閑話:噂が真実になった日
「ひくっ、あ、ああっ、……大嫌い……っ」
小さい頃、お互いの気持ちは確かに繋がっていた。大好きだと言えば、はにかみながらも「僕もだよ」と笑ってくれた大好きなノアールは、もう何処にもいないのかもしれない。
前触れもなく突然嫌われた。駄目なところがあるなら治すと、どこが駄目なのと沢山聞いた。大好きな婚約者が返した言葉はない。言葉の代わりに冷たい瞳で睨まれ続けた。何度も心が折れかけるも、きっと昔のようにまた戻れると信じていた。
……それも、もう、終わりに近くなった。
今日は魔王城勤務者を労わるお菓子パーティーが庭園で開かれた。参加者は勤務をしている者限定だが、同伴者を一人だけ連れて来て良い規則となっている。リシェルは父リゼルが魔王の補佐官を務めているので参加することに。
同い年の令嬢達より、勤務者の顔見知りが多い。妃教育を受けに幼い頃から魔王城に通っているリシェルの許へ、度々城に仕える人達が助けを求めに来るからだ。主にリゼルの魔王エルネストへの接し方を優しくしてあげてほしいという。困っている彼等の為にリシェルは親切心から父にお願いするも、後にリシェルへのお願いは無くしてほしいというものに変わった。お願いをした次の日、大抵役人達が廊下に倒れているのを何度か見掛けた。あれのせいだろうか。
パーティー開始直後はリゼルと人間界で修行をした菓子職人の新作を楽しんでいた。特にケーキが大好きなリシェルは見ただけで美味しいと解せるケーキをリゼルと半分こにした。そうすれば多種類を食べられるから。
「美味しい! ねえパパ、帰ったら味をベルンシュタインの料理長に伝えて作ってもらいましょう」
「いいよリシェル。俺が味を記憶しておくから、作ってほしいケーキを言って」
「うん!」
全種類と我儘を言いたいが料理長やリゼルを困らせる。特に気に入ったケーキを慎重に決めよう。
「ベルンシュタイン卿」
「……なんだ」
遠慮がちに声を掛けてきたのはアメティスタ家の当主。昔からリゼルに突っ掛かって来ては腰を抜かすか半殺しの目に遭う男。リシェルは彼が苦手だった。父を敵視しているから、というのもあるが一番は彼の娘がリシェルの婚約者と恋人になったからだ。二人が一緒にいる場面はまだ見ていない。噂程度だが、にしては登城したら毎日聞く。屋敷ではリシェルに気遣って誰も耳に入らないようにしてくれる。
機嫌が急降下した声、重苦しい殺気、相手を圧倒する魔力。三つの圧を真正面から食らわされた男は早速腰を抜かし、真っ青な顔をしながら待てと手を前に出す。
「ま、待ってくれ、私はまだ何も……!」
「可愛いリシェルとの楽しい時間をお前なんぞに邪魔された不愉快な気持ち、お前にも知ってほしくてな」
更に魔力と殺気が増す。陸に打ち上げられた魚よろしくの口の開閉具合。使用人が数人飛んで来ると当主の手足をそれぞれ持って会場を後にした。固唾を呑んで見守っていた周囲は何も起こらなくてホッとする。
「何しに来たのかな?」
「さあな。リシェル、あんなのは放っておいて楽しい時間を過ごそう」
「うん、パパ」
一つ気掛かりがありながらもリゼルの言葉に頷く。
このお菓子パーティーに次期魔王であり、婚約者のノアールがいないのだ。
魔王は開催の挨拶が済むと城内に戻って行った。自分がいては気を遣うだろうからと。執務室にはベリーパイを大量に持って行かせたとリゼルが教えてくれたので、パーティーのお菓子は食べている筈。
イチゴとチョコレートのタルトを選んだ時だった。会場のざわつきが強くなった。
リゼルが一旦エルネストのいる執務室へ行ってくると離れた直後の事。スイーツ皿にタルトを乗せて視線を探った。皆が向いている方へ目をやってスイーツ皿を落としてしまった。
皆、気にした様にリシェルを見てくる。
ただの噂だと信じたかった。
自分の気持ちが何時かまた、届くと信じていた。
「ああ、此処にいたのかリシェル」
大好きな婚約者が噂の恋人を腕に付けてリシェルの前へ来た。
純白の髪に紫水晶の瞳、たおやかな声でノアールを殿下と呼ぶ女性はビアンカ=アメティスタ。さっき、絡んできた理由が不明なまま使用人達に連れて行かれたアメティスタ家当主の娘。深い青の綺麗に体を魅せるドレスを着たビアンカは固まって動けないリシェルへ優越感に浸った眼で見下してくる。身長の差からそうなっているだけだとしても。
「ご機嫌ようリシェル様。あら、お一人ですの? ごめんなさいねえ、わたくしが殿下といるからリシェル様を独りぼっちにしてしまって」
明らかにリシェルを馬鹿にした物言い。
ふらりとなりそうな心と体を叱咤し、精一杯の声を絞り出した。
「……殿下……、何故、ビアンカ様と」
「おれが誰といようが勝手だろう。お前に指図をされる筋合いはない」
この続きが言えない。だとしても、リシェルという婚約者がいる身でありながら浮気をするのはどういうつもりなのだと問い質したいのに。
「!!」
体の震えが止まらない。ただ、涙だけは決して流さない。
逃げたくて仕方ない。ただ逃げるだけなのは嫌だ。二人を喜ばせるだけ。
声を出したら、体の震えが伝染してしまう。
リシェルの足が大きな一歩を踏み出した。手を伸ばせばノアールに触れられる距離。手を振り上げたリシェルは勢いそのままにノアールの頬を力一杯打った。
一瞬にして会場を静かにさせた乾いた音。目をギョッとさせる悪魔達。
頬を赤く染め、呆然とするノアールと青褪めて口を開閉させるビアンカ。
皆が我に返る前にリシェルは会場を逃げ出した。幼い頃からほぼ毎日登城しているから、人気のない場所は幾らでも知っている。
大きな木の後ろに隠れると人払いの結界を貼って声を上げて泣いた。声も涙も止まらない。心が悲鳴を上げている。助けて、誰か助けて、と。噂が遂に真実となってリシェルの前に現れた。別の噂では二人はキスまでしているとか。キスどころか、手を繋いだことも、デートをしたこともない。婚約者のリシェルとは出来なくて恋人のビアンカとは出来る。
大好きなのに。
大好きだから魔王の妻になる教育を頑張り続けたのに。
嫌いになった理由を話してくれない。
会っても話を聞いてくれない、睨まれ続けるだけ。
贈り物もなくなった。誕生日にだって何もなくなった。メッセージカードすらない。
「リシェル」
優しい労わる声がリシェルを呼ぶ。人払いの結界を貼ったのに。自分を見つけてくれたのは父リゼルだった。痛々しい面差しが揺れる視界に入る。
「ぱ、ぱ……」
「……帰ろうリシェル。屋敷に帰ったら、今日食べたケーキの再現をしよう」
「う、ん。するっ、一杯食べる」
「ああ。俺が運んであげよう」
軽々とリゼルに横抱きにされ、腕を首に回した。愛用の香水の香りを沢山吸い込み、首に顔を埋めた。どうして此処が分かったのか、とか、会場はどうなった、とか。リシェルには気にする気力がもうない。
額にキスを落とされた。そこから温かい魔力を流され、あっという間にリシェルは眠りに就いた。
「おやすみリシェル。大馬鹿共の事は一切気にしなくて良い」
――眠ったリシェルを横抱きにしたリゼルが会場に戻ると、先程散々痛め付けたノアールが血だらけで行く手を阻んだ。一緒にいたビアンカも同じ目に遭わせようとしたが、連れて行かれた筈の当主が戻って来たので代わりに受けさせた。失神している。腰を抜かし真っ青な顔で見上げてくる姿がそっくりで嗤ってしまった。
「退け、邪魔だ」
「待てっ、リシェルは――!?」
「お前にリシェルの名を呼ぶ資格はない」
リシェルの名を口にしたノアールへ呪文も唱えず、素振りすら見せず、肉体に痛みだけを与えた。悲鳴を上げ、床に転がるノアールに目もくれず、報せを聞いて大慌てで駆け付けたエルネストに後始末を頼んだ。
「俺はリシェルを連れて帰る。後はお前がやれ」
「ノアール!? 一体何を考えているんだ!」
「アメティスタ家の娘と仲良くよろしくやっていたのは知っている。今すぐ、そこのノアール有責で婚約破棄だエルネスト」
「ま、待ってリゼルくん! ノアールには僕から言い聞かせておくから!」
重く鋭い殺気の込めた眼でエルネストを睨み黙らせ、痛め付けられても未だ何かを言いたいらしいノアールと敵意を向けるビアンカへ痛みを与えた。甲高い悲鳴を上げる二人とリゼルへ忙しなく目をやるエルネストを置き、転移魔法で屋敷に戻った。
執事長にリシェルを託すと踵を返した。
「リシェルが目覚めたら、気持ちを落ち着かせるハーブティーを飲ませてやってくれ。それとハーブティーにノアールへの好意を消す薬を少量混ぜてくれ。これから毎日、同じ量をリシェルの飲み物に入れてほしい」
「良いのですか? お嬢様は殿下を」
「構わない。あのノアールはリシェルには不要だ」
いきなり大量の薬を与えればリシェルの心が壊れてしまう。本人が気付かない極少量を毎日飲ませれば、徐々にノアールへの大きな好意は小さくなっていく。
幼い頃は良好だった関係が今のようになった理由をリゼルもエルネストも知らない。エルネストは何度もノアールに問い質すが答えようとしなかったとか。
理由がどうであれ、子供のように泣いていたリシェルの心を傷付けたノアールを許すつもりは毛頭ない。
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