第1話:『目覚めと絶望の契約』
初めまして。作者の星川蓮です。
この作品は「生物教師が異世界に転生し、没落令嬢として農業改革に挑む」物語です。
戦闘よりも農業・経営・領地運営がメインですが、ときどきバトルや政治劇も入ります。
難しいことは抜きに、知識と工夫で逆境を切り開く姿を楽しんでいただければ嬉しいです。
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「……お目覚めでしょうか、ミレーヌお嬢様」
低く渋く、しかしながらくっきりと耳に届くその声は、まだぼんやりとした意識を現実へと強く引きずり戻した。
ゆっくりとまぶたを開ける。視界はかすんでいたが、やがてそれは古びた豪華さを残す天井の装飾へと焦点を結んだ。自分が横たわっているのは、分厚いマットレスと柔らかい羽毛布団に包まれた大きな寝台だ。空気中に、ほのかな古書と枯れた花、それにワックスの匂いが混ざり合っている。
(……誰だ? お嬢様?)
頭がガンガンと疼く。記憶がぐちゃぐちゃに混ざり合っている。自分は杉木大輔、高校の生物教師だった。過労で……倒れたはずだ。なのに、なぜここに?
もぞもぞと体を起こそうとする。その時、視界に入ってきた自分の手に、はっと息を呑んだ。細く、白く、弱々しい、しかし明らかに若い女性の手だ。長く艶やかなブロンドの髪が肩にかかる。
(これは……まさか……)
「お嬢様。ご無理をなさってはなりません」
声の主は、ゆっくりとベッドに近づいた。初老の男性だ。銀髪をきちんと後ろで束ね、皺の深い、しかし鋭い知性を宿した顔。その身にまとった執事服は、明らかに擦り切れていながらも、完璧に手入れされ、ピンと張りつめている。彼はゴドウィンと名乗った。オルターナ家に仕える執事であり、家庭教師であり、今ではただ一人の使用人であるという。
ゴドウィンの口から語られる現実は、地獄の絵図のようだった。
ここは、オルターナ辺境伯領。彼女はその一人娘、ミレーヌ・オルターナであること。
数ヶ月前に父である前領主が急死し、領地の運営が破綻していること。
莫大な借金が残され、領民の大半は逃げ出し、土地は謎の「魔性」に汚染されて不毛の地と化していること。
「借金の総額は……現在、金貨にして約五千枚と見積もられております」
ゴドウィンの声は淡々としていたが、その額の絶望的な大きさを物語っていた。
(五千……金貨? そんな……)
杉木の頭の中で、教師時代の給与と物価が無意識に計算され、一生かかっても返せないような金額にめまいを感じた。これはとても個人が背負う額ではない。
そして、まるでゴドウィンの説明を合図するように、邸宅の玄関ホールで乱暴な音と怒声が響き渡った。
「おい! オルターナの小娘! 返済の計画はできたのかっ!」
「さっさと出てこい!でなければ、今すぐにでもこの屋敷を差し押さえるぞ!」
借金取りたちだ。ラントフ男爵の手下であると名乗る男たちは、荒々しい態度でミレーヌ(杉木)の前に現れた。その目には、もはや憐れみなど微塵もなく、あるのは貪欲さと侮蔑だけだった。
「ふん、かつては威張っていたオルターナ家も、これまでのことだな」
「こんな荒れ果てた領地、売り払っても借金の足しにはならんわい」
ミレーヌ(杉木)は、恐怖で膝が震えるのを必死にこらえた。ゴドウィンは微かに彼女の前に立ち、わずかながらも盾となろうとしている。
(どうすれば……こんな状況で……)
彼の頭の中はパニックと、生物教師としての奇妙な冷静さが入り混じる。観察し、分析する――それが彼のさがだ。
(領地が汚染されている……魔性の土壌……?生物的になんらかの汚染なのか? もしそうなら、浄化の方法は……?)
そして、ふと、彼の胸中に、もう一つの感情がわき上がってきた。それは、この身体の元の主、ミレーヌ・オルターナの残した、断片的な記憶や無念の想いではないかと思われるものだ。領民の笑顔。父の温かい手。豊かに実る畑――そして、それら全てを失った絶望。
「……返済します」
口をついて出た言葉は、意外にもしっかりとした声だった。
借金取りも、背後にいるゴドウィンも、わずかに息を呑んだ。
「おいおい、小娘、そんな大それたことが言えるのか?」
「そうですよ、お嬢様、そんな……」
ミレーヌ(杉木)は震える拳をぎゅっと握りしめ、男たちをまっすぐ見据えた。
「半年後まで待ってください。その時までに、最初の返済を必ず行います」
男たちは哄笑した。
「半年?たった半年で何ができるというんだ? まあいい、面白い。お前のその意地、買ってやろう」
「だが、約束を破ったら……その時は、お前自身も含め、この領地の全てを搾り取るまでだ。覚悟しておけ」
そう言い残し、男たちは嘲るように去っていった。
重い沈黙が部屋を覆う。ゴドウィンが深くため息をついた。
「お嬢様……なぜ、そんな無謀な約束を……」
ミレーヌ(杉木)は、まだ震える自分の手を見つめた。細く、無力な少女の手。
しかし、その頭の中では、杉木大輔の知識が高速で回転し始めていた。
(魔性の土壌……汚染……キノコや微生物を使ったバイオレメディエーション……可能性は……ゼロではない……!)
彼は顔を上げ、ゴドウィンを見た。目には、絶望の底から這い上がらんとする、かすかな希望の灯がともっていた。
「ゴドウィン……領地のことを、すべて教えてください。まずは、現状を正確に知ることから始めましょう」
かつての生物教師は、没落令嬢の身体の中で、絶望を希望へと変える第一歩を踏み出したのだった。
更新は不定期になるかと思いますが、最後までしっかり描いていきたいと思っています。
気長にお付き合いいただけると嬉しいです!




