第7話 「世界」が閉じる時
―宮部恭弥視点―
2026年4月19日
澄晴のアパートで、3人でレポートの仕上げをしていた。澄晴は机には向かっていなかったけど、ソファに座って、遠くを見ていた。その姿は、俺たちには見えない何かを見つめているように見えた。
「澄晴、何見てるの?」
ふと問いかけると、澄晴はゆっくりとこちらを振り向いた。
その顔には、どこか寂しさの影があった。
「……遠くだよ」
それだけ言って、また静かに視線を戻した。
その「遠く」はたぶん、ただの景色じゃない。
外に目を向ける横顔がきれいだけど、儚くて、消えてしまいそうな気がしてしまう。
澄晴は、今年の春に大学を退学した。
もうすぐ終わるから。
まるで、季節のことでも話すように、そんな言い方をして。普通の顔をして、明るく悲しいことを呟く。
そういうところが、やっぱりずるいなと思った。素直そうに見せても本心はうまく隠してしまうし、いつも笑っているなと思っていたらふと暗い顔をする。
だからたまに、澄晴って何を考えているんだろうと思うことがある。どこまでが計算で、天然なのか。
「なんか、老けたな」
突然、凌太がぼそっと言った。
「え?」
「おじいちゃんみたいな貫禄出しやがって……むかつくわぁ」
「いやいや! 貫禄ないし!っていうか、何でむかつくんだよ!」
そう言いながら、澄晴は笑い出した。
それをきっかけに、いつものやりとりが始まった。
「またイチャイチャしちゃって〜」
俺が茶化すと、凌太がすぐに吠える。
「はぁ? ケンカだし! イチャイチャしてねえし!」
つられて、和樹も笑う。
「澄晴はいつも大変だねぇ。面倒なツンデレの相手しなきゃいけないなんて」
「誰が面倒なツンデレだよ!」
……この空気が、好きだった。どこまでもくだらなくて、どこまでも温かい。
その中心で、澄晴は腹を抱えて笑っていた。まるで、世界中の光が集まったような笑顔で。
この笑顔が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。心の底から。
「澄晴」
名前を呼ぶと、澄晴がニコニコしながら俺の方を向いた。
「ん? 何?」
「俺、そのエクボに住みたいな」
「え? どういうこと?」
ノリに乗って、冗談を言いたい気分だった。
すると、すかさず和樹が乗っかる。
「じゃあもうかたっぽは俺が住むね」
「いや何で? 何でふたりとも俺のエクボに住みたいの?」
凌太はやれやれと肩をすくめる。
その時、澄晴は凌太に目を向けた。だが、
「あ、俺は遠慮しておきます……」
「何でよ! ここは凌太も住みたいって言う流れだろ!」
……意味のわからない会話だった。
でも、それが良かった。
意味なんてなくていい。ただ、こうしてふざけ合えるだけで。
気がつけば、レポートも完成して、外は夕暮れに包まれていた。
ちょっと肩を伸ばしながら、ほっと息をつく。
その時だった。
澄晴がぽつりと、静かに言った。
「なあ、今夜、帰らないでくれる?_____もうすぐ見えなくなる気がするんだ」
その声は、どこか遠くの方から聞こえてくるみたいで。弱くて、揺れていて、でも、必死に隠しているようで。
「最後に見るなら、3人の顔がいい」
……手が、震えた。
終わりが、近づいていることを、体が先に感じ取っていた。なのに、心だけがまだ追いついていなかった。手のひらが冷たくなって、呼吸が少しだけ浅くなる。
凌太が、小さくつぶやくように言った。
「……ったく、しょうがねえな。好きなだけ見てろ」
その言葉に、澄晴がほんの少しだけ涙ぐんで笑った。
「……ありがと」
宝石のようにキラキラ光る澄晴の目元が潤んでいて、それじゃあ顔が見えないだろうと思った。
まだ泣いちゃだめだって。
そう言いたかったけど、俺は動けなかった。声も出なかった。
でも、せめて最後に映った俺たちの顔がひどい顔じゃないように、必死に笑顔を作った。
「……急に静かになったな」
「じゃあ、うるさくしとくか?」
「それは近所迷惑になるでしょ」
「なら、このまま静かにしとく」
「凌ちゃんちょっと拗ねてる?」
「拗ねてねぇし」
いつものテンポで会話をしていた、その瞬間だった。
薄く微笑んでいた澄晴の瞳が、何かを失ったように微かに揺れた。上がっていた口角も徐々に元の位置に戻っていき、真一文字になる。
そして、少し間を置いて言った。
「……あれ? 明かり、ついてるよね?」
ソファの隅で、小さな声で、誰にともなくつぶやく。
「……真っ暗だ」
そして、静かに涙が流れた。
何も言えなかった。
ただ、澄晴のそばにいるだけ。
3人とも、何もできずに、澄晴の“最期の視界”になることしかできなかった。
俺は今泣くべきじゃないと思って、ただ、溢れそうな感情を抑えている。
今夜、澄晴の「世界」が、少し静かに、閉じた。




