第48話『侯爵の罠 - 社交界デビューの誘い』
水面下で続いてきた調査が新たな局面へと移る──そんな転換点の回です。
静かに、しかし確実に包囲網を狭めてくる侯爵家。招待状という名の罠。そして、ミレーヌ自身が踏み出す“社交界”という新たな戦場。華やかさの裏側に潜む冷たい駆け引きをお楽しみください。
水面下で続いてきた調査が新たな局面へと移る──そんな転換点の回です。
静かに、しかし確実に包囲網を狭めてくる侯爵家。招待状という名の罠。そして、ミレーヌ自身が踏み出す“社交界”という新たな戦場。華やかさの裏側に潜む冷たい駆け引きをお楽しみください。商会情報部と反侯爵派による調査が密かに進行してから一週間が経過した。ミレーヌは宿の一室で、セリーヌから届けられた最新の報告書に目を通していた。魔薬師のアトリエに対する「薬草取引作戦」は順調に進んでいたが、決定的な証拠となる調合記録はいまだ掴めていない。もどかしいほどの慎重な進行に、じれったさを感じながらも──
「ミレーヌ様、届いております」
エイランの声で我に返る。老婆が差し出したのは、分厚い羊皮紙でできた封筒だった。蝋で封じられた紋章は、葡萄の蔓と翡翠をあしらった商会のものではなく、威風堂々と翼を広げた鷲──ダンロップ侯爵家の紋章である。
ミレーヌの手が一瞬止まった。心臓が高鳴る。来たのだ。予期していたとはいえ、実際に手にするとその重みが全身に伝わる。
「エイラン、ガルムを呼んでください。そして、ルフィンにも連絡を」
すぐに二人が駆けつけた。ミレーヌは無言で封筒をテーブルの上に置く。ガルムはそれを一瞥し、低く唸った。
「ついに動いたか……」
ルフィンは慎重に封筒を開け、中から取り出された豪華な招待状を読み上げる。
『このたび、ダンロップ侯爵家にて夜会を催す運びと相成りました。
つきましては、オルターナ伯爵家当主 ミレーヌ・オルターナ様をご招待申し上げます。
ご多忙中恐縮ではございますが、ご来臨賜りますよう謹んでお願い申し上げます。』
日付は三日後。場所は侯爵家の本邸である。
「罠だ」ガルムが即座に言い切る。「こんなものに足を運ぶ必要はない。ここで断れ」
「ですが……」ルフィンが難しい顔で首を振る。「これを無断欠席すれば、『辺境の田舎者は礼儀知らず』『侯爵家の好意を無碍にする傲慢な領主』というレッテルを貼られ、王都の社交界から完全に締め出されてしまいます。商会としても、表立っては侯爵家の正式な招待を無視する領主との取引を続けることは難しくなるでしょう」
「つまり、出席すれば命の危険があり、欠席すれば社会的な死を意味する」ミレーヌは静かにまとめた。
「その通りです」ルフィンの表情が苦渋に歪む。「侯爵派の常套手段です。表面上は完璧に礼儀を守り、相手に選択肢を与えるように見せかけて、実際にはどちらを選んでも破滅するように仕向ける」
室内に重い沈黙が流れる。窓の外からは、王都の喧騒が遠く聞こえてくるだけだ。
「……むしろ、これは好機です」
ミレーヌの声は低く、しかし確信に満ちていた。二人が彼女を見つめる。
「ギデオン・ダンロップに直接会える。これ以上ない機会です」
「お嬢様!」ガルムが声を荒げる。「それはあまりに無謀です! あの男は、貴方の父を殺した可能性が極めて高い。そんな危険人物の屋敷に、自ら足を運べと?」
「だからこそです、ガルム」ミレーヌの目には、冷たい炎のような意志が宿っている。「私は父の仇を直接この目で確かめたい。彼がどのような人物で、どのように振る舞い、何を語るのか。証拠書類の向こう側にいる生きた敵を知ることは、これからの戦いにおいて不可欠です」
彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。眼下に広がる王都の街並みは、華やかでありながらも冷酷なまでに冷ややかに見えた。
「そして、もう一つの理由がございます。侯爵派の屋敷の中をこの目で見られることです。警備の配置、使用人の数、客人たちの様子……すべてが貴重な情報となります」
「しかし、ミレーヌ様」ルフィンが心配そうに言う。「万一のことを考えなければなりません。侯爵邸内で『事故』が仕組まれている可能性は十分にあります」
「それは承知しています。だからこそ、万全の準備をして臨みます」
ミレーヌは振り返り、二人をしっかりと見据えた。
「ガルム、貴方には護衛として同行していただきます。ただし、武器は所持できないでしょうから、徒手空拳でも戦えるよう、準備をお願いします」
「了解した。この身をもってしても、お嬢様を守り通す」
「ルフィン、商会を通じて、夜会に出席する他の客人たち、特に反侯爵派や中立派の貴族方の情報を集めてください。誰が味方になり得るのか、見極める材料が必要です」
「任せてください。セリーヌさんと連携して、可能な限りの情報を揃えます」
「そして……」ミレーヌは少し間を置き、自身の服装を見つめた。「私は、オルターナ家の当主として恥ずかしくない振る舞いをしなければなりません。エイラン、持参した中で最も状態の良い服の手入れをお願いします。私は、辺境の貧しい領主ではなく、オルターナ家の正当な後継者であることを、彼らに思い知らせます」
「はい、お嬢様。このエイランが、渾身の想いを込めてお仕えいたします」
その後の三日間、準備は慌ただしく進んだ。ルフィンとセリーヌは、夜会の客人リストとそれぞれの政治的立ち位置を詳細に記した書類をミレーヌに提供した。ガルムは護衛技術の確認と、小型の隠し武器の研究に没頭した。エイランはミレーヌの礼装に魂を込めてアイロンをかけ、ほつれひとつない状態に仕上げた。
そして運命の夜会当日。ミレーヌは深緑のドレスに身を包み、オルターナ家の家宝である小さな翡翠のペンダントを胸に飾った。鏡に映る自分は、かつての生物教師とも、辺境で土にまみれる領主とも違う、どこか誇り高き貴族の娘に見えた。
「行って参ります、エイラン」
「どうか、ご無事で」
馬車は侯爵家の本邸へと向かう。街灯の光が窓から流れ込み、ミレーヌの顔を明滅させる。彼女の手には、小さな布の小袋が握りしめられていた。中身は、領地から持ち込んだ特別なキノコの乾燥粉末だ。直接的な武器にはならないが、いざという時のための“牽制”として。
やがて馬車は減速し、鉄柵に囲まれた広大な屋敷の門前に到着した。門の両側には侯爵家の私兵が直立し、鋭い目つきで客人たちを監視している。
「オルターナ伯爵家当主、ミレーヌ・オルターナ様、ご到着!」
従者の声が響く。ミレーヌは深く息を吸い、背筋をピンと伸ばした。
さあ、虎の穴へ──。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
ついにミレーヌが王都社交界の檻──じゃなかった、舞台に足を踏み入れることになりました。華やかな夜会と、見えない毒の気配……次回は緊張感強めになりそうです。
いよいよ敵の本拠地に潜る流れなので、書いていても毎回ドキドキします。
引き続き、気軽に読みに来てもらえたら嬉しいです。それではまた次で!




