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第5話 触れたくない現実

 —佐野凌太(さのりょうた)視点—


  2026年2月1日


 大学が入試期間に入って、今日から休講。

 特に予定もなくて、朝から家でぼーっとしていた。

 いつも活発なグループチャットも、既読は最大2までしかつかない。返信が来るのも、和樹(かずき)恭弥(きょうや)だけ。

 グループチャットを何度開いても、既読の数は増えないし、澄晴(すばる)からの返信は相変わらずない。

 もともと澄晴はチャットに出現する回数が少ないし、あまりスマートフォンを見ないタイプらしく、返信がいつまで経っても来ないことなんてよくある。

 だから、既読も返信もないことに、特別な意味は何もない。昨日の澄晴の姿を見て、深く考えすぎているだけだ。

 そう考えるけど、どうしても心のざわめきが収まらない。

「……もう、直接行くか」

 その一言で、俺は和樹と恭弥に個別で連絡を入れ、3人で澄晴の家に向かうことになった。

 昨日よりも寒い朝だったけど、落ち着かないのは2人も同じだったようだ。

 玄関先に立ち、チャイムを押そうとした時___

 ……ドンッ!と、何かが倒れるような、重たい音が部屋の中から響いた。

「今、ここから聞こえたよね……?」

「澄晴、またドジかましたか?」

 恭弥が苦笑気味に言ったけど、それもすぐに消える。

 俺は無言でチャイムを押した。

 ……けど、ドアが開くまでに数分かかった。

 そして、ようやく開いたドアの向こうに現れたのは___頭から血を流した澄晴だった。

「……え、っ、お前……血、血出てる!やばいって、それ!」

 俺が叫ぶと、澄晴はきょとんとした顔をして言った。

「え?どこ?」

 その声には、ふざけた感じも、焦りもなかった。

 ただ、本当に気づいていないような、曇りのない声だった。

「頭だよ!絶対痛いだろ、それ!!」

 澄晴は、戸惑いながらドアノブを掴んでいない方の手をゆっくり頭に持っていき、指先でそっと探るように傷口に触れた。何のためらいも苦しみもなく、澄晴はその周辺を触っていた。

 この異常な光景に、俺は目を逸らした。

 俺の反応を見た澄晴が手をゆっくりと目の前に持ってきて、ついた血を見て、ようやく驚いたような顔をした。

「……あ、ほんとだ」

 和樹がすぐさま救急車を呼んでくれて、恭弥も一緒に対応してくれた。

 俺は何もできなくて、ただ澄晴の横に立ち尽くすだけだった。

 そのまま、3人で救急車に同乗して病院に向かった。


 澄晴の処置はすぐに終わった。

「軽い裂傷で済んでます。すぐに気づいてよかったですね」

 医者の言葉が、逆にこたえた。

 だって、あいつ、気づいてなかったから。

 処置室のカーテンの向こうに、背を向けて座る澄晴の姿が見える。

「声、かける?」

 和樹が小さく言ったけど、俺はそっと手で制した。

 ……なんか、違う気がしたんだ。

 確かに澄晴はバカでアホだけど、そういうことじゃない。嘘ついてまで自分の痛みを無視できないやつだから。

 俺はゆっくり澄晴に近づき、無言でその肩に手を置いた。

 だけど、澄晴は反応しない。

 2回、肩をトントンと叩いてみる。

 ……それでも、何の反応もない。

「……澄晴」

 そう呼んだとき、ようやく澄晴が振り返った。

「おお!意外と近くにいたんだな!もっと早く言ってよ〜」

 まるで何もなかったみたいに、明るい声だった。

 でも、その笑顔が、あまりにも苦しそうで、見ていられなかった。

「……お前、触られてる感覚ないんだろ。肩叩いても気づかなかったじゃん」

 俺の声は、思ってたよりも冷たくなっていた。

 澄晴の表情が、すっと固まる。

 その時、ああ、やっぱりって思った。今まで隠してたんだなって。

 澄晴は優しいやつだから。

 俺とは真逆で、「皆で笑ってる時間が1番好き」なんて小っ恥ずかしいことを素直に言えるやつだから。

 だから、辛くても1人で抱えればいいって、そうすれば皆で笑っていられるって、そう思ったんでしょ?

 澄晴は、ふっと笑った。

「……もう隠しきれないか」

 いつもの茶化しとは違う、まっすぐな眼差し。

 まるで、何かを終わらせるような、静かな強さがあった。

「……病気なんだ。人生リセット症候群っていうやつ。俺の場合は、20歳になったら——」

 澄晴は一息ついた。

「五感と、記憶が全部なくなるんだ」

 俺は、その言葉の意味をすぐに理解できなかった。

 和樹も、恭弥も、同じだった。

 部屋の空気が止まったみたいだった。

 目の前の澄晴だけが、どこか淡々としていた。

「眠りについてしばらくしたら、また五感は戻って来る。でも、記憶は戻らない。20歳から新しく人生が始まるらしい」

 澄晴の手が、静かに膝の上で握られていた。

 あんなに器用で、穏やかで、ふわっとしたやつなのに、今はこんなにも苦しそうにしている。

「だから、来年には、たぶん……俺は、俺じゃなくなる」

 その言葉に、俺は何も言えなかった。

 心のどこかで、ふざけるなって叫びたかった。

 こんな現実、あるわけないだろって。

 だけど、澄晴の目は真っ直ぐで、嘘なんかついていなかった。

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