第四話 揺らぎの距離
「いただきます」
テーブルに並べられた、複数の料理を前に手を合わせる。
「どうぞ、召し上がってください。お口に合えば良いのですが……」
ライラは自信なさげな表情を浮かべ、椅子に身体を預ける。
今思えば、こちらの世界できちんとした料理を食べるのは初だった。
大皿から野菜炒めのような料理を、自分の器へと取る。
それを口へ運ぶと、初めて口にするはずの食材で出来た料理のはずなのに、どこか懐かしい感じがする。
とても落ち着く味がする。
「ライラさん、料理お上手なんですね。とてもおいしいです!」
「よかった!おかわりもありますので、好きなだけ召し上がってください!」
ライラは胸をなで下ろし、料理に手をつける。
ロアンは僕らのことを気にかける様子もなく、料理を口に運んでいる。
「ロアン先生、慌てると詰まらせますよ?」
「研究が捗って仕方ないんだ。一刻も早く再開したくてな」
「もう……」
ライラは僕が来るまでも、苦労していたのだろう。
少し同情してしまう。
そんな中、僕は何かを気にしないように、料理の味に集中する。
気がかりなのはもちろん、ライラと同じ部屋で生活を共にする、という話のことである。
さすがに急すぎる。出会ったその日のうちに、女性と同じ部屋で寝る。
あまりにも落ち着かない。
ライラさんは平気なのだろうか?
彼女は気にしている様子を見せないが、よくあることなのだろうか。
そんなことを考えながら、ライラの方を見てしまう。
目が合ってしまった。
僕は偶然、彼女と目が合ってしまったかのように、料理へと視線を流す。
胸の奥がざわついて仕方がない。
「ナギさん。おかわり、いりますか?」
ライラから不意に声をかけられ、わずかに身体が跳ねる。
「あ……はい。お願いします……」
彼女が空になった僕の食器に手を伸ばす。
僕が食器を手渡そうとした時、また指が触れてしまった。
今度は彼女自身、気づいていないのか、気にしていないのか。
「はい、ありがとうございます」
微笑んで何事もなく僕の食器へ料理をよそう。
彼女と一緒にいると、どこか居心地が悪い。
恋をしているわけでもないのに、心拍数がめちゃくちゃになってしまう。
自分が女性に慣れていないのもあるだろうが、それにしてもひどすぎる。
「どうぞ!たくさん食べてくださいね」
ライラは調子を変えずに、接してくれている。
僕だけが意識してしまっているようで、恥ずかしい。
今は食べることで意識をそらすことしかできない。
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
ロアンの次に食事を終わらせ、食器を下げてそそくさと自室へ戻った。
いや、もう今日から自室ではなくなる。
ベッドの上でどうにもならないことを、どうにかしようと考えるが、まとまらない。
コンコン。
身体をじたばたさせていると、片づけを終わらせたライラがノックをしてから声をかけてくる。
「入ってもよろしいですか?」
「あ……はい」
僕はベッドの上に座り直し、髪を指でいじる。
扉が軽く音を立て、ライラが入ってくる。
暖かそうな空色の寝巻に着替えていた。
布が灯りを柔らかく受けて、彼女の輪郭をぼんやりと滲ませている。
部屋に入った途端、空気が少しだけ変わった気がした。
静かになる、というより――
落ち着かなくなる静けさ。
彼女は扉を閉めると、少しだけ首を傾げた。
「……落ち着きませんか?」
心臓が跳ねる。
見透かされたような言葉だった。
「え、いや、その……急だったので」
曖昧に答えると、ライラは小さくうなずいた。
「そうですよね。私も……少しだけ、驚きました」
その言い方はとても穏やかだったのに、
胸の奥がまたざわつく。
彼女はただ静かに、こちらへ歩いてくる。
歩くたびに、空気がほんのわずかに揺れる。
目に見えない水面に、波紋が広がるみたいに。
ベッドの端に腰を下ろした彼女は、
少しだけ距離を空けて座った。
近い。
けれど触れてはいない。
その距離が、余計に落ち着かない。
「……ナギさんは」
彼女はゆっくりと口を開く。
「私の近くにいると、息がしづらくなりませんか?」
予想もしなかった問いだった。
言葉を探していると、
彼女は視線を床へ落としたまま続ける。
「昔からなんです。私の周りにいると、皆さん疲れてしまうんです」
声はいつも通り柔らかいのに、
そこだけほんの少しだけ揺れていた。
「だから、もし……」
彼女は少しだけこちらを見た。
淡い瞳が、灯りを受けて揺れる。
「無理をされているのなら、遠慮なく言ってくださいね」
その瞬間、胸の奥でざわついていたものが、
すっと静かに落ちていく。
理由はわからない。
ただ――
彼女の言葉を聞いた途端、
世界の輪郭が少しだけ整った気がした。
「……違うんです」
気づけば、そう答えていた。
「苦しいんじゃなくて……」
言葉を探す。
これは何に近いのだろう。
怖さでも、緊張でもない。
「揺れてる、って感じなんです」
ライラの瞳がわずかに開かれる。
「落ち着かないけど……嫌ではないです」
そう言った瞬間、
彼女の周囲の空気がほんの少しだけ静まった。
風が止む前の、あの一瞬みたいに。
ライラは、驚いたように瞬きをしたあと、
とても小さく笑った。
「……初めて言われました」
その笑みはほとんど形にならないほど控えめで、
けれど確かに温かかった。
そして次の瞬間――
ベッドの布が、わずかにさざめいた。
二人の間にある空気が、
静かに揺れている。
止まろうとして、
また揺れる。
まるで――
互いのトアが、まだ距離を測っているみたいに。
「ライラさんは、僕と寝るの怖くないんですか……?」
「怖くはないです……けど、やっぱり少し恥ずかしいです」
彼女は困ったように笑う。
彼女はそう言うが、僕の方が眠れそうにない。
「僕、やっぱりリビングのソファで寝ることにします」
「そんな!気にしないでください」
「いえ、大丈夫です。じゃあ……おやすみなさい。また明日。」
僕は平静を装いながら伝え、扉に手をかけ、リビングへ向かう。
「あ、はい……おやすみなさい……」
僕はまだ、この揺れに耐えられなさそうだ。




