欠点ばかりのうちの兄さん
甲高いエンジンの音が響き、急激な加速をした後。
不意に訪れた浮遊感に、ようやく飛行機が離陸したかとほっと息を吐く。
悩んだ末に決めたとはいえ、これほど移動が面倒だとさすがに億劫だ。
特に、ある種病的なまでの日本とは違い、公共機関でさえ大らかなスケジュールで動いているこの国では、かなりの空白の時間を過ごすことも多い。
(……ただの杞憂で終わればいいのですが)
突如現れた警戒すべき相手。
そういったことを自分から話してこない性格であることを考慮して、頻繁に探りを入れてはいたものの、まさか安全圏だと判断した場所に伏兵がいたとは想定外だった。
ゼミ、サークル、バイト先など、参加するコミュニティの情報は粗方把握しているつもりだったのだが。
(なかなか、うまくはいかないものですね)
自分の目的を果たすため、これまでも色々と手は打たせて貰ってきた。
というより、ハルさんは放っておくと危険だ。
これだけアンテナを張り巡らせているというのに、気づくとどこかしらかで誰かを垂らしこんでいる。
それも、周囲への警戒感や拒絶感の強い、惚れられると強敵になってしまうような相手は、特に。
(……………………あともう少しだというのに)
高校生の頃。
勘当されてもおかしくないと思いながら両親に相談したハルさんとの一件は、双方の可能性を狭めないためにも、大学卒業後まで結論を待つということで話がついている。
だからこそ、私は決定的な一言をハルさんに伝えずにずっと我慢して来たし、同時に、他の女性に横取りされてしまわないようできる限りの時間稼ぎを行ってきた。
中学の時の上杉さん、高校の時の武田先輩。
これまでもそういった強敵との激闘を辛くも制してきたというのに、今さらぽっと出の相手に奪われるわけにはいかないのだ。
(……どこの誰とは存じませんが、退いて頂きますよ?)
最後に、勝つのは。ハルさんと添い遂げるのは私だ。
そのために、これまで努力を積み重ねてきたし、それなりの自負もある。
専業主夫を養ってもなお余りある圧倒的な経済力を手に入れるため、単身海を渡ってきたのもその一つであるように。
「ふっ……そう簡単に堕とせる相手ではないでしょうが」
とはいえ、あのハルさんが容易に堕ちるとは到底思えない。
部屋に入れたということでらしくないほど焦燥感を抱いてしまったものの、今思えばあの電話越しの普段通りの反応が、一線を越えていないということを証明してくれている。
その部分をあえて増長させてきた自分が言えたことではないが、本当に自分への好意に鈍感な人なのだ、あの人は。
(……………………まぁ、若干やり過ぎた感は否めませんね)
それほどまでに、上杉先輩と武田さんのアプローチは苛烈だった。
あれは確実に友愛的な意味だと、私自身がハルさんに言って聞かせる度に内心苦しいと思ってしまうほどに。
とはいえ、それをバカ正直に信じてしまうあの人もあの人だと何度も呆れさせられたが。
(……同情だけは、しておきましょうか)
きっと、その部屋に来たという何某は、いろんな覚悟や準備をしてきたに違いないのだ。
私自身、決定的な一言だけは言えないとはいえ、それでも無駄な期待をさせられてしまうことも多かった。
だからこそ、ある意味同類とも言えるはずのその人に若干同情する気持ちは否めない。
とはいえ、負けてあげるつもりはさらさらないので、あくまで一時の感情でしかないが。
「…………性格が悪いことは自覚しています。それでも、やっぱり私には、あの人しか考えられない」
不愛想で、素直じゃなくて、口が悪くて、性格すらも捻じれ曲がっている。
そんな私を受け入れてくれるのは、どこまでも懐の深いハルさんくらいしか想像ができない。
いや、もしかしたら、世界中を探せばどこかにはいるのかもしれないが、目の前に理想の相手がいるというのに探そうという気には到底なれなかった。
(私は、最初に当たりを引いてしまった。それも、時が経てば経つほどその確信の強まる当たりくじを)
今思い返してみれば、類を見ないほど棘のあった反抗期を、私達母娘だけで乗り切れたと言い切れる自信は正直ない。
というより、あのユルい二人がいつもニコニコと笑っていなければ、私達は家族という器すら保てていなかったに違いないのだ。
無理のし過ぎで亡くなったらしい実父のこともあって必要以上に心配する母と、心配をかけたくないからこそ性急な自立を目指す私。
どちらにも余裕がなくて、その上言葉で伝えるのも苦手で、あの時の私達は、些細なすれ違いを自分達の手で大事にしてしまっていたくらいだから。
◆◆◆◆◆
『ここにいたんだ。探したよ』
『…………獣道でも通ってきたのですか?』
『今回は特に難しかったからね。たまたま見つけた猫のおかげかな?』
『…………はぁ。どうして、兄さんはいつも私を見つけられるのでしょうね』
頭に血が昇り過ぎると、一人になれる場所を探す私を、何故だかハルさんはいつも見つけることができた。
本当にいつでも、どこにいても、何故だか。
別に、思い入れのある場所とか、ヒントを出したとか、そんなことでは一切無かったというのに。
まぁ、毎回葉っぱとか、木の枝が体につきっ放しになっていたのは、今思い返してもどうにも解せないことではあるけれど。
『言ったろ。僕はギャラクティックお兄ちゃんだって』
『……以前は、スーパーと言っていた気がしますが』
『そうだっけ?じゃあ、スーパーお兄ちゃんで』
『……………………………………………………』
そして、沈黙を続ける私の横に、そっと座り込むのだ。
何をするでもなく、私が帰ると言い出すまでずっと。
『…………叱りに来たのではないのですか?あれはさすがに言い過ぎだと』
『ううん。反省してる妹に、叱ったって仕方がないでしょ?』
『……そう、見えると?』
『うん。雫は、優しい子だからね』
『…………一度、眼科に行ったほうがいいんじゃないですか?』
『そう? 視力検査だと毎回褒められるけど』
『……………………もう、いいです。ですが、叱るのでないなら何をしに来たんです?』
『ただ、心配になっただけ。もう、暗くなるしね』
『……………………………………………………』
どれだけ邪険にしても変わらず、のほほんとした顔で居続けたからだろう。
最初は、話しかけることさえしなかった私も、いつしか、ハルさんを受け入れるようになり始め、やがて、隣にいてくれることが当たり前だとまで感じるようになっていった。
『……ねぇ、兄さん』
『なに?』
『…………結局、ダメな所を直せなければ意味がないとは思いませんか?私のそれは、反省ではなく後悔でしかありません』
頭ではわかっていることが、どうしてかできない。
他の事は大抵何でもできるのに、自分が大事だと思っている相手への接し方だけは、理性よりも感情が勝ってしまって、何故か。
昔から、直そうと努力をしてはきたけれど。
『そうかな? 僕は、全部直さなくてもいいと思うよ』
『……………………欠点は、直さなければいけません』
『でも、直せないんでしょ? なら、仕方ないよ。それに、雫は、他にいいところがたくさんあるからね。それでもう十分だと思う』
『…………………………そんなことで、いいのでしょうか』
『いいさ、きっと。というより、そうじゃなきゃ欠点ばかりの僕の立つ瀬がないと思わない?』
『ふっ、ふふ……そう、かもしれませんね。兄さんは、本当に手の施しようがありませんから』
大雑把で、ずぼらで、マイペース。
昔からそんな人で、何を言っても変わりようがない。
それでも、いつも穏やかで、どうしたら怒るんだろうかというくらいに懐の深いハルさんの隣は、やっぱり居心地がよくて、そんなことどうでもいいと思わせられてしまう。
そして、だからこそ惹かれたのだろう。
周りを傷つけてばかりいる私とは違って、笑顔にさせてくれるその人に、自分にはない魅力を感じて。
『ねぇ、ハルさん?』
『なに?』
『…………私、最近思ったんです。貴方とずっと一緒にいたいって』
『え?一緒にいればいいじゃん。家族なんだから』
『…………それでも、今のままでは、私達はいつか家を出ていくことになります。それも、遠くない未来に』
『んー、と。つまり、僕に自宅警備員になれってこと?』
『ふふっ。それなら、まだハムスターの方が遥かにマシでしょうね』
『なら、仕方がない。ひまわりの種をこっそり抜いて競合を出し抜くとしようかな』
『ふっ、ふふっ。何の問題の解決にもなっていませんが』
◆◆◆◆◆
それは、在りし日の記憶であり、私の旅路の始まりだ。
喩え、どんな苦難が立ち塞がろうと、叩き潰してでも進むと決めた、夢までの。
(…………ハルさん。貴方は、ただ私の側にいてくれれば、それでいい)
何もしなくても、何もできなくてもいいのだ。
ハルさんには、私には無い、良いところがたくさんあるから。
むしろ、二人で足して、助け合えるくらいがちょうどいいとすら思っている。
「………………海を渡っても、私の力は通用した。もう、ゴールは見え始めているんです」
始めて会った日、私とハルさんは他人からキョウダイになった。
なら、その呼び名が違う名前になったとしても別に問題はないはずだ。
だから、私は自分の信念に従って前へと突き進む。
誰に文句を言われようが、鼻で笑い返せるくらいの、そんな力を手に入れながら。