第72話『ギデオンの狂気 - 人質作戦』
「蔓」ネットワークの復活により、勢いづくオルターナ領。しかしその動きを察知したギデオンは、追い詰められた獣のように危険な行動に出る。彼が選んだのは、最も卑劣な手段だった
調査委員会到着前日。オルターナ領には緊張と期待が入り混じる空気が流れていた。
「東側の検問所が突破されたとの報告です!」
ガルムが書斎に飛び込んでくる。
「我々の支援物資が、ついに領内に入り始めました」
ミレーヌは安堵の息をついた。吟遊詩人をはじめとする「蔓」の働きで、封鎖は少しずつ綻び始めている。工房ではリナが新型装置の量産を始め、領民たちの士気も高まっていた。
「これで調査委員会にも、孤立していないことを示せる」
ゴドウィンがうなずく。
「しかも、自主的な支援が集まっているという事実は、我々の技術や人柄への信頼の証です」
しかしその時、通信機がけたたましく鳴り響いた。イザベラから託された特別な魔導通信機だ。
『……ミレーヌ様! 緊急です!』
声の主はリディアだった。彼女の声は震え、恐怖に満ちている。
『イザベラ様が……捕まりました! ギデオン様に、内通の嫌疑で!』
書斎の空気が凍りつく。
「詳しく教えてください!」
『昨夜……イザベラ様が密かに連絡を取ろうとしていたところを、使用人の密告で……。ギデオン様は激怒して、彼女を地下牢に閉じ込めました。それだけじゃありません……』
リディアの声が途切れる。
『ギデオン様は……イザベラ様を人質に、オルターナ領に最後通牒を突きつけると言っています。要求は……』
「何ですか?」
『あなたの……ミレーヌ様ご自身の身柄と、魔導農園の全技術の明け渡し。拒否すれば……イザベラ様を公開処刑すると』
通信が途切れた。
誰も言葉を発せなかった。窓の外では、何も知らない領民たちが忙しく動き回っている。しかしこの部屋の中では、時間が止まったかのようだった。
「罠です」
ガルムが最初に口を開いた。
「明らかな罠です。要求に応じれば、ミレーヌ様は捕まり、技術は奪われ、結局イザベラ様も殺されるでしょう」
「しかし、応じなければイザベラ様が……」ゴドウィンの声は苦しげだ。「彼女は我々のために、命がけで情報を提供し続けてくれた。見殺しにはできません」
ミレーヌは窓辺に立ち、遠くを見つめていた。彼女の脳裏には、仮面舞踏会で初めてイザベラと会ったときの光景が浮かぶ。怯えながらも、確かな意志を持って手を差し伸べてきたあの女性。
(私を信じてくれた……)
「行きます」
ミレーヌの声は静かだったが、揺るぎなかった。
「イザベラ様を救出します」
「ミレーヌ様!」ガルムが叫ぶ。「無謀です! それでは敵の思うつぼです!」
「だからこそ、こちらも思うつぼを演じるのです」
ミレーヌは振り返り、わずかに口元を緩めた。
「ギデオンは私がイザベラ様を救出に来ることを期待している。ならば、その期待通りに動く。ただし……向こうが想定していない方法で」
ゴドウィンが目を輝かせる。
「つまり?」
「二つのチームに分かれます」
ミレーヌは机の地図を広げた。
「第一チームは表向きの救出隊。私を含む少数精鋭で、ギデオンの別荘に向かう。彼らはそこに全注意を向けるでしょう」
彼女の指が別の場所を指す。
「第二チームは……王都のダンロップ侯爵家本邸に向かう」
「本邸ですって!?」ガルムが驚く。
「ええ。イザベラ様が捕まっているのは別荘の地下牢。しかし、ギデオンが本当に恐れているのは、本邸にある彼の犯罪の証拠が暴かれることです。私は賢者の塔との密約の書類を、本邸のどこかに隠していると踏んでいます」
「それを押さえれば、交換条件にできると?」
「そうです。さらに……」ミレーヌはリナが開発した新型装置の設計図を手に取る。「これを持っていきます。『生態系調和爆雷』の改良版。殺傷能力はなく、広範囲の敵を一時的に無力化できる」
ゴドウィンがうなずく。
「つまり、正面からは無力化装置を使い、背後からは証拠を押さえる。二方向からの挟み撃ちですね」
「時間がない。すぐに準備を」
別荘地、地下牢
冷たい石の床に座り込むイザベラは、ぼんやりと天井の小さな窓を見上げていた。彼女の体には無数の傷跡があり、服は血で汚れている。拷問を受けたのだ。
「おや、まだ起きていたのか」
鉄格子の向こうから、聞き慣れた声がする。ギデオンだった。彼の顔には優雅な微笑みが浮かんでいるが、目は完全に狂気に染まっていた。
「もうすぐだよ、イザベラ。お前の愛するオルターナ家の娘が、お前を救いに来る。そして……」
彼は格子に手をかけ、そっと撫でる。
「あの女もここに閉じ込め、ゆっくりと……いたぶる。お前たち二人そろって、私のコレクションの始まりだ」
イザベラは何も答えなかった。ただ、かすかに口元を動かす。
(ミレーヌ様……来ないで)
オルターナ領、出発直前
救出隊は十名。ミレーヌ、ガルム、そして選りすぐりの護衛たち。全員が軽装で、目立たない旅人を装っている。
「ゴドウィン、領地は頼みました」
「お任せを」ゴドウィンが深く頭を下げる。「必ずや、本邸班との連絡を密に保ちます」
リナが駆け寄ってくる。
「ミレーヌ様! 装置、持っていってください!」
彼女が差し出したのは、掌に収まるほどの小さな球体だった。
「これが新型です。投げると、十メートル範囲の敵を十秒間、戦闘不能にします。殺しはしません」
「ありがとう、リナ。あなたは本当に……偉くなった」
リナの目に涙が光る。
「父さん……喜んでくれるでしょうか」
「きっと、誇りに思っているわ」
出発の時が来た。一行は夜陰に紛れて領地を後にする。その背中を、ゴドウィンとリナ、そしてエイランが見送った。
「お嬢様……どうかご無事で」
エイランの祈るような呟きが、闇に消えた。
別荘地、夜
ギデオンの別荘は、丘陵地帯にひっそりと建っていた。周囲には見張りの兵士が数十名、そして魔術師の気配もする。警戒は厳重そのものだ。
「予想通り、警備はこっちに集中している」
ガルムが低く囁く。
「本邸班の連絡は?」
「ゴドウィンから、もうすぐ到着すると」
ミレーヌは小型の通信機を耳に当てる。イザベラからもらったものだ。すると、かすかに声が聞こえてきた。
『……こちら本邸班。裏口から侵入成功。ただいま書斎を捜索中』
「頼みます」
ミレーヌはリナの装置を手に取った。小さな球体が、月明かりに照らされて微かに光る。
「では、始めましょう」
彼女が合図を送ると、ガルムと護衛たちが一斉に動き出した。目指すは、地下牢へ通じる裏口だ。
しかしその時、別荘の正面の扉が開き、ギデオンが姿を現した。彼の手には、血に染まった布が握られている。
「おお、来たか、オルターナの娘よ!」
彼の声は異様に高揚している。
「お前の愛するイザベラの……血のついたハンカチだ。見事、救出してみせよ!」
ギデオンは狂ったように笑いながら、布を空中に投げた。
ミレーヌの手が、かすかに震えた。しかし、彼女はすぐに冷静さを取り戻す。
「ガルム、二手に分かれます。あなたは裏口から。私は正面で彼の注意を引きつける」
「一人で!? 危険です!」
「装置がある。それに……」ミレーヌはギデオンを見つめる。「彼は私を捕らえたい。まだ殺すつもりはない」
ガルムは一瞬躊躇したが、うなずいた。
「五分で戻ります。それまで絶対に死なないでください」
「約束する」
ガルムたちが闇に消えるのを見届けてから、ミレーヌはゆっくりと立ち上がった。月光が彼女を照らし出す。
「ギデオン・ダンロップ」
彼女の声は凛と響く。
「イザベラを解放しなさい」
ギデオンは嬉しそうに拍手した。
「おお、勇敢だ! 素晴らしい! だが……無謀だ!」
彼が手を上げると、周囲の闇から無数の兵士が現れた。五十、いや、それ以上。完全に包囲されている。
「さあ、どうする? オルターナの魔女よ」
ミレーヌはゆっくりと笑みを浮かべた。
「一つ、お見せしたいものがあります」
彼女は懐から球体を取り出し、高々と掲げた。
「これは、カイルという男が命を懸けて作り、その娘が完成させた装置だ。殺しはしない。ただ……」
球体が輝き始める。
「一時的に、すべてを眠らせる」
彼女が地面に球体を叩きつける。炸裂と同時に、眩い光が辺りを包み込み、無色の煙が広がった。
「なに……これ……」
「眠い……」
「目が……開けられない……」
兵士たちが次々と倒れる。十秒で、五十人の兵士が完全に動けなくなった。
ギデオンは驚愕の表情で周囲を見渡す。
「何を……した!?」
「生態系調和爆雷の改良版です」
ミレーヌは一歩、また一歩と近づく。
「殺しはしない。でも、あなたの兵士たちはもう戦えない」
「ふ、ふざけるな!」
ギデオンが剣を抜き、魔法をまとわせる。しかしその時、別荘の奥から別の物音が聞こえた。地下牢の方だ。
「ミレーヌ様!」
ガルムの声が響く。
「イザベラ様、救出しました!」
彼が抱える女性の姿が月明かりに浮かぶ。血に染まり、ぼろぼろになった服。しかし確かに、イザベラだった。
「イザベラ……!」
ミレーヌが駆け寄ろうとする。
しかしギデオンが邪魔をする。
「まだだ! まだ終わっていない!」
彼が剣を振りかざした瞬間、別荘の中から別の声が響いた。
「終わりだ、ギデオン」
それは魔導通信機を通じて流れてきた声だった。ゴドウィンの声だ。
『本邸班、成功しました。ギデオンの犯罪記録、すべて押さえました。賢者の塔との密約書類も。今、王都の治安維持隊が本邸を包囲中です』
ギデオンの顔から、完全に血の気が引いた。
「な……に……」
「あなたの負けです、ギデオン」
ミレーヌは静かに言った。
「人質を解放しなさい。そして罪を認めなさい」
ギデオンは周囲を見回す。倒れる兵士たち。救出されたイザベラ。遠くから聞こえる、別荘を包囲する足音。そして──自分だけが、取り残されている。
「……まだだ」
彼は最後の力を振り絞り、剣をイザベラに向けて投げつけた。
「イザベラ!」
ガルムが咄嗟にかばう。剣は彼の肩に深く突き刺さったが、イザベラには届かない。
「ぐっ……!」
「ガルム!」
その隙に、ギデオンは闇に消えた。追うべきか、しかし負傷者を抱えては無理だ。
ミレーヌは歯を食いしばりながらも、まずは仲間の手当てを優先する決断をした。
「医療班を! すぐに!」
イザベラがかすれた声で呟く。
「ミレーヌ様……なぜ……来てくれたんですか……」
「あなたが……私を信じてくれたから」
ミレーヌは彼女の手を握る。
「今度は、私があなたを信じる番です」
夜明けが近い。戦いは終わった。しかしギデオンは逃げ、まだ真の決着はついていない。
オルターナ領の戦いは、新たな局面を迎えようとしていた。
イザベラ救出、成功……! しかしギデオンは逃げ、ガルムは負傷。喜びもつかの間、新たな課題が山積みです。
リナの開発した新型装置が大活躍でしたね。父カイルの意志を確かに受け継いでいます。そしてイザベラの壮絶な拷問の跡……彼女の心の傷も深そうです。
次回『決戦 - 遺物の前で』では、逃げたギデオンが最後の賭けに出ます。舞台は再びオルターナ領へ。いよいよクライマックスが見えてきました。お楽しみに!
――そしてちょっとした裏話ですが、実は作者がインフルエンザにかかってしまい、更新が少し遅れていました……!すみません!もう元気になりましたので、ここからはしっかり進めていきます。引き続きよろしくお願いします!




