婚約破棄された悪役令嬢ですが、隣国の王子に溺愛されて白い結婚しました
「――クラリス・エルバート侯爵令嬢との婚約は、ここに破棄とする」
玉座の間に響いたアルベルト王太子の声に、私は小さく息を呑んだ。耳を疑ったわけではない。心のどこかで、こうなることを予感していたから。
彼の隣には、私の“親友”だったはずのミレーヌが寄り添い、勝ち誇った笑みを浮かべている。
「真実の愛を見つけたのだ。君との関係は、ただの政略に過ぎなかった」
「……そう。なら、どうぞお幸せに」
私は深く一礼し、静かにその場を去った。周囲の視線が突き刺さる。悪役令嬢。男を略奪しようとした女。そんなレッテルが貼られることは分かっていた。
それでも、私は泣かなかった。泣くほどの未練など、もうどこにもなかったから。
それよりも――この屈辱を、どう“返す”かだけを考えていた。
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数日後、父から突然告げられたのは、隣国エルゼリアの王子・レオニス殿下との婚約話だった。
「彼が自ら申し出てきた。正式な縁談だ」
「……会ったこともありませんが」
「いや。実は昔、お前が一度命を救った少年だと言っていた」
その名を聞いたとき、私は記憶の片隅に残っていた幼い日の出会いを思い出した。
冬の森で道に迷っていた金髪の少年。震えるその手を取って、私が導いた少年の名が……レオだった。
そして、その“少年”は今、立派な青年へと成長していた。
「久しぶりだね、クラリス嬢」
目の前の青年は微笑みながら私に手を差し伸べた。優しく、けれど確かな力を秘めたその手に、私は静かに手を重ねた。
政略結婚――そう言い聞かせた。だが、彼の眼差しは、ただの政治的なものではなかった。
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エルゼリア王国での生活は、静かで穏やかだった。
レオニス殿下との結婚は“白い結婚”とされ、互いの自由を尊重する形式で始まった。
だが、私が少し体調を崩すと彼はすぐさま侍医を呼び、侍女を交代させ、使用人にまで警戒の目を光らせた。
「クラリスが傷つくのは許さない」
冷ややかな目で言い放ったその姿は、幼い頃のあの優しい少年の面影とはまるで別人だった。
「……レオ殿下?」
「この結婚は“白い”なんかじゃない。僕にとっては、ずっと昔から君だけが“特別”だった」
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やがて、王都から噂が届く。アルベルト王太子が王太后の不興を買い、王位継承権を一時剥奪されたと。
「おかしいな。僕が王都に書状を送ったのはほんの三通だけなんだけど」
レオは紅茶を口にしながら、無邪気な笑顔を浮かべる。
私はその手口を深く問うことはしなかった。ただ、彼が私のために“動いた”ことだけが胸に残った。
そんな彼に、私は初めて「ありがとう」と言った。
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数か月後、アルベルト王太子が訪れた。
「クラリス……戻ってきてほしい」
「は?」
「あれは間違いだった。やはり君がふさわしいと分かったんだ」
この期に及んで、なぜ自分に戻れると思ったのだろう。
「……あいにく、私はすでに別の方のもとで幸せです」
「僕なら、王国の力も――」
「王国の力? 面白い。では、私の“今の夫”に聞いてごらんなさい」
その言葉に反応して、扉が開く。
レオニスが堂々と姿を現し、アルベルトを見下ろすように言った。
「僕の妻にこれ以上手を出すなら、王都ごと消す覚悟でいる」
その目に浮かぶ冷ややかな怒気に、アルベルトは顔を青ざめさせ、何も言えず退却していった。
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「……脅しすぎです」
「君のためなら、世界を敵に回すくらい、当然だ」
レオニスはそう言って、私の手を取った。指輪が指にきらりと光る。
「僕はね、クラリス。君がどんな過去を持っていようと構わない。君が僕を選んでくれたことが、何よりの幸福だ」
「……選んだなんて。最初は政略結婚だったのに」
「君の瞳に“諦め”の色が消えたときから、僕はそれを“愛”と呼ぶことにしたんだ」
そう言って、彼は私の額にそっと口づけた。
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今、私はレオニスの隣で過ごしている。
かつては“悪役令嬢”と蔑まれたこの私を、彼は決して見捨てなかった。
そして、彼はただの王子ではなく、私のすべてを守る“王”となった。
復讐も、涙も、すべて過去のもの。
これからは――彼と共に、幸福な未来を築いていく。
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「では、クラリス=エルバート侯爵令嬢。レオニス=エルゼリア王子殿下との正式な婚姻の儀を、三日後に執り行います」
王宮侍従の宣言に、私は思わず背筋を伸ばした。
本来、私とレオニスの婚姻は“政略”の一環として、形式的に済ませたものだった。
契約書と印、あとは控えめな披露宴があっただけ。もちろん、ドレスも、誓いの言葉も、指輪の交換もなかった。
だが――今度は違う。
「クラリス、本物の君を、この国の誰もが見るべきだ」
そう言って、レオニスが準備したのは、王宮を挙げての盛大な結婚式。
王族や貴族たちを招いた上で、彼は私を堂々と“正妃”として認めさせようとしていた。
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「このドレスを……私に?」
「もちろん。君のために仕立てた、特注品だ」
鏡に映った自分は、私とは思えなかった。
純白のレースに、翡翠の刺繍が施されたドレス。裾にはクラリス家の家紋と、エルゼリアの王章が絡み合って縫い込まれている。
「これって、王家の……」
「夫婦として、そして王と妃として。これからは同じ未来を歩む者の証だ」
私は、言葉が出なかった。
誰かの代用品でも、政治の道具でもない――本当に“私”として、ここに立てる日が来るとは思っていなかったのだ。
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結婚式当日。王都は白と金の装飾で彩られ、鐘の音が空に響く。
王宮前広場に敷かれた純白のバージンロードの先、レオニスが私を待っていた。
緊張で膝が震える私の腕を、父が優しく支えてくれた。
「……誇りに思うぞ、クラリス」
かつて、私に政略の責任を背負わせた父。その父が、今はただの“親”の顔で私を送り出してくれる。
私たちが並んで歩き始めた瞬間、空から一枚の花びらが舞い落ちた。
「姫様、おきれいです!」
「王子様が、あんなに笑っておられるの初めて見ました!」
ざわめく観衆の声が祝福に変わる。
かつて私を悪女と罵った者たちが、今は拍手を送っていた。
それが皮肉でも、偽善でも、もうどうでもよかった。
私はただ、愛する人のもとへと進むだけだった。
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「クラリス」
レオニスが手を伸ばす。
その手に触れた瞬間、全身が温かく満たされた。
「誓いますか? 病めるときも、健やかなるときも、この方を愛し、慈しむことを」
「……誓います」
「そなたも誓いますか? この方を守り、導き、決して孤独にしないと」
「誓うとも」
巫女の声と共に、指輪が交わされた。
それはエルゼリアの王族にのみ伝わる、黒曜石に銀の刻印を施した指輪。
そして私は、彼の名と未来を預かる者として――新たな“クラリス=エルゼリア王妃”となった。
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披露宴の最中、レオニスは私の耳元でささやいた。
「今夜、君にもうひとつ“贈り物”がある」
「……なんですか?」
「それは……あとでのお楽しみだ」
その微笑みが、ぞくりとするほど艶めいていて――私は思わず視線を逸らした。
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その夜、私のもとに届けられたのは、一枚の文書だった。
――元王太子アルベルトとミレーヌ嬢に対する、国外追放と爵位剥奪の通達。
「……レオ」
「君に手を出そうとした者には、ただの敗北じゃ甘すぎる」
そう言って、彼は私の腰を引き寄せ、そっと唇を重ねた。
「復讐は終わった。これからは、君の幸せだけを考えて」
「……ありがとう。あなたに、救われた」
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クラリス=エルゼリア。かつては悪役令嬢と呼ばれ、捨てられた娘だった。
けれど今は、王の隣で微笑む――愛される女。
白いドレスに包まれ、心からの笑顔を浮かべながら、私は確かに“人生の主役”になっていた。
そして、次なる奇跡は、もうすぐこの手の中に――。
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「……あの、レオ。これって……もしかして」
言葉を詰まらせながら告げた私に、レオニスは一瞬驚いた表情を浮かべたのち――目を見開いた。
「……!」
そして次の瞬間、抱きしめられた。
強く、でも優しく。
「……ありがとう、クラリス。本当に、ありがとう」
その声は震えていて、彼の肩は微かに揺れていた。
レオニスが、涙を堪えている――そんな姿を見るのは初めてだった。
「君と……家族になれるんだね」
「もう家族じゃなかったの?」
「それでも、“親”になるって、また特別なことだろう?」
彼の指が、そっと私のお腹に触れる。
まだ目に見えない命。けれど確かにそこにいる、小さな光。
私は目を閉じて、その奇跡を胸に刻んだ。
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妊娠が公になったのは、それから少し後のことだった。
エルゼリア王国中が祝福の空気に包まれる。
「レオニス王子夫妻に、王子(または王女)誕生の兆しあり!」
新聞の見出しは華やかに躍り、城下町では花が配られ、祝宴が開かれた。
「……国民って、思ったよりも温かいのね」
「君を見てきたからだよ、クラリス。『悪役令嬢』が王妃として誠実に振る舞っている姿を、皆見てきた。君が信頼を勝ち取ったんだ」
それでも。
「何かあったら、君を抱えてこの国を出る。城も玉座も全部捨てて」
そんなことを本気で言うこの人は、昔と変わらず不器用で、でもどこまでも真っ直ぐだった。
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妊娠中の生活は、正直なところ穏やかではなかった。
王妃の体調は国の問題。ちょっとした体調不良もすぐ報告書になり、侍医が群がる。
レオニスもまた過剰に心配し、少し歩いただけで「駕籠を呼べ」と怒鳴る始末。
「歩いたほうが体にいいって言われたのよ?」
「いや、でも君が転んだら――!」
「……子供ができたからって、私は急に壊れ物になったわけじゃないのよ?」
そう言って彼の胸を軽く叩くと、レオニスはふっと照れたように笑った。
「……でも、大事なんだ。何があっても守りたい。君も、子供も」
その言葉に、私は怒る気力をなくしてしまった。
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そして、出産の日は突然にやってきた。
満月の夜。冷たい風が窓を鳴らすなか、私は激しい痛みに耐えていた。
「クラリス! クラリス、大丈夫か!?」
「うるさいわね! 今、それどころじゃ――ッ!」
叫び声と共に、侍女たちの声が飛び交う。
「王子殿下、廊下でお待ちを!」
「いいや、離れない! クラリス、手を!」
「……手を握ってるだけで済むならね……っ、いっそ代わってよレオ……っ!」
「代われるものなら代わってる!」
苦しみながらも、彼の顔を見て思わず笑ってしまった。
「……バカね、あなた……」
「うん。君に惚れてる、救いようのないバカだ」
その言葉が、どれだけ私の心を支えてくれたか――。
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夜が明ける直前。
甲高い産声が、部屋中に響いた。
「おめでとうございます! 元気な男の子です!」
レオニスが泣いた。声を上げて、本当に泣いた。
私の手を握ったまま、肩を震わせて、嗚咽を漏らしながら。
「……クラリス、本当に……ありがとう……ありがとう……」
「……ふふ。そんなに泣くと、王族の威厳がなくなるわよ」
「構うもんか。僕はただの父親だ」
そう言って、彼は赤子をそっと抱き上げ、愛おしそうにその顔を見つめた。
「……名前は?」
「君が決めていい。君の命がけの贈り物だ」
私は、赤ん坊の頬にそっと触れながら言った。
「『ユリウス』。優しくて、気高くて、強い人になってほしいから」
レオニスは深く頷き、そして赤子の額に口づけた。
「――ユリウス=エルゼリア。君がこの国の未来だ」
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数日後、ユリウスのお披露目式が王宮で行われた。
「なんとまあ、聡い目をした子でございますなあ」
「王妃様に似たのですね!」
「いや、王子殿下にそっくりだわ!」
祝福の声が飛び交い、贈り物が山のように積まれる。
私の中にあった「悪役令嬢」の面影は、もはやどこにもなかった。
「……クラリス?」
「ええ。とても……幸せよ」
私を見つめるレオニスの瞳も、子供を見下ろすその表情も、すべてが温かかった。
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かつて私を見下した者たちは、もう振り返る必要がない。
私は、王妃として、母として、愛されて生きていく。
これは復讐の果てに掴んだ、私だけの未来。
そして、ユリウスと共に育む、新たな物語の始まりだった。