第3話: 『最初の接触 – 信用という名の畑』
初めまして。作者の星川蓮です。
この作品は「生物教師が異世界に転生し、没落令嬢として農業改革に挑む」物語です。
戦闘よりも農業・経営・領地運営がメインですが、ときどきバトルや政治劇も入ります。
難しいことは抜きに、知識と工夫で逆境を切り開く姿を楽しんでいただければ嬉しいです。
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【書斎での準備】
オルターナ邸の書斎は、差し押さえを免れたわずかな蔵書が、かろうじてかつての知性の香りを留めていた。ミレーヌは広いデスクの上に、領内の詳細な地図と、分厚く埃をかぶった『辺境の植物と生態誌』という書物を広げていた。傍らには、視察で採取してきた魔性の土壌のサンプルと、あのキノコのスケッチが置かれている。
「……なるほど」
彼女は呟いた。細い指で地図上の一点をなぞる。
「ゴドウィン、この一帯の土壌の変色の程度は、この『古い井戸』を中心に同心円状に広がっているように見える。汚染の『中心点』はおそらくここか、その周边だ」
「お見事です、お嬢様」ゴドウィンは感心したように眉を上げた。「確かに、あの井戸は十数年前から水質が悪化し、使い物にならなくなりました。おそらく、何かが地中から……」
「……まずは置いておきましょう。今の私にそこを調査する力はない」
ミレーヌはきっぱりと言い、キノコのスケッチを指さした。
「今、目の前の希望は、これです。この『浄化茸』――仮称ですが」
彼女はゴドウィンを前に、熱心に説明し始めた。生物学の教師が、優秀な生徒に理論を解説するように。
「このキノコは、魔性の土壌中で特に旺盛に生育している。これは、他の植物にとっての『毒』を、彼らにとっての『栄養』に変換する能力を持っている可能性が極めて高い。つまり……生物浄化、バイオレメディエーションの担い手たり得る」
ゴドウィンは深く肯いた。「……魔術的な浄化とはまた異なる、自然の理による浄化……。興味深い。ですが、お嬢様。仮にこの理論が正しくとも、領民を説得するには……あまりに非現実的に聞こえるでしょう」
「だからこそ、です」
ミレーヌは顔を上げ、窓の外――集落の方を見つめた。
「理論や可能性を説いて回るつもりはありません。まずは、結果を見せなければ。ですが、そのための『実験場』と、ほんの少しの『協力』が必要です。……あの老婆の家は、かつて庭で野菜を育てていたはずです」
彼女の目は、観察者として、そして指導者としての冷静な輝きを帯びていた。杉本大輔の知識と、ミレーヌ・オルターナの立場が、ようやく一点に向かい始めた瞬間だった。
【集落への訪問 – 冷たい現実】
ゴドウィンに案内され、彼女は数軒だけ人が住むらしい家々が集まる区域へと向かった。道中、すれ違う領民(ほとんどが老人や傷ついた兵士)は、彼女を見るやいなや、うつむいたり、家の中に引き込んだりした。彼らから感じられるのは、遠巻きにする好奇の視線と、深い諦念、そして微かな敵意すらだった。
(……オルターナ家への怨みか? それとも、期待させてまた失望させることへの恐れか……)
目的の家の前に立つ。こぢんまりとした、しかしきちんと手入れされていたであろう小屋だった。今では柵は壊れ、庭は荒れ果てている。
ゴドウィンがドアをノックする。
「エイラン様。ミレーヌお嬢様がお見えです」
しばらく沈黙が続き、やがてドアがきしみながら少しだけ開いた。中から、皺の深い老婆の顔がのぞいた。その目は、疲れと猜疑心に満ちていた。
「……お嬢様。何のご用で?」
その声音はかすれ、かつ冷たかった。
ミレーヌは少し緊張を飲み込み、前に出た。
「あなたがエイランさんですね。私は……この領地を、もう一度甦らせたいと思っています」
老婆は微かに嘲笑った。
「……甦らせる?ふん。領主様も同じようなことをおっしゃっていた。だが、結果はこれだ。借金と荒れ地だけが残った」
老婆の視線は、ミレーヌの華やかなドレス(かつてのものではあるが)から、細く無力そうな手へと移り、さらに冷たくなる。
「お嬢様も、いずれこの地を見捨ててお逃げになる。なら、今更、私たちに希望など見せないでいただきたい。……これ以上、傷つくのはごめんだ」
その言葉は、ミレーヌの胸を鋭く刺した。同時に、断片的な記憶が再び疼いた。
――小さい頃、この老婆(かつてはもっと豊かだった)から焼きたてのパンをもらった記憶。
――「お嬢様、大きくおなりになって」という、温かい笑顔。
過去の温もりと現在の冷たさの対比が、彼女の目をうるませた。
「……逃げません」
ミレーヌは必死に震える声を抑えて言った。
「私は、この地に残ります。そして、父が果たせなかった約束を果たします。その第一歩として……あなたの庭を、少しだけ借りたい」
彼女はゴドウィンから預かった小さな布袋を取り出した。中には、彼女が培養に成功した浄化茸の菌糸が混ぜられた培養土が入っている。
「これは、土地を癒す力を持つ……かもしれない、特別な土です。まずはあなたの庭の一小部分で試させてください。何の実りもなければ、それまでです」
老婆エイランは、ミレーヌの真剣な眼差しと、その手にしたみすぼらしい袋を見比べ、深くため息をついた。
「……そんなもの、何の役にも立たん。時間の無駄だよ、お嬢様」
そう言うと、老婆はもうこれ以上話すつもりはないというように、ゆっくりとドアを閉じ始めた。
ミレーヌは思わず、ドアに手をかけた。
「お願いします!ただ……ほんの少しの場所と、チャンスを!」
しかし、ドアは冷たく閉ざされた。最後に見えた老婆の表情は、哀れみと諦念に満ちていた。
【絶望と、小さな兆し】
道端に立ち尽くすミレーヌ。背後でゴドウィンが静かに待つ。彼女の肩は落ち、最初の訪問がこの結果では、先が思いやられた。
(……そうか。これが現実か。知識や理論だけでは、人の心は動かない……)
その時、である。
「……ねえ、お姉さん」
かすかな、子どもらしい声がした。
振り向くと、隣家の物陰から、一人の少年がこっそりと顔を出しているのに気づいた。痩せこけ、服もボロボロだが、瞳だけは珍しそうにキラキラと輝いていた。テオという名の少年だ。
「さっきの話、聞いてたよ。その……変な土って、本当に土地を直すの?」
ミレーヌははっとした。彼女はしゃがみ込み、少年と目線を合わせた。
「……うん。そう信じてる。でも、試してみないとわからないんだ」
少年はきょとんとした顔をした。
「でも、エイランばあさん、断ったじゃん。どうするの?」
ミレーヌは少し考え、ふと微笑んだ。
「そうだね……じゃあ、君の家の庭で、試させてくれないか?とても小さい場所でいい。ダメなら、すぐに片付けるから」
テオの目がさらに輝いた。彼はこっそりと後ろを振り返り(どうやら親には内緒のようだ)、こっくりとうなずいた。
「うん!うちの裏庭なら、誰も見てないよ! パパもママも、もう何も育てようとしないから!」
【小さな実験の開始】
テオに導かれ、ミレーヌとゴドウィンは小屋の裏手の、さらに荒れ果てた小さな空き地へと向かう。少年はわくわくしながらも、どこか秘密の作戦をしているような顔をしている。
ミレーヌは慎重に場所を選び、スコップで小さな穴を掘る。ゴドウィンがそれを静かに見守る。そして、布袋から培養土を取り出し、丁寧に穴に埋め戻す。
「これで終わりです」ミレーヌは言った。
「あとは、この土が働いてくれるのを待つだけ。すぐには結果は出ないかもしれない。……君は、待っていられるか?」
テオは真剣な顔でうなずいた。
「うん!だって、もし本当だったら……すごいじゃん! 魔法みたいだよ!」
少年の純粋な言葉に、ミレーヌの胸が熱くなった。たとえたった一人でも、たとえ子どもでも、ほんの少しの好奇心と期待を寄せてくれる存在がいる――その事実が、エイラン老婆に拒絶された絶望を、ほんの少しだけ和らげてくれた。
【帰路 – 観察の終わり、戦いの始まり】
オルターナ邸へ帰る道すがら、ミレーヌは黙っていた。ゴドウィンも、わざとらしくない距離を保って歩く。
(信用は、言葉ではなく、実績でしか得られない)
(領民たちは、過去の失望と、現在の絶望に傷つき、怯えている)
(だが、ほんの小さな希望の種さえ示せれば……たとえ子どもでも、その可能性に気づく者はいる)
彼女は拳を握りしめた。細い指に、わずかながら力がこもる。
「ゴドウィン」
「何でしょう、お嬢様」
「あのキノコの培養を、もっと大規模に始めましょう。テオくんのところだけが、唯一の実験場では心もとない。邸の裏庭でも、いくつかの条件で試してみる必要がある」
「かしこまりました。……ですが、お嬢様。今日の結果は――」
「『失敗』ではありません」
ミレーヌはきっぱりと言い切った。
「あれは、貴重な『データ』です。領民の心の状態、彼らが何を思い、何を恐れているのか。それを知れたことは、大きな収穫でした」
彼女は振り返り、夕陽に赤く染まる荒廃した領地を見つめた。その瞳には、もはや絶望はなく、困難な研究テーマと向き合う研究者の冷静な決意が宿っていた。
「第一歩は踏み出した。たとえ小さく、不安定な一歩でも――次は、もう少し大きく、確かな歩みを進めよう。借金返済への道は、この土地を甦らせることからしか始まらないのだから」
更新は不定期になるかと思いますが、最後までしっかり描いていきたいと思っています。
気長にお付き合いいただけると嬉しいです!




