第57話『密使 - 婚約者からの手紙』
お待たせしました。
少し間は空きましたが、物語はまたここから動き出します。
孤立を経験したオルターナ領は、失うことで終わらず、
新しい繋がりを選び取る道へと踏み出しました。
第56話では、一本に頼らないための“蔓”が張られ始めます。
静かだけれど、確かな変化の回です。
魔導農園の基礎実験が第二段階に進み、「地下の葡萄の蔓」の最初の枝が伸び始めてから約一ヶ月が経過した頃だった。
オルターナ領は、静かながらも確かな変化を遂げつつあった。カイルたちの工房からは昼夜を問わず微かな魔力の気配が漂い、新たに到着した鉱山技術者たちは領地の北西の丘陵地帯で鉱脈調査を開始していた。かつては死の匂いがした土地に、今では多様な「生」の気配が満ち始めている。
そんなある夕方、領主館の玄関をノックする音がした。エイランが扉を開けると、そこには一人の女性が立っていた。
彼女は三十代前半ほど、質素ながらも上質な灰色の旅行服を身にまとい、髪は実用的に後ろで結われていた。顔は整っているが、どこか疲れた印象があり、目元には細かい皺が刻まれている。最も特徴的だったのはその手──指先にはインクの跡が残り、人差し指には長年筆を持ったことでできたと思われる小さなペンだこがあった。
「失礼いたします。私は、リディアと申します」
その声は低く、しかし明瞭だった。彼女は懐から封筒を取り出すと、エイランに差し出した。
「レインフォード伯爵家令嬢、イザベラ・レインフォード様より、オルターナ伯爵家当主ミレーヌ・オルターナ様への書状を預かってまいりました」
エイランの背筋が凍った。彼女は咄嗟に周囲を見回したが、幸い他の者には気づかれていないようだった。
「……どうぞ、中へ」
書斎に通されたリディアは、ミレーヌの前に恭しく頭を下げた。ガルムとゴドウィンもすぐに呼び寄せられ、扉はしっかりと閉められた。
「イザベラ様からの伝言も合わせてお伝えいたします」リディアは封もされていない封筒を机の上に置きながら言った。「『この手紙は、第三者の目に触れぬよう、直接お渡しするように』とのお言葉でした」
ミレーヌは封筒を開け、中から取り出した羊皮紙を広げた。筆跡は優雅で女性らしいが、ところどころに力の込もった跡があり、書いている者の緊張が伝わってくる。
『オルターナ様
突然の手紙を差し上げる失礼をお許しください。
先日の仮面舞踏会にて、貴女と短いながらも意味深い対話を交わしました。その際の貴女の言葉──「オルターナ家の者は、一度倒れても必ず立ち上がる」というお言葉が、私の胸に深く刻まれております。
私は今、牢獄の中にいるような気分で日々を過ごしております。それは金の檻であり、絹の縄ですが、その息苦しさは変わりません。ギデオン・ダンロップという男は、貴女がご存知の通り、外面は優雅で知性的ですが、その内面には恐ろしいまでの冷たさと支配欲が潜んでおります。
レインフォード家は、表向きは侯爵派の有力な一員ですが、実態はダンロップ家の経済的搾取に苦しんでおります。父は、侯爵家の膨大な負債の保証人にさせられ、私の婚約はその「担保」の一つに過ぎません。
しかし私は、単なる被害者として泣き寝入りするつもりはありません。貴女が王都でなさろうとしたこと──真実を暴き、不正と戦うその姿勢に、一筋の光を見出しました。
私は情報を持っております。ダンロップ侯爵派が、王国内外で行っている不正な取引、隠された資産、そしてギデオンが関与したその他の事件について。
もし貴女が、これらの情報を「証拠」として活用する意思がおありなら、直接お会いして話したいと存じます。
場所は、国境に近い中立地帯にある「銀鈴亭」という旅籠。一週間後の満月の夜、私は仮面を着けて待っております。
この手紙の使者リディアは、私の乳姉妹であり、唯一絶対の信頼を置ける人物です。何かございましたら、彼女を通じてお伝えください。
どうか、ご返事を。
イザベラ・レインフォード』
ミレーヌは手紙を読み終えると、ゆっくりと机の上に置いた。書斎内は重い沈黙に包まれた。
「これは明らかに罠です」ガルムが最初に口を開いた。「ギデオンの婚約者が、自ら敵に転じるなど、ありえません。貴方を誘き出し、捕えるための策略です」
ゴドウィンが慎重に言葉を選ぶ。
「確かにその可能性は否定できません。しかし……イザベラ・レインフォードという女性について、私も若干の知識がございます。レインフォード家は確かに侯爵派ですが、ここ十年で急速に没落しております。彼女の言う『経済的搾取』は、十分にありえる話でございます」
ミレーヌはリディアを見つめた。
「あなたは、イザベラ様の乳姉妹なのですね。なぜ、こんな危険な役目を?」
リディアの表情がわずかに緩んだ。
「私は、イザベラ様が五歳の時からお傍にお仕えしてまいりました。彼女が笑う時、泣く時、怒る時──すべてを見てきました。今回の婚約は、彼女の意思ではなく、家族を守るための犠牲です。しかし最近、彼女の目に、諦めではなく『戦う意思』が灯っているのを感じます」
彼女は一歩前に出て、熱を込めて言った。
「オルターナ様。イザベラ様は偽りを申しておられません。彼女はこの数ヶ月、密かにダンロップ家に関する記録を集め、書き写してきました。夜中にこっそり書斎に忍び込み、帳簿を調べることもありました。もしこれがギデオン様の罠だとしたら、そこまでする必要はありません」
ミリーヌは考え込んだ。リディアの言葉には真実味があった。しかし、それでも危険は変わらない。
「『銀鈴亭』はどのような場所ですか?」
ゴドウィンが答えた。
「国境から東に半日ほどの場所にある、小さな宿場町の旅籠でございます。周辺は数カ国の緩衝地帯であり、どの国の法律も完全には及ばない、いわば無法地帯です。密貿易や、表立って会えない者同士の会合に使われることが多いと聞いております」
「つまり、そこで何か起こっても、誰にも責任が問えない場所……」
「その通りでございます」
ミレーヌは再び手紙を見つめ、イザベラの筆跡をじっと観察した。優雅さの中にある力強さ、そしてところどころに現れる筆圧の乱れ──それは、偽装できない内面の緊張を示していた。
「会いに行きます」
「ミレーヌ様!」ガルムが声を荒げた。
「ただし、万全の準備をして」ミレーヌは彼を鎮めるように手を上げた。「リディアさん、イザベラ様にはこうお伝えください。『一週間後の満月の夜、銀鈴亭に伺います。ただし、私は一人では参りません。また、何かあれば即座に撤退することをご了承ください』と」
リディアは深く頭を下げた。
「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」
彼女が去った後、書斎では作戦会議が始まった。
「まず、銀鈴亭とその周辺の詳細な調査が必要です」ゴドウィンが提案する。「幸い、『蔓』のネットワークを通じて、その地域の情報を得られる可能性があります」
「ガルム、護衛の選抜をお願いします。目立たず、かつ戦闘能力の高い者を五名ほど。全員に変装をさせ、別々のタイミングで現地に向かわせます」
「了解しました。しかしミレーヌ様、あなたご自身の護衛は?」
「私は、生物学の知識を活かした『護身術』を用意します」ミレーヌの目が鋭く光った。「辺境で見つけた、いくつかの有用な植物を活用しましょう」
その夜、ミレーヌは工房にこもり、特別な準備を始めた。彼女が作るのは三種類の「護身ツール」だった。
第一は「幻覚胞子の粉」。特定のキノコから抽出した胞子を粉末にし、空中に散布すると、吸入した者に一時的な幻覚を引き起こす。
第二は「麻痺性の塗料」。ある種類の蔓草の樹液を基にしたもので、肌に触れると瞬時に痺れを生じさせ、動きを鈍らせる。
第三は、最も危険だが、最後の手段としての「警報用の種」。地面に撒くと、わずか十分で急成長し、鋭いトゲと強い臭気を放つ蔓植物になる。これを使えば、追跡者を足止めできる。
「これだけでは、武装した兵士に対しては不十分ですが……」ミレーヌは完成した小瓶を並べながら呟いた。「少なくとも、逃げるための時間は稼げるでしょう」
一方、ゴドウィンは「蔓」のネットワークを動員していた。自由都市ラーベルの商人を通じて、銀鈴亭の主人に接触を試み、その背景を探った。また、鉱山技術者たちの旧知を通じ、その地域を縄張りとする小さな盗賊団の情報まで入手した。
「銀鈴亭の主人は、元々は密貿易で財を成した男です」三日後、ゴドウィンが報告した。「金さえ払えば、どんな客も受け入れ、どんな秘密も守ることで評判です。しかし、裏切りを働いた者は、例外なく消えているとも……。両刃の剣でございます」
ミレーヌはうなずき、地図を広げた。銀鈴亭は谷あいの集落にあり、三方を森に囲まれ、一方のみが街道に面している。
「逃走ルートは複数必要です。森の中に道を作ることはできませんが……動物の通り道を利用することは可能かもしれません」
彼女は、かつて生物学の授業で学んだ知識を思い出した。シカやイノシシなどの動物が通る「けもの道」は、人間も通れることが多い。しかも、地元の者しか知らない。
「現地の猟師と接触する必要がありますね」
準備は着々と進んだ。ガルムは選び抜いた五人の護衛に、それぞれ別の役割を与えた。二人は旅商人として宿に泊まり込み、一人は吟遊詩人を装い、残る二人は樵として森を調査する。
満月の夜の三日前、リディアから二通目の手紙が届いた。今回は、より具体的な内容だった。
『オルターナ様
ご返事ありがとうございます。ご同意いただけたこと、心より感謝申し上げます。
念のため、私の「誠意」の証として、一つの情報をお伝えいたします。
ギデオンは、貴女が銀鈴亭に来ることを予測し、おそらく何らかの手を打っているでしょう。しかし、彼の監視網の弱点があります。彼は「女性同士の密会」を軽視する傾向があり、特に「婚約者である私が敵に内通する」などという可能性を、頭では理解できても、心から信じていない節があります。
また、銀鈴亭の主人は、実は私の遠縁にあたります。母方の従兄弟で、幼少期には面識もありました。彼には別途、私から連絡を取っております。
満月の夜、私は青い仮面を着け、二階の一番奥の部屋でお待ちしております。
どうか、ご無事で。
イザベラ』
ミレーヌはこの手紙をゴドウィンとガルムに見せた。
「これは……本当に内通者の手紙です」ゴドウィンが驚きを隠せない。「ギデオンの性格分析まで含まれています。もしこれが罠なら、ここまで詳細な偽装は必要ありません」
ガルムも不本意ながらうなずいた。
「確かに……しかし、油断は禁物です。仮にイザベラ様が本心だとしても、ギデオンが別ルートで動いている可能性はあります」
「ええ、わかっています」ミレーヌは手紙をしっかりと握りしめた。「だからこそ、私たちも万全を期します」
満月の夜が迫る中、オルターナ領では静かな緊張が高まっていった。この会談が成功すれば、ダンロップ侯爵派の内部から重要な情報を得られる。失敗すれば、ミレーヌは捕らえられ、領地は壊滅的な打撃を受ける。
出発前夜、ミレーヌは一人、書斎の窓辺に立っていた。外では、魔導農園の実験区画が微かに光り、生命の鼓動のようなものを放っていた。
「父様……もう一つの真実に、近づこうとしています」
彼女は胸のペンダントに触れた。
「イザベラ・レインフォードが本当の味方なら……もし彼女が、私と同じように、腐った運命に抗いたいと思っているなら……」
月が雲の間から顔を出し、領地全体を青白く照らした。
明日、銀鈴亭で、歴史が動くかもしれない。
再開後、最初の更新になります。読んでくれてありがとうございます。
今回は戦いよりも、「どう生き残るか」「どう繋がるか」に焦点を当てました。
小さな技術や知恵が集まって、大きな流れになる――
その第一歩が、ここです。
ここから先、オルターナ領は少しずつ広がっていきます。
次の“蔓”がどこへ伸びるのか、続きをお楽しみに。




