銀髪の男性ネロ
次の滞在先に選んだ街は、先にリゼルが語っていた通り観光業が盛んでお祭りでもないのに大勢の人で賑わいを見せていた。自然に囲まれているからか、風と共に運ばれる甘い香りは街を囲む森林から来ているようだ。いくつかの湖も観光の名所で、その内最も透明度が高い方へ行こうとリゼルに誘われた。
先ずは宿を取った。最初の街と一緒で最高級の宿で一番高い部屋。何日滞在するか分からないので取り合えず七日分と合わせて多目に渡した。貴族がお忍びで旅行にでも来たと解釈してくれたらしく、おすすめの観光名所や美味しい食事場所を教えてもらえた。
透明度の高い湖へは専用の馬車があるらしい。転移魔法を使えばあっという間に着くがどうするかとリゼルに問われた。折角だから、景色を楽しみながら行こうと馬車を選んだ。
「リシェル、人が多いから俺と手を繋ごう」
「もう、私はパパが思うほど子供じゃないわ」
「そう言うな。逸れたらいけない」
「ふふ、分かった」
父にとったら、自分は何歳になっても小さい子供。差し出された手を握って外へ出た。こうして歩く自分と父は、周りからどう見えるのだろう。
まあ、同じ髪と瞳の色をしているから親子だと思われるのが普通か。
周囲には個人だけではなく、家族連れや恋人同士が多くいる。最初の街の時でもそうだが仲睦まじい恋人同士を見ると羨ましく感じる。昨日突然の来訪をかましたノアールとは、あれで絶縁が成立したと言える。
リシェルの口からきちんと絶縁を言い渡したとは言えないが、自分のことは棚に上げて責めてきたノアールがどうしても許せなかった。
街の広場に出て、馬車の待合場に行き。目的地の湖へ行く馬車の行列に並んだ。
「多いね」
「これだけ多いなら、やはり一気に飛ぶか」
「これはこれで楽しいわ。私、待つのは得意だよ」
待っていたら、ノアールもいつか目を覚まして戻って来てくれると信じていたから。
「……いや、やっぱり一気に行く」
「え」
どうして、と言う前にリゼルに腰を抱かれ、あっという間に湖へ転移した。景色がガラリと変わった。建物が多く並んだ街並みから、豊かな自然に覆われた美しい湖へ光景が変わった。
唐突なリゼルの行動に疑問を呈する前に、湖の美しさに目を奪われたリシェルは興奮気味に近付いて行った。背後から「リシェル、あまり近付き過ぎるな」と飛んでくるが、陽光が反射され煌めき、泳ぐ魚や底が鮮明に見えてしまう程の透明度の高い湖を見たことがなかった。湖のギリギリまで近付いて、地面に膝をついて中を覗き込む。魚達はリシェルが顔を出すと逃げていった。遠くへ行った魚の姿がまだ見える。
「他には何が泳いでいるの?」
魚以外の生き物はいないかと体を前へ突き出し視線を泳がせたら……
「うわっ!?」
手を滑らせて体が湖へ傾く。
落ちる! ――目を瞑って水の衝撃に備えた。
…………。
じっと待っても水の衝撃は来ない。どころか、動かない。お腹が何かに拘束されており、そっと瞼を開けた。下を見ると白い服を着た誰かの腕が回っていた。視界の端に銀色が揺れた。
「……大丈夫? 怪我はない?」
「え……ええ。ありがとう」
「リシェル」
リシェルを助けてくれたのは銀髪の男性だった。純銀の髪と同様の瞳が心配そうにリシェルを見つめ、魔界でもそうそう見ない美貌に言葉を失うも、努めて平静を装ったリシェルは返事だけは出せた。男性に腕を離してもらい、駆け付けたリゼルの許へ戻った。
「近付きすぎるなと言っただろう」
「ごめんなさい。あまりにも綺麗だったから」
「やれやれ。まあ、無事ならいい。
……それで」
お前はどうして此処に?
安堵した感情から一転、怜悧な金色がリシェルを助けた男性へ注がれる。助けてくれた人だと説明したら「知ってる」と返され、リゼルの後ろに隠された。
(パパの知り合い? ということは、この人も魔族なのね)
「悪魔狩りは終わったんだ。大した手柄も立てられなかったと大天使に情けない姿を晒せばいいものを」
「ははは。リゼ君は毒舌だね、昔から。あまり下級天使達を虐めないであげて。悪魔狩りはいわば子供のテストのようなもの。成績アップには君達悪魔を狩る以外の道はない」
「他の悪魔がどうなろうが俺には関係がない。好きにしろ」
「やっぱり面白いねリゼ君。私君が好きかも」
「やめろ、気色悪い」
「冗談だよ」
……聞いて良いのか、いけなのか。話を聞いている限り、男性は悪魔じゃない。こうやって普通に接していたら駄目な相手な気がしてきた。純銀の好奇心に溢れた瞳がリゼルの後ろに隠されたリシェルを捉えた。びくっと肩を跳ねると眉尻を下げられた。
「そう怯えないで。怖がらせたい訳じゃない」
「いるだけで迷惑だ。さっさと消えろ」
「酷いな。君の娘が湖から落ちそうになったのを助けてあげたのに」
「誰が頼んだ」
「君は昔からそうだよね~。そんな性格でも、今の魔王に泣き付かれて補佐官をしてあげるんだから優しいんだかそうじゃないんだか」
「あいつがあまりにもしつこいからだ」
「ははは、そっかそっか。でも、君に唯一物申せる魔族は魔王だけだろう? 泣きながらだけど」
リゼルだけではなく、エルネストについても詳しそうな男性。一体誰なのか、パパ、と口を開き掛けたら男性がリシェルに微笑んだ。
「そうだ、自己紹介がまだだったね」
「いらん」
「リゼ君じゃない、君の娘にだよ。
――初めまして、だね、リシェル=ベルンシュタイン嬢。私は……ネロと呼んでおくれ」
「誰だその名前」
「うるさいよリゼ君。私の本名を知られると厄介だ」
「魔界の住民全員がお前の名前を知ると思うな」
「え? そうなの?」
「ネルヴァって知ってる?」と男性に訊かれ首を振った。魔界の貴族名簿にない名前。周囲にもネルヴァという男性はいない。些かショックを受けた男性へ「聞くが魔王の名前を下級天使共は知っているか?」リゼルは問う。すぐに復活し、知らない、と答えた。
「そういうことだ」
「あの、パパ。この人天使なの?」
「そうだよ。俺の古い知り合いだ」
「え……」
天使の知り合いがいたのには驚きだが、古いと言われて驚きは倍増である。リシェルは成人を迎えてまだ間もないが、リゼルの年齢は既に数百は超えている。きちんとした年齢は家令が記録してある。魔界に戻ったら聞こう。
気安い態度でリゼルに語りかける男性の正体が天使なのはいいが、ただの天使ではない気がする。
「天使と魔族が知り合い……」
遠い昔から敵対関係にある種族が知り合い……。長く生きていれば、顔見知りくらいは出来るだろうが、親し気? に会話があるのはどうなのだろう。父はともかく、男性の方はとても親し気に話しかけている。
「ところで、魔王の補佐官殿が愛娘を連れて人間界にいるなんて。よく許したね、あの魔王様は」
「ああ、毎日毎日泣き言ばかり言う情けないあいつの尻拭いをしてきた俺への感謝として、長期休暇をくれたんだ」
魔王城のあちこちを破壊して無理矢理捥ぎ取った長期休暇だ。魔王だけでなく、周囲も泣いただろう。現に泣き言の通信蝶が度々送られてきている。今朝も届いていた。昨日と違って魔王城に勤めている文官からの連絡である。
自慢げに語るリゼルを「……絶対嘘だ」と遠い所へ同情の眼を向けた男性は、やがて大きく伸びをした。
「う、ん~。この街にはしばらくいるの?」
「お前といると分かった今長居は無用だ」
「つれないなあ。ここは大陸有数の街なんだよ? 人間界へ折角来たのなら、しっかり楽しんで行きなよ。私もリゼ君がいると楽しいし」
「知るか。ならさっさと消えろ」
しっしっと手で追い払われても男性はめげない。リシェルにバイバイ、と手を振ると姿を消した。
うるさいのがいなくなったとリゼルは湖の近くに座り込んだ。リシェルは下にハンカチを敷いて隣に座った。
「パパ、あの人……えっと、ネロさん? ネルヴァさん?」
「ネロでいい」
「う、うん。ネロさんって本当に天使なの?」
「信じられないかもしれんが正真正銘あいつは天使だ。並の天使じゃないことだけは言っておいてやる」
父だけではなく、エルネストについても詳しく知っていそうなネロ。天使の中でも上位の階級に属するよう。
「あいつは忘れてこの後はどうする?」
「湖に入ってみたい」
「リシェル。底が見えているからと言っても、この湖の水深は深いうえ、法律で入水は禁じられている。常に警備兵が目を光らせ、入ろうとする者を見つけ次第処罰している」
「そうだったんだ……」
知らなかったとはいえ、法律を犯してまで入ろうとはしない。人間界について全然詳しくないリシェル一人だったら、あっという間に騒動を起こしてゆっくり旅行どころじゃなくなる。
「入水を禁じているのは湖の環境を守るため?」
「そうだ。この湖にしか生息していない貴重な生き物が数多くいるし、周囲に住む動物達の飲み水としても湖は利用されている。人間が入って雑菌を持ち込んだら生き物にどんな影響を与えるか」
言い方は酷いが頷ける理由。あそこを見てごらん、とリゼルに示された方向には丁度水を飲みに艶々とした毛並みの鹿の親子が現れた。
「動物狩りも当然禁じられている。密猟者は見つかり次第切り捨てられる」
「自然を大事にしている国なのね」
「他国からの観光客も積極的に受け入れているからな。良からぬ事を企てる輩は多くいる。さて、もう少ししたら昼を食べよう。何か希望はあるか?」
「だったら、街の名物があれば食べてみたい。何かある?」
「確かこの街はスイーツが多くあったはずだ」
「まあ! 甘い物は大歓迎。早速行きましょう」
「おやおや、リシェルは食いしん坊だね」
「誰だって美味しい物は好きよ」
「違いない」
急かすリシェルにやれやれと苦笑しつつ、転移魔法で街へ移動をした。スイーツ店が多くあるエリアへ足を運んだ。あちこちから漂う甘い香りがリシェルの期待を高め、どの店にしようかと迷わせる。人が多く並んでいる店は人気の理由の一つとして目安にし、長すぎる行列は避けつつ、程々に多く列が成している店の前に並んだ。
「ここは何が作られているのかしら」
「この店ではサンドイッチがメインに売られているよ」
「!」
リゼルに聞いたのに、答えたのは別人の声。後ろを見ると先程姿を消したネロがいた。瞬時に苛立たし気に顔を顰めたリゼルの肩に腕を置いた。
「まあまあ、機嫌を悪くしないでよリゼ君。私も混ぜて」
「消えろ今すぐに独り者」
「ひど! 私好きで独身って訳じゃないのに……!」
「理想が高いせいだろう」
「それもひど! 高くないよ。立場的に難しいだけで」
「次のお客様、何名様でしょうか」
二人と言い掛けたリゼルの声を遮り、三人と言い切ったネロの方を取られ三名で店内へ案内されてしまう。
ご機嫌斜めな態度をネロへ全てぶつけるリゼル。
これがエルネストなら困り果てていそうだが、ネロは平然とメニューを開きリゼルに見せている。
そこへ魔界の通信蝶がリゼルの許へやってくる。
「パパ、出てあげて」
「出たらお前を一人にしてしまう」
「私いるよ?」とネロ。
「お前がいるから出られないんだ」とリゼル。
ネロが天使でも、リゼルを知っているならリシェルに手は出してこない筈。
「パパ気にしないで。何かあったら、すぐにパパを呼ぶから」
「……分かった」
渋々席を立つ際、ネロに一際強力な眼力をやった後、通信蝶を連れて外へ出て行った。
「ははは。信用されてないね私。リシェル嬢、君はどれにする?」
そう言われメニュー表を見せられた。サンドイッチがメインと言うだけあり、多種類のサンドイッチが載ってある。定番は玉子サンド。他にはハムサンド、フルーツサンド、チキンサンド等もある。ボリュームがあるサンドイッチも食べたいがフルーツサンドも捨て難い。自分のお腹と相談しているとネロが提案をした。
「どれにするか迷っているなら、私と半分こする?」
「え?」
「それだったら、君の好きなのを食べられるだろう?」
「ネロさんはいいの?」
「こう見えてよく食べる方だからね。遠慮せず、頼みなさい」
お言葉に甘えて食べたいサンドイッチを選んでいく。先に飲み物だけ頼み、サンドイッチはリゼルが戻ってからの注文にした。
「ネロさんは本当に天使なの?」
「そうだよ。悪魔と天使が殺し合わないのを不思議がってるでしょう?」
「は、はい」
「私が特別変わってるだけで、普通の天使は悪魔を見たらすぐに攻撃してくるから間違えちゃいけないよ? リゼ君とは子供の時に出会ってね。その時、今の魔王も側にいたんだ」
出会った経緯はまた何れ、と教えられなかった。気になってしまう。食事時にする話じゃないからと別の話題にしようと変えられた。
「それにしても、急に人間界に来るなんて。リゼ君の長期休暇をあの魔王が簡単に許すとはとても思えない」
「私を気遣ってのことです」
「君を? 何かあったの? 私は天使だけどリゼ君の敵じゃない。話くらいなら聞いてあげられる」
次期魔王である王太子に婚約破棄されたショックで傷心旅行をしていると正直に語っても……と過るも、別の誰かに話を聞いてもらって意見を知りたい。相手が天使でも。
ポツリ、ポツリと人間界に来た理由を話した。途中、飲み物が届いても手を付けずリシェルが語り終えるまでネロは黙って耳を傾けた。
話を終えたリシェルは冷たい紅茶に手を伸ばした。乾いた口内に冷たい紅茶は潤いを齎してくれた。ネロも飲み物に手を伸ばしていた。彼はホットミルク。数口飲んだ後、苦笑を零した。
「魔力至上主義な魔界じゃ、珍しくはないね」
「天界の婚約事情は魔界と違いますか?」
「いや、変わらないよ。天界も強い力を持つ者同士を結ばせる傾向にある。より力の強い者が生まれれば、悪魔の脅威となるからね」
「なるほど」
「ただ、ねえ。君の婚約者……元婚約者か。やり方を間違えたね」
ホットミルクのカップをテーブルに置き、椅子の背に凭れたネロの純銀の瞳がリシェルへ逸らされず、肩を竦め見せた。
「きっちりと根回しをし、リゼ君を納得させられるだけの理由を作って婚約破棄をしたら、少なくともリゼ君が強行突破をして長期休暇をする理由にはならなかった。魔力が君より多いからと一方的な理由で婚約破棄をし、挙句、その前から不誠実な行動を取るなんて王子様の落ち度しかない」
「……」
初めて会った父の知り合いの天使にノアールが悪いと正論を紡がれて固まってしまう。周囲はノアールに嫌われ、憎まれ、リゼルの娘という価値観でしかリシェルを見てなかった。お陰でノアールとビアンカが二人仲良く公の場に現れた時は大変だった。心が折れかけるもリゼルの有無を言わせぬ圧倒的殺気と威圧でリシェルを嘲笑った魔族全員が暫く悪夢に魘される羽目に陥った。
瞬きをしたら頬から何かが落ちた。触ってみると濡れていた。ネロの純銀の瞳が微かに見開いていた。
「ご、ごめんなさい。殿下を取られた私に魅力がないとか、魔力が少ないからとかしか言われてこなかったので……」
「そう……なんだ」
初対面の男性の前で泣いてしまうなんて、と恥ずかしさから顔を上げられない。リゼルが戻ったら違う意味で修羅場になるから、早く止まってほしい。
「目を擦ると痛いよ?」とネロがハンカチを差し出した。うさぎの刺繍がされた可愛い白いハンカチだった。ハンカチを受け取って涙を拭いていく。
「ありがとうございます」
「泣いている令嬢にハンカチを差し出さない男はいないよ。……しかし、魔界の王太子と婚約者の事情がそんなことになっているなんてね」
「あ……ごめんなさい。とても個人的な話で」
「聞きたがったのは私だから気にしないで。……そうだ。リシェル嬢。君と王子様の婚約は破棄されたんだよね? じゃあ、君は今誰も婚約者がいない状態だ?」
「そう、なります」
にこりと笑んだネロが姿勢を正してまっすぐと見つめてくる。
天使だからか、その笑みは輝き過ぎてリシェルには眩し過ぎる。
「私と恋をしてみない?」
…………。
「え……?」
読んでいただきありがとうございます。