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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

土産旅籠

衆領しゅうりょうに産まれた者には例外なく、その広大な土地の所有権が生まれながらに授けられる。

僕は両親が営んでいる土産旅籠で日々を送っており、父と母が旅人の世話をしているのを見学するのが、いずれ後を継ぐことになる自分の今現在の努めだ。

土産旅籠では建物に吹き付けるはずの強い風を無風にする扇子と何を食べても好物の味がする木椀が人気商品だ。

衆領と呼ばれるある限りの建物がすべて旅籠のこの土地を訪れる旅人たちはまず両替旅籠もしくは物語旅籠で一晩を過ごす。

両替旅籠では他の地域の通貨を物語通貨に両替でき、物語旅籠ではよそから来た旅人が原稿用紙五枚以内のの短編小説を書いて旅籠の主に査定してもらう。

物語旅籠で査定して数字の印字された印を押した小説は印札として通貨の価値を持つ。

一円札、五円札、十円札、五十円札、百円札、千円札、五千円札、一万円札の計八種類の紙幣が衆領では流通している。

ある日、いつものように父の土産品の販売の仕事を見学していると、土産旅籠に置いてある泥人形を求める旅人がやってきた。

父は売り物ではないことを旅人に伝えた。「姿だけでも見せてはもらえまいか?」と旅人が尋ねてくるので、僕を伴って売り場の一角の窓際のロッキングチェアに身を委ねる泥人形の所まで出向いた。

いつも眠たげに目を閉じている泥人形は、さながら美しい大人の女性のように精巧に作られていた。

父と旅人が顔を合わせて、泥人形に目をくれることなく話し合っている間に、僕は常に静謐を保っているはずの泥人形があくびの動作をするのを見逃さなかった。

泥人形は口の中にある綺麗に並んだ白い歯を覗かせた。

他には特に用がないために件の旅人は他の旅籠に宿泊することを選んだ。

腕の歯型に気づいたのは、母が宿人やどりうど夕餉ゆうげを作り終えて、両親の本日の仕事が終わった後に家族で食事をしているときだった。

「誰かに嚙まれたの?」

「えっ?」

「ほら、左のひじの辺り」

左隣で木製のテーブルの前の椅子に座る三つ離れた八歳の妹が箸で僕の左のひじを指し示す。

見ると、そこには綺麗な歯型がついた跡があった。

まるで、泥人形に噛まれたかのような妖艶な美しさを感じた。

次の日。目覚めてから気になっていた半袖のパジャマから出ている左腕のひじに目をやると、泥人形に食われたようにひじのあたりが削れていた。血は出ていない。けれど、本来なら見えるはずのない皮膚の内側まではっきりと視認できた。それから毎日、夜になると歯型が浮かんだ。そして朝になると、歯型のあった部分が削れていた。

僕は怖くなって灯りを消して自室をカーテンで窓を隠して扉を閉ざして部屋暗くした。

明るい所では僕の体が目立ちすぎる。

暗い所にいると少しだけ心が安らいだ。

初めて体が削れてから一か月ほどが経った日の昼過ぎ。もう僕の両腕やら両足やら脇腹はたくさん削れていて、原形を失っていた。人に見られないように部屋でじっとしていよう、と常々思っていた。

土産旅籠の戸を開ける音がする。

「いらっしゃいませ!」

父の大きそうな声が小さく聞こえた。

夏の暑い季節にもかかわらず、僕は長袖と長ズボンで体を隠して暗い部屋に籠っている。

土産旅籠の自室では扇風機が懸命に働いており、窓の外に広がる並木道のように長く広い通路を挟んで所狭しと林立する旅籠の外壁にへばりついているであろう蝉の奏でる騒がしい音楽が時間が流れているのをを嫌というほど感じさせる。

「入るぞ」

僕の部屋をノックする音と同時に父の声がした。

電灯の灯りが点く。

「今日と明日の朝までツヅリさんと同室になってもらう」

「満室なら断ればいいでしょ?」

「そういうわけにもいかないんだ。この人は懐柔権を所有している。頼みを断ろうとしても断れないんだ」

「昔、取り替え旅籠で死亡権を手放して懐柔権を手に入れたの」

夏らしいワンピース姿の女性のツヅリはいった。

「よろしくね」

ツヅリとの同室生活が始まった。

まず、彼女は僕と打ち解けるために外見の話を始めた。

「十八歳から年を取らなくなって、それから今日まで数えて百年以上経ったわ。右耳の耳たぶにくっついているのはボタン虫」

ボタン虫という生き物を初めて見たけれど、僕には変わったボタンの耳飾りのように思えた。

「ねぇ、どうして部屋を暗くしていたの?」

言うつもりはなかったけれど、口が勝手に開いてしゃべらされてしまうのを感じた。

どうやら、ツヅリの質問に拒否権はないらしい。

僕が自分の置かれた状況を話し終えるまで不自由な口は忙しなく動いた。

「なるほどね。ボタン虫が羽ばたいて行き着いたのが、この土産旅籠だったから誰かが泥人形の歯を見てしまった可能性を考えたけれど、間違いじゃないかったのね」

「少し身の上話をしましょう」

そういって、ツヅリの話は始まった。

ツヅリはかつて遠い地域の旅籠とは違うイエという所で暮らしていた。

ツヅリの父親は娘に勉強をさせることばかり考えていた。

ツヅリの母親は娘との思い出作りを大切にしていた。

そんな父親と母親の間には時間の使い方に関して対立があった。

やがて、父親は夫婦喧嘩ばかりする日常に嫌気が差してイエを出ていく。

その頃にはツヅリは母親から誰よりも大事にされるようになった。

けれど、ツヅリは本当のことを知っていた。

母親は夫婦喧嘩に嫌気が差してイエを出ていったと思っているけれど、本当はツヅリが父親の家族に関するスイッチをオフにしたからだ。

ツヅリは人を見ると、スイッチのイメージが浮かぶ。

物心ついたころにはすでにツヅリの体はそうなっていた。

スイッチは記憶の中にいる会話をした人数分だけある。

通常、スイッチは自然に記憶から人との会話が消え失せない限りはオンの状態になっている。

その中からツヅリは父親の自分の家族のスイッチをすべてオフにした。

そこには、ツヅリの祖母である父親の母も含まれていた。

イメージとして浮かぶスイッチは一度オフにすると二度とオンにはならない。

ツヅリの祖母は孫には相手にされるが、義理の娘にはあしらわれるようになった。

ツヅリは祖母が義理の娘に対して忘れたふりをするようになったことに気づく。

祖母を見ると出てくるスイッチのイメージでは、義理の娘のスイッチはオンになったままだ。

本当のことを知っている、とツヅリは祖母に伝えた。

二人だけの秘密ね、祖母はにっこり笑っていった。

義理の娘にとっては大切ではなくても、祖母にとっては今でもツヅリの母親と大切な家族だと思っていることをツヅリはこのとき知った。

「いろいろと忘れたふりをすると気にかけてもらえるかもしれないじゃない。私はあなたの母親に私のことを家族と思っていてほしい」

ツヅリの心情は複雑だった。

父親のスイッチをオフにしてから実物を見ているときにしか、それに関する記憶を思い出せない対象がいくつかあった。

最初は空を見たときにしか空を思い出せなかったが、その次には花を見たときにしか花を思い出せなくなっていた。

そして最近では祖母を見たときにしか祖母のことを思い出せなくなっていた。

予防法があるとすれば他人のスイッチをオフにし続けることだけだ、と初めてオフにしたスイッチの音がツヅリの脳内で残響として起こり、その強弱が自動的に言語化されることで理解した。

予防をしなければ、いずれツヅリは自身の母親のことを見ないと母親のことを思い出せなくなり、母親の命が終わってしまったら、母親のことを完全に忘れてしまう。

ツヅリはそれだけは避けなければならないと考えていた。

次にツヅリが祖母と対面したときには、ツヅリの祖母の義理の娘に関する記憶を保有するスイッチを人知れずそっとオフにした。

ツヅリの母親にとっては自分のことを覚えていないのはいつものことだが、ツヅリにとってはそうではない。ツヅリは胸が押しつぶされそうで生きた心地がせずに母親に隠れて、ベッドのなかで布団にくるまってひっそりと涙を流し続けた。

ツヅリの心は機械が摩耗するように削れていくことはなく、どこまでも後悔が膨れ上がっていった。

未だに自分のことだけは覚えている祖母の優しい笑顔に耐え切れずに、祖母のツヅリに関する記憶のスイッチをオフにした。

そのうちに祖母は老人ホームで暮らし始めた。

「おばあちゃん、ツヅリのことも忘れちゃったみたいね。ツヅリにはお母さんがいるからね」

「……ありがとう」

ツヅリは生まれ育ったイエにいるのがつらくてたまらなかった。

もうそうするしかないとツヅリは考えていた。

だから、ツヅリにとってその日の夕飯のカレーは最後に母親と食べた忘れたくない思い出の味だ。

今はもうツヅリのことを思い出せなくなっている母親と最後の食事の後に二人で撮った写真には、テーブルの前に置かれた椅子に座って笑顔の母娘が写っていた。

母親は幸せそうに微笑んでいて、ツヅリの目にはこぼれそうなほどの涙がたたえられていた。

それからツヅリは居場所を転々とした。

そして衆領に行き着いた。

まずは両替旅籠で依頼人に危険を及ぼす可能性のある者のスイッチをオフにする記憶消しの仕事で稼いだ手持ちの金を物語通貨に替えた。

次に取り替え旅籠に行き、権利のやり取りをする運び鼠に手の平を踏ませることで、死亡権を手放して懐柔権を手に入れた。物語通貨のほとんどを消費した。

死亡権を手放したのは、助けを求める人のために永久に記憶消しを続けることで贖罪を果たそうと考えたからだ。死亡権を失った日からツヅリは年を取らなくなった。

生物旅籠ではボタン虫を安く買った。

ボタン虫は三日に一度脱皮する。ボタン虫は自身の抜け殻を食らうことで生きながらえる。

ボタン虫を入手して記憶消しのやり方も変わった。

記憶を消してほしい人がいる所にボタン虫は行き着く。

ある朝。取り替え旅籠に作者不明の泥人形がやってきて、退去権を手放して占有権を手に入れた。世間の噂ではそのまま取り替え旅籠に居座っているそうだ。

泥人形は懐柔権を所有しており、移動させることができないという。

ツヅリが様子を見に取り替え旅籠に行くと、当の泥人形は身の丈に合わない取り替えをした代償に知性を失っており、会話もできなくなっていた。

泥人形を見ると、ツヅリにスイッチのイメージが浮かんだ。

スイッチをオフにしたときの音がツヅリの脳内で残響する。

その残響の強弱からツヅリは泥人形があくびを歯を見せることがあることを知る。

悪寒がした。そして、泥人形の歯を見るものが現れるまで泥人形のことは誰も口にできないことも同時に知った。泥人形の眠たげな姿は美しく、訪れる多くの人たちの心を惹きつけた。

やがて、取り替え旅籠は土産旅籠と名称を変えて親しまれるようになった。

「泥人形の呪いから助かる唯一の可能性があるとするなら、あなたの記憶をすべて消すこと。泥人形の呪いのことをすっかり忘れることで、泥人形の呪いを打ち消すことができるかもしれない。正直、上手くいくかもわからない。でも、何も手を打たないといずれ命が終わる。あなたはどうしたい?」

ツヅリが土産旅籠へやってきたのは、僕が泥人形の呪いにかかったからだ。

「僕の記憶を丸ごと消してほしい。それからもう一つお願いがあって……」

今度は僕の口が勝手に動くことなく、本心を伝えた。

どうやらツヅリに自分で伝える意志があるときに限って、懐柔権は働かないようだ。


ツヅリによると、両親と妹の記憶から僕のことは完全に消えた。

それはほかでもない僕の望みだったという。

そのときの心情を僕は覚えていないけれど、僕を気がかりに生きていてほしくはないと思ったのかなとなんとなくそんなふうに僕は思う。

最近になって、覚えなおした言葉がある。

「ありがとう」

泥人形の呪いから助かった本来の体に戻った僕はツヅリと旅人として生きていく。

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