第2話 優しい秋風の匂い
—宮部恭弥 視点—
2025年11月7日
通学ラッシュの電車は、毎朝の恒例行事みたいなものだ。
俺たちはいつものように、4人並んで小声で話しながら揺られていた。
話している内容はいつも通り、くだらないことだった。
和樹が見た変な夢の話だとか、凌太が夜ふかししすぎて遅刻しそうになったとか。そういう、ほんとにどうでもいいことを、笑いながら話していた。
でも、その中で澄晴だけは、なぜか終始無言だった。まるで、気配が消えたみたいだ。
いつも話の中心で笑っているのに、今日はいつもと違う様子だった。
ふと隣を見ると、彼の顔色がひどく悪いと気づく。
唇が少し青くて、目の下にはうっすらクマが浮かんでいる。肩はわずかに震えていて、額には小さな汗がにじんでいた。
「澄晴、大丈夫か?」
小さく問いかけると、焦点が合わない目で彼は曖昧にうなずいた。
その返事にはまったく力がなく、どうも大丈夫には見えない。
いつ倒れるのか分からないから、澄晴をちらちら見ながら2人の話を聞いていた。
しかし、電車が駅に停まってドアが開いた瞬間だった。
人がどっと乗り込んできたその一瞬の圧で、澄晴は口を押さえた。
そして、ドアを目掛けて進み始めた。
この駅は乗り換えが便利な場所だからたくさんの人が行き来する。
澄晴はそんな人の波の逆行して、向かってくる人に肩をぶつけながらふらりと出ていった。
「……澄晴!」
俺はすぐにその後を追う。
凌太と和樹が驚いたようにこちらを見ていたが、言葉を交わす余裕はない。
「教授に遅れるって伝えといて!」
そうだけ言い残して、扉が閉まる直前、俺は電車を降りた。
2人は戸惑っていたけど、頷いてくれた。それから間もなく、電車が発車した。
走り出す電車の音が遠ざかっていく中で、ホームの端、澄晴が膝をついてうずくまっているのが見えた。
俺はそこに駆け寄ってかがむ。
「澄晴? 気持ち悪いのか?」
問いかけると、澄晴は小さく頷いた。
唇の端が震えていて、目の縁から涙がつーっと流れている。何かを必死に耐えているようだった。
それに気づいた駅員さんが駆け寄ってきて、「こちらへどうぞ」と声をかけてくれる。
澄晴はそのまま、救護室へと連れて行かれることになった。
俺も迷わず、ついていった。
何があっても、ひとりにしたくなかったから。
駅員さんに誘導されるまま救護室の前まで来たが、澄晴の顔の青さが増し、再び口を塞いで、今度はうぅと声を出した。
ほんの数秒間、救護室の扉を数センチメートル開けただけだが、強い消毒液の匂いが澄晴にトドメを刺したのだろう。1歩後ろにいる俺にもそのきつい匂いを感じた。
救護室のそばにあるトイレに駆け込んだ澄晴の背中を、俺は無言でさすり続けた。
細い背中は震えていて、今にも崩れてしまいそうだ。
しばらくして、ようやく落ち着いたのか、澄晴は洗面台で顔を洗ってから戻ってきた。
目の下のくすみはまだ取れないけど、さっきよりは少しマシな顔をしていた。
「……恭弥、ごめんな。サボらせちゃって」
そう言って、申し訳なさそうに頭を下げる澄晴。
「気にすんな。それより、大丈夫か?」
そう言いながら、俺は無意識に澄晴の額に手を当てていた。
熱はなさそうだけど、なんだか体の奥の疲れがにじみ出ている感じだった。
澄晴は高校のときから、時々「通院」と言って学校を休む日があった。頻度は月に1度くらい。
あまり多くは語らなかったけど、きっと体が弱いんだろうな、ってくらいにしか思ってなかった。
だが、澄晴はいつも元気そうに見えた。
体育も参加していたし、よく笑うし、よく喋るし、俺から見たら普通の人だ。
だから、今日みたいに、急にここまで体調を崩すのは初めてで、少し不安になった。
「うん。今はもう大丈夫。……心配してくれてありがとうな」
澄晴は、少しぎこちない笑顔を浮かべた。それが、なんだかとても不自然だ。無理して笑ってるのがわかって、少しだけ胸が締めつけられる。
そんなふうに考えていると、次の瞬間。
「……え」
澄晴が、俺の肩にふっともたれかかってきた。
「澄晴?何してんの?」
「なんか、恭弥の匂い、落ち着くなぁって思って」
意味が分からなくて一瞬固まる俺に、澄晴はふにゃっと笑いながら、さらに柔らかく頬をすり寄せてきた。
「電車の中……いろんな匂いがぐちゃぐちゃになって、気分悪くなっちゃったけどさ。……親友の匂いって、いいなぁって。好きだなぁって思って」
その声は、まるで壊れそうなガラスみたいに、かすれていた。
澄晴は、何かを隠している。
そう感じたけど、問い詰めることなんてできなかった。
だって今、彼はあまりにも無防備で、寄りかかってきたその体は、少しだけ震えていたから。
そっと、俺は澄晴の肩に手を回して、静かに言った。
「……いつでも頼ってよ」
そんなことしか言えなかった。
でも、澄晴は「ありがと」って、少しだけ笑った。
ほんのわずかな体温が、秋風にさらされるホームの静けさの中で、確かにそこにあった。




