土壇場の本音
穂積の片手に握られたウィスキーグラスが止まった。
「……どういう意味だ?」
空いた店内にジョンコルトレーンのジャズが和やかに響く。
銀縁の細長眼鏡のブリッジを引き上げると、男は言い直すように口を開いた。
「仮に、の話ですよ。どうします?」
感情が読み取れない、その顔面に張り付いたような笑みをまじまじと見つめた後、穂積は脱力するように前に向き直った。
「……ふっ……」
再びグラスの氷を鳴らしながら、ウィスキーを口につけると彼は言った。
「今ここにナイフがあれば、迷わずそいつを刺してやりたいよ」
「それが親友だったとしても?」
立て続けに被せられた予想外の言葉に、再び穂積は顔を横に向けた。
酩酊が一気に引いたように、瞬きを繰り返す。
「……何だって?」
「そのセールスマンに彼を紹介してもらった」
ナイフを握りしめたまま、穂積は背後にいたスーツ姿の青年に目を遣った。
棒立ちのように直立したその姿はまるでアンドロイドのようだ。
「すぐさま証拠を炙り出してくれたよ」
そう言うと、穂積はおもむろにスマホの画面を拓海に向けた。
ズームアップされた画面を見て、思わず瞠目する。
これは……
どういうことだ……?
自分だ。
誰もいない休憩室で、周りを警戒しながらコーヒーカップに何かを入れている。
そそくさと自分が出て行った五分後、ドアが開き入って来た同僚が腰を掛け、書類を目にしながらそれを迷わず口にしたのがわかった。
「……言い訳しないのか?」
穂積の言葉で、拓海は我に返る。
彼はナイフを向けながら、こちらに一歩踏み出して来た。
咄嗟に、拓海は蒔絵を守るように両手を広げ前に立ちはだかった。
その行為が、さらに穂積の神経を逆撫でした。
「クズの癖に、恰好つけんじゃねぇ!」
崖の上で響き渡る怒号に、二人の足が竦み縮み上がる。
さらに彼の咆哮は続いた。
「他人を不幸にしておいて、自分だけ幸せになろうなんてそんな都合のいい話あってたまるか!」
その時だった。
突然、拓海は岩肌も気にせずその場で跪いた。
意外な同僚の行動に、穂積の動きが思わず止まる。
「すまなかった! 本当に酷い事をした!」
縋りつくような悲痛な声が裏返る。
「悪いのは全て俺だ! この通り、好きにしてくれ! ただ、蒔絵は関係ない! 彼女は何も知らないんだ! 報いは全て俺が受ける! だから、どうか頼む! 彼女だけは逃がしてくれ!」
無我夢中に岩肌に何度も額を擦りつける。
擦りむいてあからさまに血が出ているのも気に留めず。
その隣で、蒔絵は唖然と口を開けたままだ。
予想外の行為に、穂積もナイフを握ったまま呆気に取られている。
「……くっ……」
骨の髄まで卑怯者だと思っていた相手が土壇場になって見せた誠意ある態度に、彼の心が一瞬揺らいだその時だった。
「やりなさい」
前方から聞こえてきたその声に、拓海は擦りつけていた頭を思わず跳ね上げた。
すぐさま視界に入った光景に、思わず顔面が固まる。
穂積の背後から、ゆっくりとライフルを構えて近づいて来るその黒づくめの人物を見て、拓海は思わず声を漏らした。
「……ゆ……雪ちゃん……?」
その言葉に鋭く反応したかのように、隣の蒔絵が訳の分からない表情で目を泳がせる。
穂積は顔だけを後方に向けた。
額に汗を滲ませながら視線を合わせる。
ライフルを構えたまま、彼女は穂積のすぐ背後で立ち止まった。
そして、その白く透き通った表情を機械のごとく微塵も動かさずに言い放った。
「早く」
まるでその言葉に急き立てられるように、穂積はナイフを握り直した。
拓海は茫然と地面に両手をついたままだ。
(……ど、どういうことだ? ……穂積と、雪ちゃんが……知り合い?)
のっぴきならないこの状況にも関わらず、拓海は心の内で嫉妬が湧き起こるのを感じた。
懸命に呼吸を整えながら、穂積は両手で握ったナイフの刃先を跪いている拓海に再び向け直した。
拓海は息を呑んだ。
思わずあんなことを叫んだが、いざ死を目の前にすると恐怖で声も出ない自分に気づく。
躊躇いを必死に振り切るかのごとく、穂積は両腕を震わせながらナイフを拓海の頭上に振り翳した。
蒔絵の絶叫が風の中で轟いた。
拓海は漸く全てを受け入れるように、そっと両目を閉じた。




