逃走
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
彼は息を切らし、走っていた。
必死の形相で。
何度も背後を振り返りながら。
その瞬間、目を見開く。
上下黒い服を着たがっちりとした体格の男が、数十メートル向こうから近づいて来ている。
(……くそっ!)
彼は再び前に向き直り両腕を全力で振りながら、履いているスーツのズボンが破けるかと思うくらい足を思い切り前へ振り上げる。
周りは誰もいない深夜の並木道。
薄暗い外灯が、その人物を不気味に照らし出している。
(……一体、誰なんだ!)
瞬く間に、彼の頭の中で様々な疑念が湧き起こった―――
彼の名は川野拓海、26歳。
大卒4年目で、都内の商社企業に勤めるサラリーマンだ。
営業の仕事も順調で、もうすぐ結婚を控えていた。
相手は二つ年下の西門蒔絵。
得意先の事務員で顔見せを重ねていくうちに、親しくなった。
先方の社長も公認の関係で、婚約を発表し来月には式が決まっており、双方の社員へにも招待状は送ってあり、現在は同棲中だ。
忙しい中でも幸せ絶頂の彼に、突然異変が起きたのは、先週の月曜日からだった。
いつものように夜の7時過ぎまで残業し、帰宅の途についている時、ふと背後に人の気配を感じた。
もう夏がすぐそこまで来ている6月の最中に、黒い厚めのブルゾンを羽織っている人物が目に入った。下も黒いズボン。
体格からして明らかに男性であることはわかった。
少し怪訝に思ったが、疲れていた彼はさほど気にも留めずに前に向き直り、その日は何事もなく自宅に着いた。
しかし、次の日もいた。
その次の日も。
同じくらいの時間帯に。
あたかも彼を待っているかのごとく。
彼は少し怖くなり、タクシーを呼んで帰ることにした。
そこから二十分、都心から離れた住宅街で彼は降りた。
自宅のあるマンションを前にして安堵の吐息をつくと、時計を見る。
もうすでに21時を回っている。
(……やば……蒔絵のやつ、怒ってるかな……)
家で料理を作って待っているだろう彼女の事を気に掛け、オートロックの番号を押そうとしたその時だった。
ふと、背後に気配を感じ振り返った。
心臓が止まりそうになる。
なぜならば、帰りの公園で見たあの男がすぐ目の前に立っていたからだ。
身の危険を感じ、後じさりしたが遅かった。
すぐさま両肩を掴まれ引き寄せられたかと思うと、男は布のような物を口に押し付けてきた。
鼻を突く薬品の様な匂いに、彼は即座に身の危険を察知し全身の力を込めて男の足を踏みつけた。
俄かに肩から両手が離され、拓海は仰け反りながら尻餅をついた。
薬のせいか、頭が朦朧としかけながらも拓海は即座に起き上がった。すぐに頭に浮かんだのは、
(部屋の番号を知られたらまずい)
中にいるだろう婚約者の身の安全だった。
、拓海は、男に背を向けて一目散に駆け始めた。
(そ……そうだ、警察だ!)
走りながらも、彼はスーツのポケットからスマホを取り出し、110を押そうとした矢先だった。
思わず手を滑らし、カッ! と地面に叩きつけられる音とともにそれは落下した。
拾おうという考えが一瞬思い浮かんだが、その足音はすぐ背後まで迫っていた。
彼は携帯を残したまま、誰もいない薄暗い住宅街の道を駆け抜けた。
気づくと、周りは薄暗い木々が立ち並ぶ街路樹通りになっていた。
閑散とした中、二人だけの足音が響き渡る。
街路樹を抜け、右脇の細い道に入り込んだ。
前方を見ると、公衆トイレが目に入った。
ふと思いついたように、彼はそこには入らずに脇にあった木陰に身を隠した。
陰から顔を覗かせていると、あの男がやってきた。
男は迷いもせずに、公衆トイレへと入って行った。
その隙を見て逃げ出そうとした。
「……!」
足が……動かない。
どうやら、急な運動で攣ってしまったようだ。
(……くそっ! こんな時に、なんで!)
強引に動かしたところで、すぐに追いつかれるのは明白だった。
拓海は諦めて、その場で息を潜み続けることにした。
様子を伺っていると、中にはいないと気づいたのか、すぐ男が姿を現した。
足を止めてその場でキョロキョロと周囲を見回している。
ふと、こちらの方を向いた所で、男の動きが止まった。
即座に、顔を引っ込め木に背を張り付かせる。
(……まずい……)
必死に息を殺す。
徐々に足音が近づいて来るのがわかった。
万事休すか。
もはや、後にも先にも引けない状況にどうすることもできず、拓海はその場で思い切り目を瞑った。
「そこで、何をされているんですか?」
その声に思わず目を見開いた。
恐る恐る木陰から覗くと、その男の背後から警官の恰好をした男性がライトを照らしている。
「そちらは女子トイレですよ」
拓海は、はっと気づいたように脇を見る。
薄暗い中、僅かな光源に照らされた赤い女性用マークが目に入る。
男は思い直したように、足先を変え、警官に向き直った。
巡査は明らかに疑う態で男に対して言った。
「最近、盗撮の案件が多くてね……。まさかとは思うけど、ちょっと署まで同行していただいてよろしいですか?」
その言葉に男は押し黙るよう俯いて従おうとした。
次の瞬間だった。
眼前の警官を突き飛ばしたかと思うと、男はその場から逃げ出した。
「おい……! こら! 待ちなさい!」
不意を突かれた警官は慌てて、無線に口を当て応援を呼びながらもその男の後を追った。
陰でその一部始終を見ていた拓海はようやく解放されるように、木に凭れながら肩を落とした。
まともに歩く気力すら湧かず、ひとまず気持ちを落ち着かせるために男子トイレに足を踏み込む。
まだ気が休まらないのか。背後を伺いながら後じさるように個室に入り鍵を締めた。
「……ふぅ……」
あらためて危機が去った事を全身で感じ取る。
一気に力が抜け、額からドアに凭れかかった。
(……一体、俺が何をしたって言うんだ……?)
ふと、思い立ったように顏を上げる。
(……まさか、知らない所で俺は恨みを買っていたのか……?)
その瞬間、頭の中でいろんな人物が湧き上がって来た。
確かに自分は社長のお気に入りだ。
ただ、それは自身の努力ゆえに勝ち取ったものだ。
社内で自分の成績を羨む者……
(……いや、ひょっとして……)
安価なコストを求め、それまで付き合いがあったにも関わらずいとも簡単に切り捨てた下請け業者。
(……待て……)
元、カノとか……?
いや、それどころか……。
途端に自分の身が怖くなる。
学生時代イベントサークルに所属し調子に乗っていた、彼は見境なく遊んでいた。
一夜限りの女性の顔達が次々に浮かんでは消える。
(……今思えば、酷過ぎることを平気でやっていたな……)
考えれば考えるほど疑心暗鬼に陥り、彼はその場でいても立ってもいられなくなった。
「何か、お困りでしょうか?」
その声に思わずギョッとして振り返る。
心臓が飛び出そうになるとは、まさにこのことだろう。
全く気付かなかった。
眼前には、ものの見事なまでに髪を七三分けで固めたタイトなスーツ姿の男が立っていた。
彼はアタッシュ―ケースを左手に持ったまま、銀の縁がついたハームリムの眼鏡のブリッジを人差し指で上げ、この場には到底似つかわしくない爽やかな笑みを浮かべている。
驚きと恐怖で声を出せずその場に完全に凝固している拓海に対し、男は言い添えた。
「是非、お客様のお力になれれば光栄です」




