第11話 はじめまして
―宮部恭弥視点―
2026年6月28日
澄晴が眠ってから、2週間が経った。
あの日、聴覚が失われて、完全に五感をなくした。目も、耳も、体も、何も反応しなくなってしまって、そのまま静かに、眠るように動かなくなった。
死んだわけじゃない。
そう分かっていても、呼吸を確かめるまでは怖くてたまらなかった。
それでも、また目を覚ましてくれる。
澄晴はまだ生きているから。
俺たちはその日をずっと待っている。
だから、3人は日替わりで病室に通った。マッサージしたり、話しかけたり、くだらない話もしたり。それで、今日もちゃんとここにいるよ、1人じゃないよって、声を届けていた。
今日の当番は俺。
「澄晴。遅くなってごめんな。今日はちょっと立て込んでてさ____」
何気ない、独り言のような会話。
でもその瞬間、ふと視線を感じて顔を上げると___澄晴が目を開けて、俺のことを見ていた。
「……澄晴?」
思わず名前を呼ぶと、澄晴がふわっと笑った。
ああ、生きてる。
本当に、生きてるんだ。
すぐにグループチャットで報告した。
《澄晴、起きた。今、笑ってる》
返ってきたのは、和樹の《なるべくすぐ行く!!!》という勢いのある返信だった。
既読はちゃんと2つついていたから、凌太同じ気持ちだろう。
でも、なんとなく、目の前の美青年には違和感があった。
いつもの澄晴じゃない。少し、幼く見える。
名前を呼ぶと、にこって笑う。だけど、黙るとふくれっ面をする。
全然喋らない。だけど、表情だけで全部伝えてくる。
なんだろう……言葉にするなら、「赤ちゃん」みたいだった。
「澄晴」
にひひと笑って、俺の手を握った。
手が前よりも細く骨ばっているし、力も弱くなっている。だけど、ちゃんと五感が戻ったのだなと思うと嬉しくなった。
だから、俺も笑った。澄晴と一緒に。
「おはようございます」
夕方だが朝の挨拶の言葉を言いながら澄晴の担当医と男性看護師がやってきた。
「小鳥遊さん、お名前分かりますか?」
看護師さんはすでに名前の一部を出してしまっているが、澄晴は一旦聞いてから少ししてぽかんとした表情でこっちを見た。
何で俺を見るんだと思うが、微笑むと澄晴も満面の笑みを浮かべた。
「すばる!」
さっきまで全く喋らなかったのに、突然自分の名前を叫んだ。それから、何を聞いても元気よく”すばる”と言った。
ああ、本当になくなったんだなと、痛烈に感じた。しかも、記憶のない澄晴は俺に懐いていて、ずっと手を握られたまま。
温かいけど、心地よい体温だけど、肌がヒリヒリする感覚がした。
「……小鳥遊さんが”リセット”、つまり、”記憶を完全に失ったこと”を確認しました。これから五感が正常に戻っているかどうかの検査をします。まずは___」
担当医は俺に検査ルートを教えた。よく分からない単語を並べて、淡々と。
その説明が終わって、看護師さんは車椅子を持ってきた。
「小鳥遊さん」
苗字を呼んでも澄晴は何の反応もしない。でも、
「澄晴」
そう俺が呼ぶと、にっこり笑った。
俺の言う事しかろくに反応しないし、澄晴は全く手を離そうとしないため、検査についていくことになってしまった。
車椅子に乗った澄晴はご機嫌なようで、ずっとニコニコしていた。検査室の前まで来るとさすがに手を離さなければいけないのだが、澄晴はうぅと声を出して泣き出してしまう。
だからそのたびに、「また後でね」や「検査終わるまでここで待ってるからね」のような、澄晴をなだめる言葉をかけてから手を離した。
当然注目が集まるから、俺はすみませんと小声で謝りながら浅めのお辞儀をする。
そんな感じで先生の検査が終わって、疲れたのか、凌太と和樹が病室に駆けつけた頃には、澄晴はすやすやと眠っていた。
「マジで赤ちゃんじゃん」
凌太がぼそっと言った。
「寝方もかわいいね」
和樹が、澄晴の寝顔を見ながら微笑んだ。
澄晴は俺の手を握ったまま眠ってる。指を外そうとすると、急に握る力が強くなる。
「なんか……ちょっと恥ずかしいかも」
俺がそうつぶやくと、
「照れてんじゃねえよ」
凌太が笑って突っ込んできた。
「え〜?凌ちゃん嫉妬?」
「うるせぇ」
そんなくだらない会話ができることが、なんだか幸せだった。
だが、現実はそう甘くない。
今は就職活動の真っ最中。働き出したら、今みたいに毎日来ることもできなくなる。
澄晴が目覚めたら、4人で共同生活しよう。
それはだいぶ前から話していた“夢”だったけど、今の状態じゃ難しい。
話し合った末に、せめて週に1度は必ず顔を出そうという約束だけは守ることにした。
それが、今の俺たちにできる精一杯だった。
面会時間が終わりに近づいて、そろそろ出ようとした時、俺はそっと澄晴の手を外そうとした。
しかし、またギュッと握り返される。
「……誰かぁ、助けてぇ」
小声でそうつぶやくと、
「こういう時は力技だよ」
凌太が澄晴の手をやんわりと広げてくれた。
澄晴は、寝ているように見える。
だけどきっと、本当は気づいてるんだと思う。
手を離したくないって、ちゃんと伝わってくるから。
病室を出た後、3人ともずっと無言だった。
赤ちゃんみたいになった澄晴を俺たちはどう受け止めればいいのか、まだ答えは出ていなかった。
でも、笑ってくれた。
目を開けてくれた。
また“生きよう”としてくれた。
それだけで、希望はちゃんとそこにあった。




