第18話: 『悪徳商人の罠 - 偽りの契約』
前回、ようやくルフィンとの希望ある取引が成立し、ミレーヌたちは一息ついた――
……はずでした。
しかし、商売の世界は甘くない。
今回は、そんな「現実の冷たさ」が突きつけられる回です。
オルターナ領に新たな影を落とす、“悪徳商人ヴァルゴ”の登場。
ミレーヌが学ぶのは、農学ではなく「契約と人の怖さ」――。
シーン18: 『悪徳商人の罠 - 偽りの契約』
ルフィンとの希望に満ちた取引から、ほっとしたのもつかの間、裏庭から聞こえた悲鳴は、新たな混乱の始まりを告げるものだった。ミレーヌとゴドウィン、ルフィンが駆けつけると、リナが青ざめた顔で一点を指さしている。野菜の山の隅が明らかに荒らされ、いくつかの高品質な野菜が盗まれていた。
“す、すみません……ほんの一瞬、目を離した隙に……”リナは泣きそうな声で言う。
“どうやら、小賢しい鼠が紛れ込んだようだな”ルフィンが顎に手をやり、苦い顔をする。“オルターナ領の野菜の評判は、思ったより早く広まっている。……悪い意味でな”
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、もう一人の訪問者が現れた。最初の商人とは雰囲気が全く異なる男だ。絹の服を着込み、小太りで、ずる賢そうな目をした男が、にたりと不気味な笑みを浮かべて近づいてくる。背後には、いかにもならず者風の護衛が二人ついている。
“ごきげんよう、オルターナお嬢様。私はヴァルゴと申します。とある……貿易商会の者でしてね”男はわざとらしくお辞儀をする。“ついさっき、こちらの素晴らしい野菜を少しばかり拝見いたしましてね……。これはぜひ、我が商会でまとめて買い取りたいと、そう思いましたのですよ”
ミレーヌは警戒した。ルフィンが警告した「鼠」は、彼のことなのか?
“……申し訳ありません。こちらの野菜は、すでにこちルのフィンさんと――”
“おやおや、それは残念!”ヴァルゴは大袈裟に嘆息する。“ですがね、お嬢様。あの行商人ごときが、この野菜の真の価値をご存知でしょうか? 彼の提示する金額など、雀の涙のようなものですよ!”
彼はルフィンが提示した金額の、さらにその三倍という法外な金額をさも当然のように口にした。
ミレーヌは息を呑んだ。その額は、借金返済のみならず、領地の運営資金さえも賄えるほどのものだ。ルフィンが眉をひそめる。
“ふん……随分と大口を叩くじゃないか。てめえの商会の名前は聞いたこともないが?”
“ふふふ……我が商会は、主に王都や外国との取引をしております故に、ご存知なくても無理はありません”ヴァルゴは涼しい顔で言い放つ。“さあ、お嬢様。どうです?この誠意あるお申し出をお断りになる理由はございますまい?”
ミレーヌは心が揺れた。ルフィンの提示した金額でも返済は可能だが、領地の発展のためにはより多くの資金が必要だ。ヴァルゴの提示する金額は、あまりに魅力的すぎた。
「……ですが、約束は――」
“では、こうしましょう!”ヴァルゴはさえぎる。“今回はテストケースとしまして、この少量だけを、この金額で買い取らせていただきます。ご満足いただけましたら、次回の収穫分を独占契約という形で、さらに好条件でお取引させていただくというのはいかがでしょう?”
彼は分厚い契約書の束を取り出した。“ほら、こちらに全ての条件を明記しております。ご覧になってみませんか?”
“待たれい!”ガルムが割って入る。“お嬢様、信用ならん! あやしい男だ!”
“同意見だな”ルフィンも冷たく言う。“そんなに好条件ばかり並べたてる奴に、ろくなものはいない”
しかし、ヴァルゴは涼しい顔だ。“おや? このオルターナ領のことは、ラントフ男爵の圧力で苦労されているとお聞きしましたが……? 我が商会なら、そのような面倒ごとともうまく折り合いをつけるノウハウがございますよ? 全てを我々に任せていただければ、お嬢様はただ農作業に没頭するだけでよろしい”
その言葉は、ミレーヌの最も弱い部分を衝いた。商売や交渉ごとから解放され、研究と農作業に集中できる――。
“…………わかりました”ミレーヌは深く息を吸った。“今回は、お言葉に甘えて……この分だけを――”
“ミレーヌ様!”ゴドウィンが厳しい声で止めようとしたが、遅かった。
ヴァルゴはほくそ笑むと、さっさと契約書の署名欄を指さした。“ではでは、こちらにサインを! これで我が商会とオルターナ領はパートナーです!”
ミレーヌがペンを手に取り、契約書に目を通そうとしたその時――。
“ストップ!!”
鋭く、そして慣れったれた声音が響いた。ルフィンが、ミレーヌの手を強引に掴み、ペンを止めたのだ。彼の飄々とした表情は消え、本物の商人としての鋭い眼光に変わっている。
“ヴァルゴ……? てめえ、もしかして『詐欺師ヴァルゴ』 じゃねえか? 三流貴族の息子のふりをしては、細かい字で罠を仕掛けた契約書で小金を稼いでいる、あの男だな?”
ルフィンの言葉に、ヴァルゴの顔から血の気が引く。
“お、お前……何者だ……?”
ルフィンはヴァルゴを無視し、ミレーヌから契約書をひったくるようにして取り上げると、ぱらぱらとめくり、特定の箇所を指さした。
“ほら、ここだ。『乙は、甲に対し、収穫物の全てを優先的に供給する義務を負う』……ふん、『優先的』ってのは、つまり『独占』って意味だ。他の誰にも売るな、ってことさ”
“そして、ここ!『供給不能に陥った場合、乙は想定利益額の十倍の賠償金を甲に支払うものとする』……想定利益額? てめえの提示した法外な金額の十倍だと? ふざけるな! 天候不順でも魔物の襲来でも起きようものなら、お前さんは借金だけじゃなく、とんでもない賠償金を背負う羽目になるんだぞ!”
ミレーヌは顔面蒼白になった。ガルムは「この野郎っ!」と怒鳴り、ヴァルゴに詰め寄った。
ヴァルゴは狡猾な笑みを浮かべ、もはや隠すつもりもないようだった。
“ちっ……バレたか。だがな、小娘……いい気になるなよ。ラントフ男爵の意に逆らう者は、みんなこうして搾り取られて消えていくんだ。お前の農法も、いずれ男爵様のものだ!”
彼は護衛に合図すると、さっさとその場を離れようとした。
“待て!”ガルムが阻む。
“止めろ、ガルム”ゴドウィンが冷静に命じる。“今、ここで問題を起こしても得るものはない。……しかし、ヴァルゴよ。今日の行為と言葉は、しっかりと記憶しておく”
ヴァルゴは嘲笑いながら去っていった。
場に重い沈黙が流れる。ミレーヌは震える手で顔を覆った。
“あ……あの……私は……また……騙されるところだった……”
彼女の声は嗚咽を帯びている。知識や理想だけでは、現実の狡猾さや悪意には太刀打ちできないことを、痛烈に思い知らされた瞬間だった。
ルフィンはため息をつき、契約書をぐしゃぐしゃに丸めた。
“……仕方ないさ、領主さん。商売の世界は、獣が跋扈する森と同じだ。初心者がいきなり飛び込めば、食い尽くされるのは当然だよ”
彼の口調は厳しいが、どこか親しみを込めている。
“だが、今回は学び代が安く済んだと思え。たかが野菜の山の一角だ。次は……もっと高くつくかもしれないからな”
ミレーヌはゆっくりと顔を上げ、ルフィンとゴドウィン、そして心配そうに見守る領民たちを見た。彼女の目には、もはや涙はなく、屈辱と怒りをバネにした強さが宿っていた。
“……ありがとう、ございます。ルフィンさん。……あなたがいなければ、私は取り返しのつかない過ちを犯すところでした”
彼女は拳を握りしめた。
“私は……学びます。農学だけでなく、人を見る目と、契約の怖さも……!”
商人ルフィンの真の実力が垣間見えた回でしたね。
彼のように「表では軽口を叩きながら、裏では鋭く人を見抜く」タイプのキャラって、作者的にも書いていて楽しいです。
一方で、ミレーヌにとっては痛烈な教訓の一日。
この経験が、彼女の成長にどう影響するか――次回以降、お楽しみに。
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豆知識:「きのこの契約社会」
きのこにも“共生契約”のような関係があるのをご存知ですか?
たとえば、菌根菌は植物の根に取りつき、糖分をもらう代わりに、水やミネラルを供給する――いわば「自然界の契約取引」。
ただし、植物が一方的に得をする場合、菌は栄養供給を止めてしまうことも。
人間社会も自然も、「信頼」と「利益」のバランスが大事なんですね。




