第58話『中立地帯での邂逅』
物語は、静かな緊張をはらんだ中立地帯へと舞台を移します。
剣も軍勢もない場所で交わされるのは、言葉と覚悟。
満月の夜、運命を左右する邂逅が始まります。
満月の夜が訪れた。
オルターナ領から銀鈴亭までは、通常なら二日がかりの道のりだが、ミレーヌ一行は細心の注意を払い、三日かけて移動した。それぞれ別のルートを取り、異なる時間に目的地に到着するよう計画されていた。
ミレーヌ自身は、質素な商人の妻を装い、エイランを従者として連れての旅だった。二人は荷馬車に乗り、布や香辛料を積んでいるふりをした。しかし荷物の底には、特別な護身用具と、魔導農園のサンプルが隠されていた。
銀鈴亭のある谷間の集落は、国境の緩衝地帯らしい雰囲気を醸し出していた。建物は様々な建築様式が混在し、通行人の服装も多様で、言葉も数カ国語が入り混じっていた。ここでは、誰が何者であるかを深く追求しない不文律があるようだ。
「ここが『銀鈴亭』でございます、お客様」
エイランが指さす先には、想像以上に大きく、しかしどこか朽ちた印象の三階建ての旅籠が立っていた。名前の由来となったであろう銀の鈴が軒下にいくつも下がっていたが、錆びて色あせている。
宿の中は、外見よりもずっとしっかりした造りだった。分厚い石壁、高い天井、そして所々に施された魔導灯の名残りと思われる装飾が、かつての繁栄を物語っている。
「一泊いたします。二階の部屋を」
ミレーヌは主人と思われる大柄な男に声をかけた。男は五十代半ば、片目の上に傷痕があり、無愛想ながらも商売人としての礼儀はわきまえている様子だった。
「二階の一番奥が空いておる。静かでよいだろう」
その言葉に、ミレーヌは微かにうなずいた。これはイザベラが手配した部屋に違いない。
部屋は質素だが清潔で、窓からは宿の裏手の森が見渡せた。ミレーヌはすぐに部屋の調査を始めた。壁に隠し扉はないか、床板は固定されているか、窓からの脱出は可能か──
「お嬢様、こちらに何か」
エイランがベッドの下から小さな紙片を見つけた。そこには、繊細な筆跡で『真夜中。青き仮面』とだけ書かれていた。
満月の光が窓から差し込む頃、ミレーヌはエイランを部屋に残し、一人で廊下へと出た。護衛たちはすでに宿内の各所に配置されており、万が一の際には合図を送る手筈になっている。
二階の一番奥の部屋の前で、ミレーヌは一呼吸置いてから、静かにノックした。
「……お入りください」
中から聞こえた声は、確かにイザベラ・レインフォードのものだったが、どこか震えが混じっている。
部屋の中は、ミレーヌの部屋よりも少し広く、中央に小さなテーブルと二脚の椅子が置かれていた。窓際に立つ人物は、青い仮面で顔を覆い、深いブルーのマントをまとっていた。しかしその金髪と、優雅な立ち姿から、間違いなくイザベラだとわかった。
「イザベラ様」
「オルターナ様……お会いできて、本当に嬉しいです」
イザベラは仮面を外した。その顔は、王都の夜会で見た時よりもやつれており、目の下にはクマができていた。しかし、その瞳には確かな意志の光が宿っていた。
「お時間をいただき、ありがとうございます」ミレーヌは礼を述べ、椅子に座った。「まず、お聞きします。なぜ、私に?」
イザベラも向かい側に座り、真剣な表情で語り始めた。
「私がギデオン・ダンロップと婚約させられたのは、一年半前のことです。当初は、単なる政略結婚の一つだと思っていました。しかし……彼との時間を重ねるごとに、彼の本性が見え始めたのです」
彼女の手がわずかに震える。
「彼は、弱者への慈悲というものを持ち合わせていません。使用人が小さな失敗をしただけで、容赦なく追放します。動物を残酷に扱うことも厭いません。そして何より……彼は『完全な支配』を求めています。婚約者である私に対しても、友人の選択から服装、読む本に至るまで、すべてをコントロールしようとするのです」
ミレーヌは静かに聞き続けた。
「最初は従っていました。家のため、父のためだと。しかし、ある時、彼の書斎で、一つの書類を目にしたのです」
イザベラはマントの内側から、羊皮紙の束を取り出した。
「これは、ギデオンが密かにやり取りしている手紙の写しです。彼は『瘴煙の呪い師団』の残党と連絡を取り合い、貴女の領地への侵攻を計画していました。それだけではありません……」
彼女は一枚の書類を差し出した。そこには、ダンロップ侯爵派が関与する、複数の不正取引が記されていた。王族への賄賂、関税の不正免除、競合する商人への嫌がらせ──
「これらは、ほんの一部です。彼は、私がこれらの書類に近づくことを警戒していないようです。『女に政治がわかるはずがない』と、内心で思っているのでしょう」
ミレーヌは書類を慎重に閲覧した。その内容は、ギデオンが単なる残忍な貴族ではなく、組織的な犯罪の首謀者であることを示していた。
「なぜ、私にこれらの情報を?」
イザベラは深く息を吸った。
「二つの理由があります。第一に、貴女が彼に真正面から立ち向かう、数少ない人物だからです。第二に……私自身が、この腐った婚約から逃れたいからです」
彼女の目に涙が浮かんだ。
「しかし、単に逃げ出すだけではダメなのです。レインフォード家は、ダンロップ家に多額の借金を抱えています。私が婚約を破棄すれば、父は破産し、家族は路頭に迷います。だから……ダンロップ侯爵派そのものを倒す必要があるのです」
ミレーヌはイザベラの手を握った。
「お気持ち、よくわかります。私も、父の無念を晴らすために戦っています」
「ありがとうございます」イザベラは涙をぬぐい、続けた。「そして、もう一つお伝えしなければならないことがあります。ギデオンは、貴女のことを『面白い実験対象』と見なしています。単に潰すのではなく、苦しめ、追い詰め、最後に全てを奪うことを楽しんでいるのです」
その言葉に、ミレーヌの背筋が寒くなった。
「実験対象……」
「ええ。彼はかつてこう言いました。『あの女は、虫ケラのように這い上がってきた。ならば、もう一度踏み潰す楽しみを味わうことができる』と」
イザベラの顔が青ざめる。
「そして……もしかすると、これは私の想像に過ぎないかもしれませんが、ギデオンは『賢者の塔』の関係者とも接触があるようです」
ミレーヌは息をのんだ。
「何ですって?」
「確証はありません。しかし、彼の書斎から、塔の紋章が刻まれた書類の切れ端を見つけたことがあります。それは、古代遺物に関するものでした」
ゴドウィンの警告が、ミレーヌの脳裏をよぎった。賢者の塔が動き出すかもしれない──
「その書類は?」
「持ち出せませんでした。あまりに警戒されているので」イザベラは悔しそうに唇を噛んだ。「しかし、塔の関係者が王都を訪れ、ダンロップ侯爵と密談を持ったという噂は、侍女たちの間でも囁かれています」
ミレーヌは考え込んだ。もし賢者の塔がダンロップ侯爵派と手を組んだら──古代遺物の知識を兵器として利用しようとする動きが再び活発化するかもしれない。
「イザベラ様、あなたの情報は非常に貴重です。しかし、これ以上危険を冒させるわけにはいきません。これからは、極力表立った行動を控えてください」
「では、どうすれば……」
「連絡役としてリディアさんを使い続けてください。そして、可能な限り安全な情報だけを伝えるように。あなたが捕まれば、すべてが水の泡です」
その時、部屋の外から微かな物音が聞こえた。二人は一瞬で息を殺す。
「……誰か来たわ」イザベラが囁く。
ミレーヌはすばやく立ち上がり、窓の外を覗いた。月明かりの中、宿の裏手の森に、数人の人影が動いているのが見える。
「護衛に確認を」
ミレーヌは懐から小さな鏡を取り出すと、窓の外に向けて月光を反射させた。これは、緊急事態の合図だった。
すぐに、森の中から鳥のさえずりが三度聞こえた。『安全』の合図だ。護衛たちが人影を確認したが、敵ではないという意味だった。
「どうやら、宿の主人が用心棒を配置しているようです」ミレーヌは安堵の息をついた。「イザベラ様、今夜はこれで。これ以上の長時間の密会は危険です」
「おっしゃる通りです」イザベラは仮面をつけ直した。「最後に一つ……ギデオンは近いうちに、大規模な行動に出る可能性が高いです。何か大きな計画を進めているようなのです。ご注意ください」
「ありがとうございます。あなたも、どうかお気をつけて」
二人は短く手を握り合い、別れた。
ミレーヌが部屋に戻ると、エイランが心配そうに待っていた。
「無事でいらっしゃいましたか、お嬢様?」
「ええ。そして、非常に重要な情報を得ました」
ミレーヌはすぐに、入手した書類の写しを隠し場所にしまい、今夜の会談の内容を記憶に刻み込んだ。
翌朝、ミレーヌ一行は他の客たちに混じって静かに宿を発った。銀鈴亭を後にする馬車の中で、彼女は窓の外の景色を見つめながら考えた。
イザベラ・レインフォードは本物の味方だ。彼女の恐怖と決意は偽りようがなかった。
しかし、その情報は恐ろしいものばかりだった。ギデオンが賢者の塔と接触している可能性、そして近いうちの大規模な行動──
「ゴドウィンに報告しなければ……」
だがそれ以上に、ミレーヌはある確信を得ていた。敵は一枚岩ではない。ダンロップ侯爵派の内部にも、犠牲者がいる。そして、その犠牲者たちが団結すれば、強大な権力にも立ち向かえる。
馬車が国境を越え、オルターナ領に近づくにつれ、ミレーヌの決意は固まっていった。
次の戦いの準備を急がなければ。イザベラが命がけで伝えてくれた警告を、無駄にしてはならない。
月は既に沈みかけていたが、東の空には、新しい一日の始まりを告げる薄明かりが広がり始めていた。
今回は大きな衝突はありませんが、
これからの流れを大きく変える情報と決意が語られる回でした。
敵は外だけではなく、内側にもいる。
そして、味方もまた思わぬ場所に存在する――
そのことが、少しずつ輪郭を持ちはじめています。
次回から、物語はさらに動いていきます。
続きをお楽しみに。




