第70話『分霊の儀式 - 託される想い』
媒介者としての限界に達したミレーヌ。彼女を救うための分霊術が遂に実行されるが、その代償はあまりにも大きい。そして、王都からの使者が到着する中、新たな選択が迫られる。
王都からの使者到着まで、残り二時間。領主館の書斎には、重い空気が張り詰めていた。
「分霊術を行うなら、今すぐ決断を」
ゴドウィンの声には、揺るぎない決意が込められていた。
「使者到着後では、もはや術を執り行う余裕はありません」
ミレーヌは机に手をつき、目を閉じていた。額には冷や汗が光り、唇はわずかに震えている。彼女の内側では今も、魔導農園のネットワークを通じて無数の「声」が響き渡っていた。
『痛い……』(昨日負傷した兵士の傷)
『寂しい……』(カイルを失ったリナの心)
『疲れた……』(連日の戦闘で消耗した土地)
「やめて……」
彼女の呟きはかすかだった。
「だれの感情か……わからなくなる……」
ガルムが一歩前に出る。
「ミレーヌ様、時間はありません。このままでは、あなたが崩れてしまう」
「でも……分霊術のリスクは……」
「リスクを承知で申し出ています」ガルムの目は真っ直ぐだった。「私は戦士です。痛みには慣れています。それに……」彼は一瞬言葉を詰まらせる。「この領地を、あなたを守るのが私の役目です」
エイランがミレーヌの手を握る。
「お嬢様……ご無理をなさって倒れてしまえば、守りたい人たちを守れなくなりますわ」
その温もりが、ミレーヌの迷いを断ち切った。
「……わかりました。お願いします、ゴドウィン」
魔導農園コア制御室
儀式は、古代遺物の真上に設けられた特別室で行われることになった。円形の部屋の床には複雑な魔方陣が刻まれ、三人は三角に位置取った。
「最後の確認を」
ゴドウィンが厳かな口調で述べる。
「この術は、ミレーヌ様と魔導農園ネットワークとの過剰な結びつきを緩め、その負荷を私とガルムで分担するものです。成功すれば、ミレーヌ様の負担は軽減され、自我を保てるでしょう」
彼は二人を順に視る。
「ただし代償として、私には魔力の大幅な減衰が訪れます。以後、大規模な魔術は使えなくなるでしょう。ガルムには、ネットワークとの共感能力が付与されます。それは時に他人の痛みを感じる苦しみをもたらすかもしれません」
「構わん」ガルムの返答は即座だった。
「ミレーヌ様には……」ゴドウィンは彼女を見つめた。「媒介者としての『完全な能力』が失われます。代わりに、『制御された能力』が残るでしょう。つまり、意識してネットワークに接続する必要が出てきます」
ミレーヌは深く息を吸った。
「それで……いい。今のような、すべてが流れ込んでくる状態よりは」
「では、始めます」
ゴドウィンが古代語で詠唱を始める。低く響く言葉に合わせて、床の魔方陣が微かに輝き始める。三人の周囲に、光の輪が浮かび上がる。
儀式の中
ミレーヌは突然、すべての「声」が遠のくのを感じた。代わりに、二つの強い意志の流れが自分に向かってくるのを感知する。
一つは、古く深い知識の流れ──ゴドウィンの意志だ。三十年に及ぶ研究、挫折、そして希望。古代遺物との対話、失敗、再挑戦。彼の人生そのものが、ゆっくりとミレーヌの中に流れ込んでくる。
『畏れず、受け入れよ』
ゴドウィンの声が心の中で響く。
『この知識が、あなたを支えるだろう』
もう一つは、鋼のように強く、揺るぎない意志──ガルムのそれだ。戦場で培った覚悟、守るべきものへの忠誠、そして深いところに秘められた優しさ。それは荒削りだが、確かなものだった。
『苦痛なら、俺が引き受ける』
ガルムの意志が伝わる。
『お前は……笑っていろ』
ミレーヌの内側で、何かが「分かれる」感覚があった。過剰に結びついていたネットワークとの絆が、二本の新しい流れへと分岐していく。
ゴドウィンへ向かう流れは、知識と制御の系統だ。魔導農園の理論的基盤、遺物との対話方法、エネルギーの調整技術──それらが彼の中に定着していく。
ガルムへ向かう流れは、感覚と直感の系統だ。土地の痛み、植物の状態、人々の感情のざわめき──それらを感じ取る能力の一部が移行する。
そしてミレーヌ自身には、「核」が残る。ネットワーク全体を見渡す視座、最終的な決定権、そして──新たな「境界」ができた。これ以上は入ってこない、守られた内側の領域が。
現実へ戻る
光が消え、三人はゆっくりと目を開けた。
最初に動いたのはゴドウィンだった。彼はよろめきながらも立ち上がり、自分の手のひらを見つめる。
「……ふむ。確かに、魔力はかつての三割ほどか。しかし……驚くほど軽い」
彼の顔には、どこか清々しい表情が浮かんでいた。三十年間背負ってきた重荷──遺物の研究とその責任から、ようやく解放されたような。
「ゴドウィン、大丈夫ですか?」ミレーヌが心配そうに尋ねる。
「ええ、むしろ調子が良いです」彼は微笑んだ。「重すぎる荷物を下ろしたような感覚です。これで、もう若い者たちに任せられます」
次にガルムが立ち上がる。彼は眉をひそめ、周囲を見回す。
「……変な感じだ。壁の向こうで誰かが話しているのが……わかる。地面の下で虫が動いているのも……」
「共感能力が活性化しています」ゴドウィンが説明する。「時間とともに慣れるでしょう。必要なら、遮断する方法を教えます」
最後にミレーヌが立ち上がった。彼女は慎重に一歩を踏み出す。そして──
「静か……だ」
彼女の目に涙が光った。
「ただの……静けさが……」
これまでずっと、無数の声にさらされていた彼女にとって、この静寂はまるで奇跡のように感じられた。意識してネットワークに触れれば、まだ「声」は聞こえる。だが、もう流れ込んでくることはない。
「成功したようですな」
ゴドウィンが安堵の息をつく。
「成功率六割というのは、少し控えめな評価でした」
その時、扉をノックする音がした。エイランが入ってくる。
「お嬢様……王都からの使者が、領地の入口に到着しました」
使者の到着
一行は二十名ほど。先頭に立つのは、王家の紋章が入った銀の鎧をまとった騎士と、深紅のローブを着た初老の官僚だった。
「オルターナ伯爵家当主、ミレーヌ・オルターナ様にご拝謁を願います」
官僚が形式ばって告げる。
「我々は、国王陛下の名において参りました」
ミレーヌは整えられたばかりの正装で応接間に現れる。傍らにはゴドウィンとガルムが控えている。
「ようこそお越しくださいました。さっそくですが、ご用件を?」
官僚が羊皮紙の巻物を取り出す。
「まず、前回の調査団の報告について。レオンハルト・フォーゲル及びエルマー技官の報告書は、極めて好意的な内容でした。特に、魔導農園技術の有用性と安全性について、高い評価が記されています」
ミレーヌの胸に、ほのかな希望が灯る。
「しかし」
官僚の口調が変わる。
「ダンロップ侯爵家より、全く異なる報告が提出されました。オルターナ領が古代遺物を兵器として開発し、隣接領地への侵攻を計画しているとの告発です」
「それは……!」
「双方の主張を検証するため」官僚が続ける。「国王陛下は、独立調査委員会の設置を決定されました。委員長には、私、財務省次官のマルセルが任命されました」
マルセル次官はミレーヌを見つめる。
「委員会は明日から調査を開始します。その間、オルターナ領は一切の魔導農園関連の実験を停止し、古代遺物へのアクセスを制限することが求められます」
「それは……」ゴドウィンが口を挟もうとするが、ミレーヌが手を上げて制止する。
「お受けします」
彼女の声は静かだが、確かだった。
「ただし、一つ条件がございます」
「それは?」
「調査委員会のメンバーには、第三者の専門家を含めてください。例えば……賢者の塔の開放派や、中立の魔導学者を」
マルセル次官が一瞬考え込み、頷く。
「妥当な要求です。考慮しましょう」
夜の密会
使者一行が宿泊施設へ向かった後、ミレーヌたちは再び書斎に集まった。
「これは時間稼ぎの策略です」ガルムが低く唸る。「ダンロップ侯爵派が、我々の動きを封じるための」
「わかっています」ミレーヌは窓の外を見つめながら言った。「でも、逆にチャンスでもあります」
「どういうことですか?」ゴドウィンが尋ねる。
「私たちの技術を、公正な場で証明する機会です」ミレーヌの目が輝く。「しかも、王族の面前で。もしここで魔導農園の真価を認めてもらえれば……」
「ダンロップ侯爵派の告発は無効になる」ゴドウィンが続ける。「なるほど。しかし危険も伴います。万一、調査委員会が彼らに買収されていれば……」
その時、書斎の密かな入り口が開き、一人の人物が現れた。フードで顔を隠しているが、その金髪からすぐに正体がわかる。
「イザベラ……様?」
「声を潜めてください」イザベラはフードを下ろす。彼女の顔には疲労の色が濃いが、目は鋭く輝いていた。「危険を冒して来ました」
「どうしてここに?」
「ギデオンが、調査委員会のメンバーを買収しようとしている情報を入手しました」イザベラが早口で説明する。「特に、魔導技術の専門家として参加する予定の二人が標的です」
ミレーヌたちは顔を見合わせる。
「では、私たちが先手を打ちましょう」
ミレーヌが提案する。
「その専門家たちに、真実を見せます」
「どうやって?」ゴドウィンが尋ねる。「委員会の監視下では、自由な活動は……」
「委員会が来る前にです」ミレーヌの口元に微笑みが浮かぶ。「今夜中に、手配しましょう」
夜更け、二人の人物が密かにオルターナ領を訪れた。一人は賢者の塔開放派の老魔術師、もう一人は王国魔導学院の中年教授だ。
彼らは魔導農園のすべてを見せられ、説明を受けた。そして朝方、深く感銘を受けて立ち去っていく。
「これで、委員会の中には少なくとも二人、味方がいます」ミレーヌがほっと息をつく。
「でも、まだ油断はできません」イザベラが警告する。「ギデオンは……狂っています。彼は絶対に諦めないでしょう」
彼女の言葉通り、その時からオルターナ領には、新たな種類の戦いが始まろうとしていた。
武力ではなく、言葉による戦い。
証拠と論理による戦い。
ミレーヌは自分の手を見つめた。その手には、もはや剣はない。だが、鍬と、種と、そして真実がある。
「さあ、始めましょう」
彼女は静かに宣言した。
「私たちの技術が、命を育むものであることを証明する戦いを」
分霊術は成功し、ミレーヌは一時的な安らぎを得ました。しかし新たな戦い──政治と情報の戦いが始まろうとしています。王都からの調査委員会、ギデオンの陰謀、そしてイザベラの危険な立場……問題は山積みです。
でも、ミレーヌにはもう味方がいます。ゴドウィンとガルムに分担された能力、イザベラの内部情報、そして何より彼女自身の確かな信念。
次回『逆襲の狼煙 - 「蔓」の援軍』では、外部からの意外な支援と、ミレーヌたちの反撃が描かれます。お楽しみに!




