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第五話 距離の境界

扉を閉め、空気の穏やかさで無意識に入れていた力が抜けていく。

力のない足取りでソファへとたどり着き、体重を雑に預ける。

「はあ……」

彼女の前では疲れないと言ったが、同じ空間にいると落ち着かないのは確かだ。


ライラさんは『私の周りにいるとみんな疲れてしまう』と言っていたが、僕が感じているこれとは意味が違うんだと思う。

ロアンの言っていた彼女の性質を思い出す。

「トアを無意識に揺らす、かあ」

僕の頭の中がまとまらないのも、その性質のせいにできたら。

騒々しいのは嫌いだ。だけど、彼女は静かなのに僕の何かを揺らす。

それは別に嫌じゃない。でも僕だけが揺らされているような感じがして、なんだか……


答えが出そうのない思いに蓋をするよう、ソファへ顔をうずめる。

そのうち、僕の意識も暗闇に吸い込まれていった。



……ぼやけた世界の中にいた。とても静かな場所にいる。

白くて、何もない天井が広がっている。

ここはどこなんだろう。


「ナギさん、朝ですよ」

その声に意識が輪郭を取り戻し始める。

「ん……ライラさん……?」

天井よりも白い彼女の髪が、僕の顔をくすぐる。

想像するより近い距離に、赤く澄んだ瞳があった。

「あ、おはようございます。とても気持ちよさそうに寝てましたね」

ライラは、いつからそこにいたのだろう。

意識が整いきる前に、心臓が騒ぎ始める。


「うわ!」

起き上がろうとして、彼女の顔がぶつかりそうなほど近いことに気づき、身動きが取れなくなる。

ライラは僕の頭上を見るようにして、静かに笑う。

「寝ぐせ、かわいいですね」

思わず、髪を両手で抑える。

「朝食ができているので、身支度がすんだらみんなでいただきましょう」

「は、はい……顔洗ってきます……」

僕は髪を抑えたまま、部屋を出ようとする。

「ナギ!早くしろよ!腹が減って仕方ない」

ロアンもすでに起きていたようだ。

「ロアン先生。ご飯は逃げませんから。ナギさん、ゆっくりで大丈夫ですよ」

ぺこりと頭を下げ、そのまま逃げるように外へ出た。



外の空気を吸い込み、吐き出す。

朝からこんな調子だと、先が思いやられる。


昨日と同じように、魔法を使って顔を洗い始め、考える。

魔法にも少しずつ慣れてきた。とはいっても、地味な魔法ばかりだ。

ゲームやアニメで見るような、派手で豪快な魔法。

そんなものが必要になる場面には出会いたくない。けれど少しだけ憧れてしまう自分もいる。

ロアンに言えば、使い方を教えてくれるだろうか?

元の世界に戻れるまでは、こっちの世界を楽しむのも悪くないのかもしれない。


「待たせてすみません」

タオルで顔と髪を拭きながら、椅子に腰を下ろす。

トーストされたパンの香りに、やはりどこか懐かしさを感じる。

「いただきます」

食事を始めて少し経つと、ロアンが口を開いた。

「今日、町へ行こうと思っている。二人とも付き合ってくれ」

町?近くに村があるのはロアンから聞いていたが、町の話は聞いたことがない。

「町って、どこにあるんですか?」

「ここから西にエルミアという町がある。昼までにはつく距離だ」

思えば、この世界に来てからロアンやライラ以外の人間と、接したことが無かった。


「先生、お買い物ですか?」

「いや、少し研究会に顔を出さなければいけなくなってな」

研究のことになると騒がしいロアンだが、やけに落ち着いている。

「それに、いつまでもその奇妙な服しか持っていないのも不便だろう?」

ロアンは僕の方を見ながら言う。

まあ、こちらの文化に触れることができるのは楽しみだ。

「わかりました」

「よし、さっさと食べて準備してこい」

ロアンはそそくさと研究室へ戻っていった。


食事を終え、食器を下げる。

「ライラさん、ごちそうさまでした。食器洗うのでまとめてくれますか?」

料理を作ってもらい、片づけまで任せっぱなしではさすがに申し訳ない。

「いえ、私がやりますから!ナギさんは先に外出の準備を……」

「僕は……ライラさんと対等でいたいんです。だから少しくらい手伝わせてください」

「そういうことなら……お言葉に甘えさせてもらいますね。ありがとうございます」

ライラはお辞儀をして、食器を渡してくれた。

「ライラさんはどうしてロアンさんと暮らすようになったんですか?」

何気なく聞いてみる。


「実は……私、両親がいないんです」

まずいことを聞いてしまったかもしれない。

「……すみません」

「ああいえ!大丈夫です!実際、私は両親の顔も知らないので」

「幼いころに両親が私を残して、どこかに行ってしまったらしいんです」

「それで母と親しかったロアン先生のところに引き取られた、って感じですね」

……なんといえばいいのかわからない。

ライラはそのことをどう思っているのだろうか。


「私にとってロアン先生は、親でも、お姉ちゃんでも、友達でもあるような人なんです」

「だから私がロアン先生の役に立てることなら、何でもしたいんです」

「……ライラさんは強い人なんですね」

「そんなことないですよ。ただ、私はロアン先生に感謝してもしきれないほど、良くしてもらったので」

「少しでもお礼をしていきたいだけなんです」

……この世界が僕の想像だとは、思えなくなってきている。

いや、思いたくなくなってきている、という方が近い気がする。


「さあ!片付けも終わりましたし、町へ行く準備をしましょうか!」

「ライラさんは町へ行ったこと、あるんですか?」

「ええ、何度か。ロアン先生の付き添いがほとんどですが」

「とても賑やかで楽しい場所ですよ!」

僕は顔には出さなかったが、心の内では好奇心が止まらなかった。

この世界にいるほかの人たちはどんな生活をしているのだろうか。

見たことのない魔法や、剣や槍を扱う店もあるなら見てみたい。

「ナギさんとお出かけするの楽しみです!」

……この人は、どれだけ僕の心を揺らせば気が済むのだろう。


「二人とも、準備できたか?」

ロアンが扉の向こうから声をかけてくる。

「ただいま参ります!」

会話が思ったより弾み、時間が経っていたようだ。

「すみませんロアンさん!急ぎます!」


「よし、いくか」

ロアンはあまり気乗りしていないように見える。

「ロアン先生、体調がよろしくないのですか?」

ライラもそれには気づいているようだ。

「いや、ちょっと面倒ごとが多くてな。それに会いたくない奴と会うことになるんだ」

ロアンにもいろいろあるんだなと思い、少しだけ同情する。

人間関係は面倒なことの方が多い。僕もそれをいやというほど感じてきた。

研究者ともなれば、派閥や思想の違いでより複雑になりそうだ。

「ロアンさんにも悩みがあるんですね」

「……どういう意味だ?」

「さ、ロアンさん。もう出ましょうか」



「ロアンさん……まだつかないんですか……?」

かれこれ一時間半は歩いているだろうか。

「ナギ、だらしないな。男だろう?ライラは平気そうだぞ?」

横に目をやると、ライラは平気そうな顔で歩いている。

「ナギさん、もう少しですから頑張りましょうね」

ああ、自分が情けない。……こちらにいる間、少しでも体を鍛えるべきだろうか。

「ほら、見えてきたぞ」

顔を上げると、思ったより栄えていそうな町が遠くに見えた。

「思ったより大きな町なんですね」


「ああ、この辺りの村の近くにある唯一の町だからな。人も物も知識もここに集まる」

「町に着いたら私は研究会に行く。二人で時間をつぶしといてくれ」

ロアンが重みのある袋を手渡してくる。

「これは?」

「小遣いだ、お前の服と欲しい物があれば買っておけ」

服とその他諸々を買う分には、あまりにも袋が重いような気がする。

もしかしてロアンさんってお金は持っている方なんだろうか?


結局それから三十分程歩いて、町の入口へ着いた。

外壁というには少し頼りないくらいの壁。

その切れ間に門があり、鎧を身にまとった人が二人。

見るからに屈強そうな門番へ、ロアンが話しかける。

「トア研究会のロアンだ」

何かを門番の一人に見せている。

身分証明書のようなものだろうか。

「こっちの二人は私の助手だ。男の方は研究会員証の発行もしに来ている」

研究会員証?もしや勝手に研究会に所属することにされていないか?


どうやら入れるようだ。

門をくぐる際に、門番がじろじろと見てくる。

やっぱり僕はこの世界では浮く格好をしているんだろうか。

門をくぐると、そこには想像していたよりもずっと騒がしい場所が広がっている。

「……人が多いですね」

思わず考えていたことが、そのまま口に出る。

「言っただろう。周辺の村からすべてが集まる場所なんだ、ここは」

「もちろんここで生活している人もいる。今後もここに来ることがあるだろうし、慣れておけ」


僕はこちらの世界に来てから、初めて見る人の流れに圧倒されたままだった。

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