ノアール、来る
旅行四日目――。
【収穫祭】も今日で終わり。最終日とあってか、人が多い。食べ物も花観賞も存分に楽しんだ。
屋敷の使用人や友人達へのお土産を沢山購入し、その都度魔界に転送している。
四日連続快晴で気持ちもスッキリとしている。今はカフェでのんびりとお茶を楽しんでいる。
リゼルがリシェルの好きなケーキを取って来ると一旦席を立った。自分で行くと言っても「俺の楽しみなんだ、取らないでおくれ」と言われれば待つしかなく。娘にとことん甘い父の楽しみをどうして奪えようか。
どんなケーキが来るか待つ間、そろそろお茶のお代わりが欲しくなった。呼び鈴を持ち上げた時、リシェルの周囲が薄暗くなった。
正確には側に人が来たからだった。
誰かと見上げて声を失った。
「……リシェル」
魔界の至高である黒い髪と今紫の瞳。長い間追い掛け続けてきたリシェルが見間違えるのは絶対にない。不可視の魔法でも掛けているのか、店内を歩く給仕も他の客も誰も彼を認識していない。
彼――ノアールの腕が伸びてくる。ハッとなったリシェルは「パパ!」と叫ぶ。周囲の視線は気にしていられない。
呼び鈴を持ったまま席から離れる寸前、後ろから口を塞がれお腹に手を回された。そのまま引き寄せられ、抜け出そうともがくリシェルを感情の籠っていない今紫の瞳が見下ろしてくる。
何故、人間界にノアールがいる? どうやって居場所を? 今更リシェルの前に姿を現した理由は何なのか。
思い当たるのは婚約時代貰った贈り物の返却。やはり、プライドの高い彼を刺激してしまった。人間界へ来てまで報復をしに来たのかと戦慄した。
魔法を使いたくても、人間界へは極力魔法を使わないようにとリゼルと約束をした。魔族の魔力を感知して天使がやってくる可能性が否めない。
「誰の許可を得てリシェルに触っている」周囲の空気が一層重くなった直後、地の底から這うような恐ろしい低音が耳に響いた。べちゃりという音と共にノアールの拘束が緩んだ。すぐにノアールから離れたリシェルは「こっちにおいで」と誘うリゼルの声に従った。ケーキが飾られているガラス窓の側に立っていたリゼルを見つけると飛び付いた。
突然の行動に動じず、しっかりと受け止めてくれた。優しく頭を撫でられる感覚が不安を消し去った。
「何をしに来た」
再びリゼルが声を発し、向けられているノアールを見やった。至高の黒髪には真っ白なクリームが。さっきの音はクリームを投げつけられた音だったのか。床に苺とスポンジが無残に散らばっているのを見て、リシェルを助けるべく苺ケーキを投げたのだと知った。頭がクリーム塗れになったまま剣呑な今紫の瞳がリゼルへ一心に放たれている。
「リシェルを連れ戻しに来た」
「お前とリシェルの婚約は破棄された。お前の手によってな」
「っ。……貴方の望みでもあっただろう」
「否定はしない。だが、俺の最優先はリシェル。リシェルが嫌がる事を俺は絶対にしない。……まあ……お前とエルネストは違うみたいだがな」
「っ」
周囲が不気味な程静かだ。二人の声に耳を傾けながらも、周囲を観察した。
リシェル、リゼル、ノアール以外微動にしない。
時が止まっている。
「パパ」と呼ぶと頭を撫でられる。
「魔法を使ったの?」
「騒がれたら厄介だしな。一時的に時間を止めた。外に出ても人間共の時間は止まったままだ」
「時間を止めるって……」
あっさりと超高等技法の一つである『時間停止』を呪文も準備もなしに使用したリゼルに今度は違う意味で戦慄した。
ノアールを一瞥すると彼も唖然としている。軈て、最初よりも強い眼力でリゼルを見やる。
「そこまでの力を持ちながら、何故魔王にならなかった」
「お前に関係ないだろう。第一、そんな理由で来たのではないだろう。さっさと要件を言え」
「……さっきも言った。リシェルを連れ戻しに来たと」
「本当の理由を言え」
「それ以外の理由はない」
「……」
頑なに意見を曲げる気配がないノアール。
リゼルの腕の中で守られているリシェルは意味が分からず困惑するも、段々と苛立ちが募って来る。
連れ戻しに? 四日前婚約破棄を言い渡し、新しい婚約者と目の前でいちゃつきだしたのに?
ノアールがリシェルを連れ戻しに来た理由。……なんだろう。
妃教育? と抱くもアメティスタ家は常に魔王の妻の座を狙っていた。自分から進んで妃教育を受けていそう。
他に考えられるのは何か。
……。
何も浮かばない。
「殿下」
リゼルに体を離してもらい、ノアールと対峙する。
身長はノアールが高いから自然と見下されてしまう。
幾分か眼力を緩めても睨みは消えないノアールを負けじと睨み返す。
「私からもお尋ねします。何故、私を連れ戻すのです」
「……」
沈黙が訪れる。
もう一度、問うてもノアールは語らない。
先に折れたのはリシェル。
「……正直に申しますと不愉快です。四日前、私に婚約破棄を言い渡し、私が承諾した後殿下は私に何と言ったか覚えていますか?」
“そうか。分かったなら、さっさと出て行け”
吐き捨てられるように紡がれた言葉を何が悲しくて思い出して言わないといけないのか。気のせいか背後から凄まじい冷気が当たっている。
顔を青褪めたノアールを見るに発生源は父であろう。
「婚約破棄を言い渡される前から、嫌いだと、憎いと散々吐き捨てられました」
最低な言葉を言われても好きでいたのはリシェル本人。自分の気持ちに嘘は吐かない。
「婚約破棄をしても殿下が手を差し出せば私がその手を取ると? 私を馬鹿にするのもいい加減にしてください!!」
「ち、違う! 違うんだリシェル。おれは……」
「何が違うと? 私の見える場所で何度もビアンカ嬢と仲睦まじくして、挙句口付けまでして。……仮令、魔族と言えど不誠実な男は嫌いです。私はお父様のような、ずっと一人だけを愛してくれる方が良いです。貴方みたいに浮気をして裏切る男こっちから願いさげよ!」
「っ!!」
魔界に戻ったところで自分にはもう良縁はない。なら、今まで溜めていた鬱憤を晴らしてもバチは当たらない。
今まで言いたかったことを出し切ると、リシェルに拒絶され縋るような目をしていたのに怒りの眼に変えたノアールが大きな声を出した。
「おれが裏切者だと言うならリシェル!! お前だってそうじゃないか!!」
「私は殿下みたいに他の異性と親密になっていません! 一緒にしないで!!」
「一緒だ! リシェル、お前は――」
「はあ。聞くに堪えんな。出直してこい」
責められれば言い返し。
言い返したらまた責められ。
繰り返しが行われる直前、低い声が二人を遮断。左手を空中に翳したリゼルの動きに応える空間が捻じれた。捻じれた隙間越しに見えるのは魔界。冷静さを取り戻したノアールだが、即座に襲い掛かった突風によって後方へ吹き飛んで行った。
ノアールを魔界へ強制送還した。
「パパ……」
「気を取り直してケーキを食べよう。席で待っていてくれるかい」
「う、うん」
冷めた相貌から愛娘へ愛を注ぐ普段の父に戻ったリゼルは意気揚々とケーキ選びへ。リシェルが席に戻った時には、床に落ちた苺とスポンジはなくなっていた。
椅子に座った瞬間『時間停止』は解除された。
「……」
ノアールが何をしに来たのかは謎のまま、終わった。
――その日の夜。
昼間の出来事を連想させない穏やかな眠りに就いたリシェルの寝顔を眺めているリゼルの許へ、魔界の通信蝶がひらりひらりと舞い降りる。仕方なしに隣室へ移動し、ソファーに腰掛け専用のグラスに蝶の糸を巻き付けた。
『リ、リゼルくん、あ、あの』
相手はやっぱりというか、エルネストからだった。
「昼間、お前のノアールが来たぞ」
『う、うん。ノアールから聞いたよ。リシェルちゃんを連れ戻しに君達の所へ行って、追い返されたと』
「二度と顔を見せるな伝えておけ」
『リゼルくん……お願いだよ、ノアールにチャンスを与えてくれないか?』
相手が通信越しじゃなく、真正面にいたら、今の一言で消し炭にしている。エルネストも察知したらしく、ひっと情けない悲鳴が届く。
『ご、ごめん』
「謝るなら最初から言わないことだな」
『……リゼルくん、ノアールがアメティスタ家の令嬢と懇意になったのは僕のせいなんだ』
「お前以外誰がいる」
『う……』
はあ、と深い溜め息を吐き、風の魔法でワインボトルとグラスを引き寄せ、葡萄色が注がれるのを眺めた。情けなさが目立つ男だが悪じゃない。愚かなほど、愛情深い男。
「エルネスト。お前がノアールに気を遣うのもアメティスタ家の娘をノアールといさせたいのは理解はしてやる。だからといって、リシェルを傷つけていい理由にはならない」
『う、うん……。ノアールとビアンカには、友人になってほしかったんだ。恋愛に発展してほしいとはたった一度も願ってない』
「一つ聞くがノアールは知ってるのか?」
『……知ってるようだよ。口を滑らせた者には処罰を与えてきたけど……一度耳に入れば、事実か否かを調べたくなる。ノアールは真実だと突き止めたんだ』
「……ノアールがビアンカに近付いたのは、あいつの意思か?」
確認するリゼルの声の前に、魔界にいるエルネストの顔は見なくても分かってしまう。疲労している。声色にも疲れが滲んでいる。
『うん……。さっきも言ったけど、友人として仲良くしてくれればと僕は何も言わなかったんだ。まさか、あの二人が』
「過ぎた事はどうにもならない。エルネスト、ノアールをしっかりと見張っておけ。ついでに、また姿を現したらどうなるか……とな」
糸をグラスから解き、床に投げ捨てた。空へ帰って行く蝶に見向きもせず、リゼルは背凭れに体を預けた。
「あいつは馬鹿だ」
魔力の強さこそが魔王になるに最も重要な事柄。それ以外は然程重要視されない。政治能力がなければ、優れた者が補佐をすればいいだけ。仕事の処理能力も然り。
魔力以外の取り柄がなければ周囲が不足部分を補えばいい、リゼルがしているように。
ノアールを愛しているのも、ビアンカを自分の近くに置きたい理由もエルネストの真実。そこにリシェルを巻き込むな。
「はあ」
明日からは違う街へ行こう。
どこにするか?
賑やかな場所が良いとリシェルは話した。
なら、今度は観光業が盛んな街にしよう。
リゼルは己が知る街で特が多いのは何処だったかと頭の引き出しを開けていった。
その頃、眠っているリシェルは夢を見ていた。
まだ、自分とノアールの仲が良かった時。
『リシェル、こっちだよ』
『待って、ノア』
幼いノアールが先でリシェルを待っている。当時はノアールを愛称で呼んでいた。ノアって呼んでとはにかむ彼はもうどこにもいない。
嫌われたのは何時からだったか。
どうして、嫌なところは直すからと縋ってもノアールがリシェルに笑いかけることは二度となかった。
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