第62話『裏切りと忠誠 - ネットワークの試練』
第62話です。
今回は戦闘そのものよりも、「信頼が試される話」になっています。
裏切りと忠誠、その境界線がどこにあるのか。
読んでくれる人それぞれに、少し考えてもらえたら嬉しい回です。
調査団が去って二日後、オルターナ領は見えない緊張に包まれていた。西の境界から十キロで待機する武装集団の動向は、斥候によって刻一刻と報告されていた。五十人、いや六十人近くに膨れ上がっているという。
しかし、それよりも深刻な危機が「蔓」ネットワークを襲っていた。
自由都市ラーベルの商人ロバートからの最後の伝言が、リディアを介して届いたのは朝も早い時間だった。
『店は閉鎖。私も追われている。他の連絡拠点のうち、三つが同時に襲撃された。生き残ったのは、私を含めて五つだけ。これが最後の連絡かもしれない。オルターナ様、ご無事で』
ミレーヌはその手紙を握りしめ、書斎の壁に貼られたネットワーク地図を見つめた。赤い印で示された連絡拠点のうち、半数以上が黒く塗りつぶされている。
「あまりに正確すぎる」
ゴドウィンが低い声で指摘する。
「襲撃された拠点はすべて、ネットワークの中核を担う者たちです。偶然ではありえません。内部に情報が漏れているのでしょう」
「誰が?」
ガルムの声には怒りが込もっている。
「ネットワークの構成員は限られています。全員が、何らかの形で侯爵派に迫害された者たちです。その中に裏切り者が?」
ミレーヌは座り込み、考え込んだ。
「誰が、なぜ……報酬?脅迫? それとも最初からスパイだった?」
その時、工房から若い弟子が走ってきた。彼はカイルの工房で働く見習いの少年、トムだった。
「ミレーヌ様!カイルさんが、緊急の用事で領地を離れると言っています! 娘のリナさんを連れて、今すぐにだそうです!」
三人は顔を見合わせた。
「カイル……?」
ガルムが疑念を抱く。
「あの男が?」
「確認しましょう」
ミレーヌは立ち上がった。
「ただし、直接問い詰めるのは危険です。まずは状況を探るのです」
工房に向かう道すがら、ミレーヌは記憶を巡らせた。カイルは、侯爵派に工房を追われ、娘のリナを連れてオルターナ領に逃げてきた。彼の技術は魔導農園の発展に不可欠だった。彼が裏切り者だとしたら──
工房の前では、荷馬車に荷物を積み込むカイルの姿があった。リナは不安そうに周囲を見回している。
「カイルさん、聞きましたよ。お出かけだそうで」
ミレーヌは平静を装って声をかけた。
カイルは一瞬たじろいだが、すぐに作り笑いを浮かべる。
「ああ、ミレーヌ様……実は、東の町に用事ができまして。数日で戻ります」
「何の用事ですか? 今、外部の状況は危険ですよ。侯爵派の手先が、『蔓』の関係者を狙っています」
「わ、わかっています。でも……どうしても行かねばならない用事が」
カイルの目が泳ぐ。彼は明らかに嘘をついている。
その時、リナが突然叫んだ。
「父さん!もう嘘はやめて!」
「リナ!」
「ミレーヌ様、本当のことをお話しします」
リナは涙を浮かべながら語り始めた。
「一週間前、父は密かな手紙を受け取りました。差出人は……ダンロップ侯爵家の御用商人でした」
カイルの顔から血の気が引く。
「リナ、黙れ……」
「手紙にはこう書いてありました」リナは震える声で続ける。
「『お前の隠している娘の秘密を知っている。あの女が実はお前の実の娘ではなく、十五年前に誘拐した侯爵家分家の子供だということを。この事実が公になれば、お前は死刑、娘は侯爵家に引き取られる。しかし、オルターナ領の内部情報を提供すれば、この秘密は永遠に葬る』と」
工房の前が水を打ったように静かになった。
カイルはうつむき、肩を震わせた。
「……リナは、私の本当の娘ではありません。十五年前、私はまだ駆け出しの職人でした。ある夜、火事で焼け落ちた屋敷から、赤ん坊を救い出したのです。後に、あの屋敷がダンロップ侯爵家の分家のものであることを知りましたが……もう手遅れでした。私はリナを自分の娘として育てたのです」
彼はミレーヌに跪いた。
「ごめんなさい……私は弱かった。リナを失うのが怖くて……最初は些細な情報だけを渡していました。工房の規模、職人の数……しかし次第に、もっと重要な情報を求められるようになり……」
「父さんが手紙を隠しているのを見つけた時、私はすべてを理解しました」
リナも跪く。
「ミレーヌ様、どうか父を許してください。彼は悪人ではありません。ただ……私を愛するあまり、過ちを犯しただけです」
ミレーヌは複雑な表情で二人を見下ろした。裏切りは許されない。しかし、その動機は理解できた。
「カイルさん、あなたが渡した情報には、何が含まれていましたか?」
「最初の頃は……工房の生産能力、資材の調達ルート。次に……魔導農園の制御装置の設計図の一部。しかし核心部分は渡していません! 分散製作されている部分だけです!」
ゴドウィンが計算する。
「分散製作の情報があれば、逆に各部分を追跡し、職人たちを特定できる……なるほど、それで連絡拠点が正確に襲撃されたのです」
「今日、最後の要求が来ました」
カイルは震える手で封筒を取り出す。
「魔導農園の中心制御室の場所と、警備配置の詳細。これを渡さなければ、リナの正体を暴露すると……」
ミレーヌは封筒を受け取り、開封せずに破り捨てた。
「えっ……?」
「カイルさん、立ちなさい。リナさんも」
ミレーヌの声には、怒りではなく、悲しみが込められていた。
「あなたは確かに過ちを犯しました。しかし、自ら告白した。そして何より、最後の情報はまだ渡していない」
「でも、リナが……」
「リナさんは、オルターナ領の大切な仲間です。私たちは、仲間を敵に引き渡しません」
その時、ガルムが駆けつけた。
「ミレーヌ様!西の武装集団が動き出しました! 領地に向かって進軍開始です!」
時間がない。
「カイルさん、あなたの罪は大きい。しかし、今は戦いの時です。あなたの技術が、領地を守るために必要です」
「どうすれば……?」
「侯爵派に、偽の情報を流してください。私が用意したものを使います」
ミレーヌはゴドウィンに合図を送る。ゴドウィンが持ってきたのは、精巧に作られた偽の設計図と、虚偽の警備配置図だった。
「これは……?」
「最初から、内部にスパイがいる可能性を考えていました。だから、重要な情報はすべて二重、三重に偽装しています。あなたが渡した設計図も、実は本物からわずかに改変されたものです」
カイルは驚愕した。
「最初から……疑っていたのですか?」
「信頼していました。しかし、準備は必要でした」ミレーヌは厳しい表情で言う。「今回のことで、ネットワークは大きな打撃を受けました。しかし、完全には潰せていません。なぜなら、本当の核心部分は、誰一人として完全には知らないからです」
彼女はカイルを見つめる。
「あなたには二つの道があります。一つは、この偽情報を渡し、侯爵派を欺くこと。もう一つは……ここから去ること。選びなさい」
カイルはリナを見つめ、そしてミレーヌを見た。長い沈黙の後、彼は決意を固めた。
「……戦います。私の過ちを、少しでも償いたい」
「父さん……」
「しかし、条件があります」カイルは続ける。「戦いが終わったら、私は自分の罪に対して罰を受けます。リナだけは……どうか守ってやってください」
「それは、戦いが終わってから考えましょう」
ミレーヌは工房の方に向き直った。
「今は、迫り来る敵を迎え撃つ準備です。カイルさん、あなたの工房が製作した防御装置の最終調整をお願いします」
「はい!」
その日の夕方、偽の情報が侯爵派に渡された。カイルは指定された連絡方法を使い、密かに情報を流した。それと同時に、ミレーヌは生き残った「蔓」ネットワークの構成員に緊急連絡を送った。
『全ての連絡は一時凍結。新たな連絡方法は、三日後に伝える。それまで、静かに潜むこと』
夜、領主館の作戦会議で、新たな防衛計画が練られた。
「武装集団は、明後日の夜明けに到達すると予想されます」
ガルムが報告する。
「数は六十から七十。うち、魔術師は十名程度。装備はまちまちだが、私兵としては訓練されているようです」
「こちらの防衛力は?」
「護衛隊三十名。魔導農園の防御装置二十基。それに、志願した領民百名ですが……訓練は不十分です」
ゴドウィンが補足する。
「魔導農園の防御システムは、理論上は領地全体を守れます。しかし、初の実戦使用です。予期せぬ問題が起こる可能性があります」
「一つ、提案があります」
カイルが申し出る。
「私の工房で、緊急開発していた新型の防御装置があります。『魔力吸収網』と呼んでいるものです。敵の魔術を吸収し、農園のエネルギーに変換する装置です。まだ実験段階ですが……」
「使えるか?」
「……五分の確率で成功します。失敗すれば、装置が爆発する危険があります」
ミレーヌは考え込んだ。危険な賭けだ。しかし、数的劣勢を補うには、新たな武器が必要かもしれない。
「設置しましょう。ただし、主要防御ラインからは離れた場所に。万一の爆発でも、被害を最小限に抑えるために」
その夜、ミレーヌは一人、領主館の屋上に立った。眼下には、魔導農園の優しい光が広がっている。明日、この光を守る戦いが始まる。
「お嬢様」
背後からエイランの声がした。
「お休みにならないと、明日に響きますよ」
「エイラン……人が人を裏切る時、本当の心はどこにあるのでしょう?」
老婆はしばらく考えてから答えた。
「裏切りにも、いろいろあります。悪意からの裏切り、恐怖からの裏切り、愛からの裏切り……カイル様は、最後の部類でしょう。でもね、お嬢様」
エイランはミレーヌの肩に手を置いた。
「本当の強さとは、裏切られた後も、人を信じ続けることだと思います。難しいことですけどね」
「ええ、とても難しい……」
「でも、お嬢様ならできます。だって、お嬢様はこれまで、たくさんの信頼を集めてこられましたから」
ミレーヌは深く息を吸った。夜風に、土と草の香りが混じっている。この匂いを、絶対に失いたくない。
「戦います、エイラン。この土地を、ここに住む人々を守るために」
「はい、お嬢様。私たちも、お嬢様をお守りします」
次の日の朝、領地は静かな決意に包まれていた。それぞれが与えられた役割を黙々と果たし、迫り来る戦いに備える。
カイルはリナと最後の別れを交わしていた。
「もし私が戻らなかったら……ミレーヌ様を信じなさい。彼女がお前を守ってくれる」
「父さん、必ず戻ってきてください。二人で、また工房を続けましょう」
ゴドウィンは魔導農園の制御室で、最後の調整を行っていた。
「生命の炉よ、今度は私たちを守ってください。この土地に生きるすべての命のために……」
ガルムは護衛隊を前に、激励の言葉を述べていた。
「私たちは、単なる傭兵ではない。この土地を守る者だ。家族を守るために、戦おう」
夕暮れ時、西の地平線に塵が上がり始めた。敵の到着は、予想より早かった。
ミレーヌは領主館のバルコニーに立ち、遠くに接近する敵の集団を見つめた。
「ついに来たわね……」
彼女の手には、特別な杖が握られていた。それは魔導農園の制御装置の一部であり、「媒介者」としての彼女の力を増幅するものだ。
「さあ、始めましょう。私たちの土地を守る戦いを」
遠雷のような轟音が、夕焼け空に響き渡った。戦いの火蓋が切って落とされた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「蔓」ネットワークは大きな傷を負い、オルターナ領もいよいよ後戻りできない段階に入りました。
善意だけでは守れない。けれど、疑いだけでも何も残らない。
その狭間で選択を重ねていくのが、今回のテーマでした。
次回からはいよいよ本格的な衝突に入ります。
ただし、年末年始は更新が少し不安定になるかもしれません。
無理のないペースで続けていきますので、気長に待ってもらえると助かります。
感想やブックマーク、本当に励みになります。
ここまで読んでくれた方、ありがとうございます。
次の話も、どうぞよろしくお願いします。




