商品の効果
(……買ってしまった……)
拓海は自宅があるマンションのエレベーター内で、その重みを噛みしめていた。
これは、大きな買い物だ。
しかし彼の胸中にあるのは後悔ではなく、グレードアップした自分を婚約者に見せつけたいという強い願望だった。
一体、どんな反応を示すのだろうか?
ふと不安が頭をよぎる。
(見られた瞬間、バレたらどうしよう……)
結婚前に余計な買い物をしたと、罵られる可能性もある。
しかもそれがカツラだと明らかになった場合の恥ずかしさと屈辱感と悲しさを思うと、急に前に進むのが怖くなった。
バレたら全てが気泡と化す。
つけてる意味がなくなるのだ。
しかしローンは依然として払わなくてはいけない。
確かに月々安価ではあるが、意味のないことに金を払い続けることに、言いようのない虚無感と敗北感を感じるに違いない。
(いや……!)
拓海は意識を現実に留めるように、首を激しく横に振った。
(俺は負けてない! 心底このウィッグに惚れ込んだんだ!)
偽りのない本心だった。
(胸を張れ拓海! お前は間違っていない!)
自身の気持ちを再認識すると、入魂するように両手で頬を強く叩いた。
「ボーン」
エレベーターの到着音で、目を丸くする。
ドアが開き、再び怖気づきそうになる。
深く息を吐き、その恐怖を無理矢理打ち消すかのごとく凄むような鬼気迫る表情でエレベーターから一歩踏み出した。
右を向き一気に足を進める。
あっという間に廊下の突き当たりにある自身の部屋前まで辿り着いた。
生唾を呑み込むと、思いを振り切るようにドアを開いた。
「ただいま!」
いつもより明るく強めの語調で呼び掛けた。
もう一度喉を鳴らし、慌て気味に靴を脱ぐ。
返事がないのが歯痒かったせいか、彼は急く様にリビングへと足を踏み入れた。
その屈んでいる小さな背中に向かって、もう一度声を張った。
「ただいま! 遅くなってごめん!」
髪を後ろに束ねエプロンをつけたままの彼女は、その語調の変化に全く気付かない様子で、首だけをこちらへ動かした。
「おかえり」
視線は合わせない。
拓海は、壁に掛けてある時計に目を遣った。
23時半を過ぎている。
あまりにウィッグに夢中になっていたため、連絡するのが帰る30分前だった。
明らかに機嫌が悪そうだ。
拓海は屈んだ状態の蒔絵を見つめながら問いかけた。
「……何してるの?」
彼女は丸くなった背を向けながら視線を床に落としたまま答えた。
「待つのもあれだったから、引っ越しの準備してた。二週間後には新居に移るでしょ? 早めにしておかないと」
その抑揚のない受け答えの中に、明らかに皮肉めいた感情が混じっている。
拓海は再び恐縮するように声を落とした。
「本当にごめん……。急な残業が入っちゃって……」
「残業? ……ふーん……」
関心なさそうに段ボールに食器などを入れていく姿を見て、拓海は顔を引き攣らせる。
「ごめん……せっかく作ってくれたのに冷めちゃったね……」
テーブルに並べられた夕食に目を遣ると、拓海の心の内からじわっと罪悪感が滲み出てきた。
明らかに手が込んだ料理で相当手間がかかったことは一目瞭然だ。
蒔絵はふと思い出したように腰を上げ、無表情に言い添えた。
「ああ、レンジでチンするね」
その淡々とした凄みに、思わず萎縮する。
(……やばい、このままだと……)
最悪の事態が思い浮かび、咄嗟に頭を横に振る。
(んなわけない! 大丈夫だ! そうだ! 俺には、このウィッグがあるじゃないか!)
自身に言い聞かせるように、両手で頭髪を整え直す。
(こっちを向いてくれ、蒔絵! 新しく生まれ変わった俺を見るんだ!)
「チーン」
レンジが終わり、彼女は扉を開けた。
手袋を付けるのが面倒くさいのか、素手のまま皿を手に取る。
熱さをやせ我慢するように無表情のまま、少し放り投げるようにそれを机の上に置いた。
その時だった。
部屋に帰ってから、初めてまともに彼女と目が合った。
(そっ、そうだ! 俺を見ろ! よぉく見るんだ!)
しかし蒔絵は呆気なく目を逸らし、次の皿を手に取った。
(………………あれ………………)
少し乱暴にレンジのドアが閉められ、その音で拓海は目を瞬かせる。
「チーン」
また扉を開け、次から次へと料理を投げやりな様子でぶち込んでは放り出す、を黙々と彼女は繰り返す。
全てを温め終え、
「あっつ……」
目を伏せながらふてぶてしく指を耳たびに当てると、蒔絵はエプロンを外してそこらへ雑に放り投げた。
その威迫に、拓海は一歩も動けない。
全く目を合わせず彼女は席に腰を下ろした。
茫然と立ち尽くしている拓海に気づいたように視線を上げた。
再び、拓海の心に希望が湧き起こる。
(よし! そうだ! 見るんだ!)
「…………どうしたの? 食べないの?」
にべもなく放たれたその冷淡な言葉に、拓海は豆鉄砲を食らったように目を白黒させる。
「あっ……ああ……ごめんごめん! もちろん食べるよ!」
慌ててスーツを脱ぎ、その場でネクタイを外し首元を緩める。
急いで椅子を引いたせいでギギーッと床に擦れるような不快音が鳴り、さらに二人の間に漂う気まずさに拍車をかけた。
張り詰めた空気を誤魔化すように、
「いただきます!」
必死に笑顔を作りながら両手を合わし、深々と頭を下げて箸を手に取った。
料理を口に運んだ瞬間だった。
どう見てもフライング気味だった。
「上手い!」
その瞬間、口から咀嚼物が飛沫し、対面している蒔絵の方に飛んだ。
彼女は反射的に顔を顰めながら身を引いた。
蒔絵の白けた上目遣いが、拓海の淡い期待を打ち砕いた。
一層険悪なムードが両者の間に漂った。
ムシャムシャと二人の咀嚼音だけが、卓上で聞こえ続ける。
お互い気まずさを塗りつぶすかのごとく箸のスピードが早まり、あれだけあった豪勢な料理も、あっという間に平らげられかけている。
その時だった。
「あのさ」
沈黙を破った蒔絵の言葉に、拓海は過敏に反応し顔を跳ね上げた。
蒔絵は相変わらず視線を伏せたまま、傍にあった紙ナプキンで口を拭う。
拓海は彼女の言葉を待った。
この一カ月間ほど仕事が忙しく帰るのが遅くなり、なかなかコミュニケーションを取るのもままならなかった。
それでも21時までは帰宅していた。
しかし、ここまで遅くなるのは初めてだった。
ふと思い返してみる。
この二週間ほど彼女の態度が少しずつ冷ややかになっているようにも心なしか感じる。
そうなっても不思議ではなかった。
ゆっくりと語り合う時間もなく、風呂に入って夕食を終えたら寝るだけ。
気づけば夜の営みも減っている。
ふと最悪の台詞が、拓海の頭をよぎった。
(……いや……まさか……いやいやいや! そんなわけがない……よな……?)
彼女が口内の残りを完全に咀嚼し終えるまで、固唾を呑んでその言葉をひたすら待つ。
(嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ! そんなの絶対に嫌だ!)
ビールの入ったグラスを手に取ると、食べたものを胃の中へ一気に流し込むように呑み干す。
それを少し叩きつけるようにテーブルに置くと、蒔絵はようやく開口した。
「次の日曜日、久しぶりに出かけない?」
完全に不意打ちを食らったかのごとく、拓海の表情が吃驚で固まる。
目を丸くしたままの彼に蒔絵は呼び掛けた。
「……ねぇ? 聞いてる?」
漸く我に返ったように刮目すると、
「ああ! そっ……、そそそ、そうだよな! しっしっ、しばらく仕事が忙しくて……デデッ……デートに行ってなかったからな! そそっ……そうかそうか! なーんだ、はははははは!」
そのぎこちなさ過ぎる返答に、能面のようだった蒔絵の表情がようやく綻んだ。
「……なーんだ? って何よ?」
彼女は少し不服そうに頬を膨らますと、拓海は慌てて弁明した。
「いやいやいや! 行こうよ、絶対! 俺も本当にめちゃくちゃ行きたい!」
その大げさすぎる返事に対し、素直に嬉しそうに蒔絵は可愛い笑顔を浮かべた。
「ドライブに連れてってよ。二人で久しぶりに海に行きたい」
その言葉に、拓海は口をすぼめながら瞠目を抑え切れない。
(……まっ……まっ……まっ……マジかよ……?)
そして、あらためて心の奥底から、その威力を実感した。
(……早速、カツラの効果出てるじゃん……)
『普段より、ほんのちょっとだけ魅力的に』
あのセールスマンが掲げたスローガンが、俄かに頭の中で反芻される。
相手には悟られず、無意識レベルでその魅力を訴えかける。
その効果を今身を持って、拓海は体感していた。
この二週間で離れ離れになりかけていた二人の距離が、一気に縮まるのをひしひしと肌で感じ取った。
(……これ……まさに魔法のカツラじゃん……)
拓海の頭の中から、今日一日自分の身に降りかかった事件や出来事が頭の中から一気に消し飛んだ。
それらの懸念と打って代わって、久々にムラムラと湧き起こる欲求を抑え切れず、思わずテーブル越しに蒔絵の手をそっと握りしめた。
それを心から喜ぶように、蒔絵は彼の手をさらに強く握り返した。
マンションの外で、その一室から漏れる明かりが薄くなったのを確認すると、スーツ姿の男は眼鏡のブリッジにそっと手を添えながら不敵な笑みを口元に浮かべ、その場から静かに立ち去った。