第46話『翡翠の葡萄商会 - 表の顔と裏の顔』
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王都アヴァロンでの初仕事となる、翡翠の葡萄商会との契約調印式。本話では、表と裏、二つの顔を持つ巨大商会との出会いが描かれます。ミレーヌの戦いは、いよいよ情報と権力が交差する深い領域へ──どうぞ本編をお楽しみください。
王都アヴァロンの朝は、辺境とは違った冷たさで訪れた。石造りの建物が夜の冷気を蓄え、それが朝靄の中にゆっくりと解け出していく。ミレーヌは宿の自室の窓辺に立ち、今日行われる契約調印式に向けて、わずかな緊張を噛みしめていた。身に着けるのは、オルターナ家のものであったかすかに香る、褪せた深緑の礼装。領地で最も状態の良いものを丁寧に手入れしてきたものだ。
「これで、よろしいでしょうか、お嬢様」
従者として同行している領民の老婆、エイランが細かい皺の刻まれた手で、ミレーヌのドレスのほころびていないか最終確認をする。
「ええ、ありがとう、エイラン。領地の皆の思いを込めて臨むわ」
ミレーヌは静かにそう答える。この衣服は単なる布切れではない。オルターナ家の過去と未来を背負う鎧のようなものだ。
ルフィンが迎えに来た馬車は、前日街中で見かけた魔導車ではなく、ごく普通の馬が引くものだった。これは、派手さを避け、注目を集めないための配慮だろう。
「商会本部は旧市街にあります。表向きは伝統を重んじる格式ある商会ですから」
馬車の中、ルフィンが小声で説明する。
「しかし、その実態は、情報網と物流網を王国中に張り巡らせた巨大な組織です。今日お会いするヴァン商会長は…かなりのやり手です。どうか、気を抜かれませんように」
翡翠の葡萄商会本部は、確かに重厚な歴史を感じさせる石造りの建物だった。磨き込まれた黒檀の重厚な扉、高い天井から吊るされたシャンデリアは魔導灯ではなく無数の蝋燭が灯され、壁には王国の歴史と商会の歩みを描いたタペストリーがかけられている。辺境の領主としてではなく、オルターナ家の当主として認められる場。ミレーヌは背筋をさらに伸ばした。
応接室は広く、分厚い絨毯が足音を吸い込む。そこには、ルフィンの上司である地区責任者たちと、玉座のような肘掛け椅子に座る一人の男が待っていた。
ヴァン・エメラルド商会長。その名の通り、深緑の鋭い瞳を持つ、年の頃は五十代半ばほどの男だ。豊かな白髪混じりの髪はきちんと整えられ、無駄のない動作には、長年商売の第一線で鍛え上げられた威圧感があった。
「ようこそ、オルターナ伯爵令嬢。いや、失敬。現在は貴女が当主だ」
ヴァン商会長は立ち上がることなく、軽く手を掲げて挨拶する。その口元は笑っているが、目はミレーヌを細かく評価するように揺るがない。
「ルフィンからは、辺境の地で驚くべき努力をされていると聞いている。荒廃した土地で、独自の農法を確立し、ラントフ男爵の脅威すら退けたと。実に…興味深い」
「お褒めいただき光栄です、商会長閣下」
ミレーヌは優雅に一礼し、落ち着いた声で答える。王都の空気に圧倒されながらも、彼女の内側には、生物学教師として、そして数々の困難を乗り越えてきた領主としての冷静な観察眼が働いている。
「オルターナ領の産品が、翡翠の葡萄商会の認証を得られることは、領地再生の大きな一歩となります」
契約調印式は、厳粛かつ迅速に進められた。ヴァン商会長の質問は鋭く、領地の生産能力、物流の確保、品質の安定性について、核心を突くものばかりだった。しかし、ミレーヌは事前の準備と、領地の状況についての深い理解をもって、すべてに明確に答えた。彼女の応答には、辺境の領主によくある諦めや卑屈さは微塵もなく、むしろ確固たる自信と未来へのビジョンが感じられた。
地区責任者たちから、わずかに感心した声が漏れる。ヴァン商会長も、最初の評価するような視線から、少しだけ、認めるような色に変えていた。
「…よかろう」
最後の印章が押され、ヴァン商会長がゆっくりと口を開く。
「オルターナ領との正式な取引を認める。ただし、これは始まりに過ぎぬ。我が商会の信用を損なわぬよう、品質の維持に努めよ」
「重々承知しました」
表向きの儀式が終わり、地区責任者たちが退出していく。ミレーヌとルフィン、そしてガルムも退出しようとしたその時、ヴァン商会長が静かに言った。
「オルターナ当主。もう少し、時間をいただけないか? 個人的に…話がしたい」
ミレーヌはルフィンと一瞬視線を交わす。ルフィンはごくわずかにうなずく。これが本番だ。
商会長の導きで、彼らは応接室の裏にある、一見すると書庫のような小部屋に通された。しかし、商会長が壁面の本棚の特定の本を手前に引くと、本棚自体が音もなく横に滑り、暗い階段が現れた。
「どうぞ、こちらへ」
階段を下りた先には、商会の表の顔とはまったく異なる、機能性と機密性を徹底した空間が広がっていた。無機質な壁面には王国の詳細な地図がいくつも貼られ、所々にピンが刺さっている。机の上には最新の魔導通信機とも思しき装置が置かれ、数人の人物が黙々と書類の束や数字の刻まれた石板を処理している。ここが、翡翠の葡萄商会の「情報部」の拠点の一つなのだ。
「我が商会の『もう一つの顔』へようこそ」
ヴァン商会長の口調が、先ほどの形式的なものから、ぶっきらぼうだがどこか熱のこもったものに変わった。
「ここで働く者たちは、王国の動静を、時に王室や貴族厅よりも早く、詳細に把握している。それは、商売をする上で、『危険』を事前に察知するためだ」
そして商会長は、一人の女性を呼び寄せた。髪をきっちりと後ろで結び、実用的な革製の服を着た、目に鋭い知性を宿した女性だ。
「こちらはセリーヌ。情報部の実質的なまとめ役だ。セリーヌ、こちらがオルターナ当主だ」
「お初にお目にかかります」
セリーヌは無駄のない動作で一礼し、すぐに核心に入った。
「当主の王都到着以前から、我々はオルターナ領の動向、そしてダンロップ侯爵派との確執について調査を続けておりました」
ミレーヌは息をのんだ。商会の情報網は、彼女の想像以上に広範かつ深い。
「では、ご存知で?」
「ええ。侯爵派が、ラントフ男爵を通じて貴方の領地に圧力をかけ、さらには私兵を送り込もうとしていたこと。そして、十年前のオルターナ家の没落が、侯爵派による組織的なものであった可能性が極めて高いこと」
セリーヌは手にした書類の束を広げる。そこには、ミレーヌがバートラムから聞いた話と符合する、取引記録や、当時の関係者の動向が細かく記されていた。
「ヴァン商会長」ミレーヌは商会長を直視した。「なぜ、ここまでして…?」
「単純な話だ、オルターナ当主」
ヴァン商会長は、窓のない壁を見つめながら言う。
「ダンロップ侯爵の権勢は、もはや王国の均衡を崩しつつある。彼は商業ルートにまで介入し、我が商会の動きを制限しようとしている。これはもはや、単なる貴族同士の争いではない。王国の経済そのものを歪めようとする動きだ」
彼はゆっくりとミレーヌに向き直る。
「我々は、侯爵派の暴走を止める『楔』が必要なのだ。そして、貴女、ミレーヌ・オルターナは、彼らによって一度は葬られながら、這い上がってきた。彼らにとって最大の『厄介者』であり、我々にとっては最もふさわしい『同盟者』だ」
セリーヌが続ける。
「しかし、侯爵を倒すには、単なる噂話や状況証拠では不十分です。司法機関や王室を動かすには、決定的な『物的証拠』が必要です。特に、侯爵の息子、ギデオン・ダンロップが、貴方の父である前伯爵の死に直接関与した証拠が」
ミレーヌの胸臓が高鳴る。ついに、父の無念を晴らす具体的な道筋が見えてきた。
「我々商会情報部は、我々の持つネットワークを駆使して、その証拠探しを支援する」
ヴァン商会長が宣言する。
「見返りとして、貴女には『証拠』を公の場に引き出す役目を担ってもらう。もちろん、これは表向きには存在しない契約だ。危険を承知でなければ、この話はなかったことにする」
ミレーヌは迷わなかった。彼女が王都に来た目的は、まさにこれだ。
「お引き受けします」
彼女の声は静かだが、鋼の意志を込めていた。
「ただし、一つ条件がございます。私の領民、そして協力者を、可能な限り護ってくださること。この戦いの代償を、彼らだけに負わせることはできません」
ヴァン商会長は、初めて、わずかではあるが本物の笑みを浮かべた。
「よかろう。では、我々の『非公式な同盟』が、ここに成立だ」
表の顔は、辺境の小領主と巨大商会の正式な取引契約。
裏の顔は、強大な権力に立ち向かう者たちの、危険な情報同盟。
ミレーヌはこの二重の契約を胸に刻み、新たな戦いの舞台へと足を踏み入れたのだった。彼女の武器は、もはや鍬や魔導キノコだけではない。王都の暗部で交わされる、言葉と情報という、目に見えぬ刃となっていく。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました!
今回は王都での新しい出会いが続く回でしたが、ミレーヌたちの動きはまだ始まったばかりです。アヴァロンの裏側も、これから少しずつ見えてくると思います。
次回もゆっくり更新になるかもしれませんが、楽しみにしてもらえたら嬉しいです。
ではでは、また次のお話で!




