ゆっくりと上体を起こした彼女は、長い髪を掻き分けて僕の方を向いた。そして、ピアノから指を離しスクッと立ち上がった。そしてピアノの前を離れて歩き出し、僕の席の前で立ち止まった。彼女はもう1度、長い髪を掻き分け、後ろ手に髪の毛を束ねた後、僕の顔を覗き込んで言った。
「私の最後の演奏は、どうだった?」
僕はビックリした。いつも音楽室でピアノを弾いている彼女なのに、どうしてそんなことを言うのか。僕には解せなかった。
「え? 最後って?」
僕は覚えず、そう口走った。だが彼女は僕の言葉を無視したのか、聞いてなかったのか、窓際へ歩いていって振り返った。
「そう、最後なの。もうピアノは弾かないの」
彼女は悲しげな、それでいて満足気な、不思議な表情だった。
僕には、サッパリ訳が分からなかった。だから、唐突に彼女に訊いてしまった。
「どうして?」
彼女は、僕の質問を想定していたのだろう、フフッと笑って言った。
「うちは、貧乏なんだもの。もう、習わせるお金が無いんだって」
僕は、しまったと思った。そして、そんな事実を聞かされた僕のショックは、胸をドキドキさせていた。軽いパニック状態の僕は、訳も解らずにこう口走った。
「ご、ごめん」
そして、僕は頭を下げていた。そんなぼくの姿を見て、彼女はまた僕に近づいて言った。
「いいのよ、事実なんだから」
そして、彼女はそっと両手を差し出して、僕の右手を握り締めた。そして愛しそうな瞳で僕を見つめた。
「私、知ってたわ。ずっーと前から知ってたのよ」
彼女はそう言って僕の右手をギュッと握ってきたので、僕はドキッとした。
彼女は僕の手を握り締めたまま、そして僕を見つめたまま、こう言った。
「音楽室で弾いていると、いつもいつも、君が盗み聴きしてるのを」
僕は赤くなって、彼女の顔から視線を外した。それでも構わず、彼女は話し続けた。
「最初は嫌だったわ」
彼女は握っていた僕の右手を離した。
「だけど、思い直したの。私にも一人はファンがいたんだって」
僕はもう一度、彼女の顔に視線を戻した。
彼女は僕を見つめたままだった。
彼女は目を閉じて、顔を僕に近づけた。
僕も目を閉じた。
彼女の唇が、僕の唇に軽く触れた。
「ありがとう」
彼女はそう言って音楽室を出て行った。
あの時のことは忘れない。
彼女が一番煌いていた頃だった。
その一瞬に立ち会えた僕は幸せだった。
音楽プロデューサーになった今、あの時の、切なく、悲しく、優しく、美しい、ショパンには出会えていない。
あの憂いは、彼女だけのものだったのだろうか。
いや、あの一瞬の、全てがそうだったのだ。
僕は未だに「一瞬の煌き」を追い掛けている。
道程は長過ぎるかもしれない。
お読みいただき、誠にありがとうございます。
よろしければ感想などいただけたなら幸いです。
初 出:ライブドアブログ『憂鬱』「一瞬の煌き・音楽編」二〇〇七年一一月二八日
再掲載:ヤフーブログ『憂鬱FC』「一瞬の煌き・音楽編」二〇〇八年一〇月一〇日