先輩、今日は会いませんか?
校長室の隣の使われていない部屋で、今日もピアノは鳴っていた。
鮮烈な音をかき鳴らしている時もあれば、深く優しく、悠久の時間を感じさせる音も鳴る。
そこにあるピアノは、音楽室にあるものとは違ってすごく古いピアノらしい。通りかかった校長先生が言っていた。
「毎日毎日、誰が弾いてるんだろうねぇ。ここにあるのはものすごく古いピアノで、音も合ってないだろうに。弾くの辞めちゃいそうだから、入れんのだが。」
使われないものが溜まっていて、誰も入らない部屋だと放置していたら、いつの間にかピアノを弾く子が出入りし始めたらしい。
「君も毎日飽きないね。」
私は毎日ドアの前に通っていた。
聞いていて、好きな音とか、合う音があるだろう。色んな人がいろいろなアーティストを好きになるように、私はこのピアノの音に惹かれてしまった。
ずれている音でさえ、こんなにも楽しく聞こえるのは初めてだ。
杏は壁を背もたれにして体操座りで聞いていた。
膝に顔を填める。こうすると、ピアノの音がもっと近くに聞こえる気がした。
誰もいない廊下、色の悪い蛍光灯、よく分からない外の日光、短いかもしれない廊下。普通ならこんな場所に来ないけれど、ピアノの音が特別な場所にしてくれていた。
私の腕には黒い手の跡が付いている。
杏は何となく時間のあった土曜日に、お出かけしていた。本屋さんに寄って、前から読んでいた漫画の続きをみつけて直ぐに買う。
帰って読むのを楽しみに歩いていると、アイスのワゴン車販売を見つけたので、イチゴとチョコのダブルにして超ご機嫌で帰っていたのだった。
充実した休日なんじゃない?本のビニール袋を持った手をゆらゆら振りながら家の前に着いた。
ふと、斜め後ろを向くと、こっちを見てた立っている人がいる。どこにでもいるような、普通の人。
人のこと、見すぎちゃう人っているよね。なかなか自分じゃ気づけないけど。
「ただいまー。」
日曜日は出かけなかった。けれど、月曜日の学校の帰りも、その人は同じ場所にいた。気味が悪かった。
けど特に何をされる訳でもないし、言ったらお母さん心配するし。
そのうち居なくなるし。
その後もいない日はあったが、かなりの確率でそこに立っていた。その人は変わらずそこにいたが、変わってきたのは杏の方だった。
歩いている時、後ろを気にするようになり、通行人が少し怖くなった。家の周りに来ると、帽子も深く被ることにしていた。
しかし、特に何もしてくることなく何日も経ち、後ろを目だけで確認して家に入ろうとしたその日、杏は男に腕を掴まれた。
あの人だった。いつもは後ろにいたのに、今日は家の前にいた。
「マスクとって貰えませんか?」
杏は、冬からの流れでまだずっと予防のマスクをつけていた。何を言われたのか、正直わからなかった。
掴まれた力が想像していたより強く、スマホを持っている手は思うように動かない。
警察、いま呼んでもこんなの間に合わない。
頭が真っ白になりながらも、相手のことは冷静に見えていた。
「何でですか。何ですか。離して下さい。」
男は直ぐに腕から手を離した。少しほっとする。そのまま杏は距離をとった。震える手で両手を使い、なんとか直ぐに警察を呼べるように電話の画面を開く。
家の方に男が立っているので、家には駆け込めない。それに、後ろに逃げるにも、柵の中にもう入ってしまっているから、開けている時に捕まるだろう。
お母さん·······。
「ウインク得意ですか?」
「できません。しません。」
「ピンクのかつら持ってますよね。」
「持ってないです。」
何を言っているのか分からない。
「ーーーさんですよね。」
上手く聞き取れなかった、けど何となくどういうことが杏にはわかった。
この男は、私を何かと勘違いしているわけだ。アイドルかなにかだろう。そう思うと、少し力が抜けてきた。私はその人じゃない。
「すみません、人違いです。」
そう言って私は後ろへの道を開ける。男が帰るだろうと。しかし、男は私をギラりとした目でこちらを凝視した。
「そうだと思うんだよなぁ。」
··········人間を見る目じゃない、こんな目で見られているのか。でも、なにかこの人おかしい。
「好きです。好きなので、付き合ってください。」
は?
「無理です。それに人違いです。警察呼びます。」
「呼んでもいいです、付き合ってくれるまでここを動きませんから。」
「本当に意味わからないです、やめてください、」
男は自分のことを隅々まで見ている。
自分の声がどんどん弱くなっていった。手が震える、上手くスマホが使えない。もしマスクをとったら、違う人だと、引いてくれるだろうか。
もし万が一私が、目以外の部分もその人に似ていたらどうする。
人違いではないと男が確信してしまったらどうなる。
目の前の男が少しずつこちらに近づいてきた。もうやばいと、警察の番号を打ち込めたその時。
「あらあんずちゃん。何してるの?」
息を飲んだ。
声をかけたのは、向かいに住んでいる川田さんだ。杏はそのまま急いで柵を開けて出る。
「川田さん!あの、知らないひとが、いて、あの、この人が変なこと言ってて。」
「あぁ、裏に住んでる人よね。どおも〜。」
··········近所の人?どういうこと?
男は相変わらず挙動不審だった。
杏の頭に過ったのは最悪の場合だった。杏のされたことが川田さんに信じて貰えないのではないか。でも、そんな心配はなかった。
「どうされたんですか?」
「好きなので、今付き合ってくださいってお願いしたんです。」
「は?」
川田さんはもう一度私を見て、怯えきっている様子を確認した。そして私の前に立つ。
「すみませんが、お帰りください。」
「や、でも。」
「いいから!お帰りください!」
身体をグネグネさせる変な動きをしながら男は帰っていった。私の心拍数は速いままだ。
川田さんと一緒に家に入ると、川田さんは事の状況をお母さんに説明してくれた。お母さんは涙目で私を抱きしめた。
私もしばらくして落ち着いてから、何があったかきちんと説明した。長い間黙っていたことを、お母さんは怒らなかった。頼むから何かあったら言ってと、お母さんは涙を堪えながら言った。
事態は収まり、杏は安全になった。
なぜ安全かと言うと、男は持病持ちで、いつも使っている薬を別のものに変えていた時期だったらしい。副作用が大きく、ただストーカーをしているわけではなかった。これはお母さんと川田さんが不動産に掛け合ってくれてわかった話だったのだか、その人は親族の居る方へもう引越しを決めたそうだ。
こうして、杏には平穏な日々が訪れた。
しかし、その日から、杏の腕には黒い跡が見えるようになった。掴まれたところだ。それは杏にしか見えなくて、お母さんに相談して、今はカウンセリングを受けている。男の人も怖くなってしまった。
昼休みが始まるチャイム。運動場で体育をしていたジャージ達が、わらわらと校舎に入っていく。
「立花。」
ビクッ。驚きと恐怖の目で振り返ると、普通にクラスメイトが呼んでいた。驚いてなんかないよ。というように杏はにっこり笑顔を作り直す。
「なに?」
「·····?あぁ、さっきプリント返された時、俺んとこに立花の混ざってたから。これ。」
「そっか、ありがとう。」
「おーい!お前立花さん狙ってんのかー?」
「ち、ちげーよ!!プリント渡しただけ!」
杏は、あははと笑う。
··········あぁ、泣いてしまいそう。
「またやってんね!あんちゃ、食べよー?」
友達の佳代と月美が来た。
「あ、ちょっと先に職員室行っていい?質問あって。机はくっつけてく!先に食べててもらってもいい?」
「えー、まじめーー。待ってるね!」
「早くね!」
「わかった、ごめん!」
急いで教室を出る。みんなの前では泣けないから辛い。行先は保健室だった。
「先生。」
「·····あら、どうぞ?」
壊れていて今は使われていないベットを、保健室の先生は杏に貸してくれていた。
杏はカーテンで遮って立ち尽くす。ベットが治る頃には話をすることを約束に、ここを貸してもらっている。
ポロポロと涙が零れた。目が腫れないように、タオルで直ぐにふきとる。泣かずに我慢していたら、心が壊れて今うと思うから。こうして泣いているのである。教室に戻る前に、目の腫れがおさまる程度。
たったそれだけの程度、杏は泣いた。
なんで、普通だったことが、普通じゃなくなってしまった。なんで··········。
どうしたらいいのか分からない。悲しんでいるのか、悲しまなければいけないと思っているのかも、分からなかった。
「せんせーー。おっ、冷房着いてんじゃーん。」
「金森くんまた来たの?」
「え、俺来ちゃダメっすか!」
「ダメじゃないけど、また授業サボるつもりでしょう?まぁいいけど。」
「いいんだ、じゃあサボっちゃお。」
いつも保健室に来ている人みたいだ。もう少し早めに出ていけばよかったな。
「金森くん、自己管理が出来てないタイプの子じゃないでしょう。」
「さすがゆうり先生!よくわかってらっしゃるーー。じゃあ俺が先生を好きなこともわかっちゃってます?」
「その好きってのが嘘なことも知ってます。大人をからかわない。」
「あはは、さっすがぁ。俺大人苦手だからなー。あ、立花先輩だ。」
声をかけられて杏は立ち止まった。なるべくこっそりカーテンから出たつもりなのに、やっぱり邪魔してしまった。それにしても、声をかけられるとは。
「え、はい。ごめんなさい。私、あなたのこと知らなくて··········」
「いやいや、そりゃそうですよ。先輩が有名なだけですから。」
「有名って、」
「知らないですか?美人な黒髪ショートの先輩って、よく聞きますよ?俺の友達も気になってるぽくって。」
「え?そんなこと·········」
そんな話、聞いたことがないが。それよりも、何だか後輩は大丈夫みたいだ。初めて話したのに恐怖感がない。
「こらこら、困らせないの。」
「はぁーい。」
「·····じゃあ、」
「はい、先輩また。」
杏は保健室を出て、教室に戻った。
保健室を出たら、別の人が入っていった。「あき、授業行くぞ。」と後ろで言っていた。
夕暮れの廊下。校長室の隣の部屋。
今日は楽しそうな音がしていた。弾むような、··········あぁ、楽しい。私もピアノを習っていたら、あんな風に弾けたのかな。
でも、この人のピアノが上手いとか、そういう事じゃなくて。きっと上手いのだけど、上手いからいいと思う訳じゃなくて。
やっぱり、この人にしか出せない音なんだろうなぁ。
今日も顔を膝に填めて音を聞いていた。
黒い跡も忘れる優しい時間。
「うわっ、」
徹は廊下でぶつかられてよろけた。
「す、すみませぇ〜ん!」
女の子たちが小走りで駆け抜けていく。とても楽しそうにしていて、「やった!」などと言っているのが聞こえるので、またか。と思っていた。
男も女も、親しくしたとしても、本当に自分のことを見てくれるとは限らない。
そういう人は、少ない。
見つけてもらいたいけど、顔と名声にしか眼中に無い人に振り回されるのはもううんざりだ。
「とおるー?きいてんの?」
「あぁ、なに?」
「みきちゃんの話!なぁーどうしたらいい?もうやめといた方がいいかなぁー。」
「よくそんな取っかえ引っかえできるよな。毎回めんどくさいことして。」
「えぇ!めんどくさいてー、ひどいなぁ。徹もモテるんだし、彼女1人くらい作ったら?」
「俺はお前で十分だからいい。」
「えっ、なに?そういう感じ?」
ほっぺたに手を当てて、頬を染めるふりをしてきた。
「ちがう。」
「わかってるよーー。彼女欲しくない理由も。·····まぁ、でも?徹にちょっとでも信じられる人いればなぁって思うよ。」
「今はいーよ。」
徹のお前で十分発言に、周りの女子たちが騒いでいるのに気がついた。徹は無意識にため息する。
人間不信になったって仕方ない。
徹にはずっと付き合っていた彼女がいた。彼女で、幼なじみで··········。将来結婚するだろうとまで、普通に思っていた。
だけど、徹が少し離れて、リビングに戻ったあの日、彼女が徹の父親に抱きついているのを見て、全てが変わった。
それまで、どれだけお金目当てで上辺だけの人が近づいてきても、そんなに心を落とすことは無かった。
手足が冷たくなっていく感覚。多大な喪失感。寒さと熱さで心がズキズキした。彼女も、父も·····。
呼吸を整えるのに時間がかかって、整えている間、徐々に穴が開いていったのだった。
あのことは母さんにも誰にも言っていないし、目の前のこいつにも言ってない。ただ、こいつは察しがいいから、幼なじみ同士、なにか勘づいたのだろう。
付き合っている時も気をつけろだのなんだの言われていた。
彼女とは理由を言わずに別れた。話して何を言うかなんて、聞きたくもなかったのだ。
父さんにも、彼女と別れたということだけ伝えた。
もういい、もううんざりなのだ。
もし、本当にいい人に出会えるとしても、その過程までに何人もそうでない人に会うことを考えて、もう欲しくなくなった。
「徹さ、立花先輩タイプでしょ?」
「は?」
「うわ、怒んないでよー。なんか見かけた時目で追ってるよなー、みたいな?」
バシッと教科書で叩いた。
「いった!ごめん!すいません!」
「ゆるす。」
「俺、立花先輩がよく行くとこ知ってるよ。徹も来てみ?」
うんざりしていても、感覚的には求めているのだろう。求めずにはきっといられないのだ。入学式の日、案内してもらった。たったそれだけ。それだけで、簡単に期待してしまうのだ。
けれど、徹は自分を守らなくてはいけない。
1度した事は馬鹿みたいに繰り返さない。徹の頭は、何度も身体と心を循環し、意思決定を行っていた。
今日もピアノを弾きに来た。
ここなら、人通りも少ないし、誰かに話しかけられることもない。思い思いに音を奏でた。
遠慮しなくていい、怖がらなくていい。
会話が下手だから、人を信頼できないから、音で吐き出した。自分を守るために、抑えているけれど、溜め込んでいては辛くなる時がある。
いや、いつも辛いのかもしれない。
言いたいこと全部、今日1日誰かに話したかったことも全部、この調律のなってないピアノに任せて、自分を保っていた。
古い部屋だけど、静まり返っていて何故かほこりっぽさは無い。そんな静かなところに、最近足音が聞こえるようになった。
あいつが来るならいつも入ってくるし、あいつでは無い。徹が弾くのをやめて帰ろうとすると、いつもその前に帰るので、鉢合わせせずに済んでいる。
最初は来ないで欲しいと思ったが、ただ、ピアノを聞くだけで帰る人なので、今日いるな。と気にするくらいになった。
今日は来ていないみたいだ。
「あ、」
足音が近づいてくる。
タン、タン、タンと。
何となく意識してピアノも弾き始めると、音は近づいてきて扉が開いた。
「··········なんだ、あきか。」
「なんだ、ってなに〜。あ、ねぇ、俺の好きなやつ弾いてよ!」
「弾かない、うるさい。」
「えーー。まぁいいや、俺本読んでるし。」
「··········あ、れ。」
今、校長室の隣に入っていったの、保健室にいた金森くん··········だよね。
ってことは、あのピアノ金森くんが弾いてるのか。
そっか··········。
なんか、いや、がっかりはしてないけど、イメージと違うというか、なんというか。綺麗な感じの見た目には合ってるんだけど·····。
でも、そっか。あのピアノ、金森くんだったんだ。
杏は今日もバレないようにこっそり扉の隣に座って音を聞いた。いつもと違う気持ちだった。
金森くんって子、何だか印象と違ってこんな繊細な音出すんだな。ちょっと意外だったかもしれないな。
昼休み、体育館裏。今日の朝に、隣のクラスの男の子が話しかけてきて、場所を指定されたのだ。
急に声をかけてくるものだから、酷く驚いてしまって、ほんとうに申し訳ない。
けど、場所を指定して、こっちが行けるかどうかも聞かずにいなくなってしまうのは良くないと思ったので、杏の中ではプラマイゼロになった。
足音がして、建物の影から朝の人が来た。
怖い。こういう人のいない所に、物陰から現われられると、自然に身構えてしまった。
「あの。」
「·····は、はい。」
沈黙する。向こうの顔が赤いので、なんだかこっちまで恥ずかしくなってしまった。
これから、好意を断らなくてはいけない。私がうんと言えば、相手は喜ぶものを、断らなくてはいけない。
なんで悲しいことなのだろうと、思ってしまう。
「·····俺、立花さんのこと去年同じクラスのときから好きで。··········付き合ってください。」
··········。
全部。さっきの恥ずかしくて悲しい気持ちが、一気に恐怖に変わった。
どうして··········。なんで··········。
本当だったら好かれることは嬉しいことのはずで、本当だったら、もしかしたらこっちだって相手を好きになれるかもしれないのに。
なんて悲しいことだろう。
この状況はあの時とは違うけど、でもどう違うのだろう。何が、怖いのだろう。
この人とは、去年それなりに話したりもした。
どうしたら好きになっていいのだろう。
「··········ごめんなさい。」
「··········うん。··········聞いてくれてありがとう。」
「うん。」
そう言って戻って行った。
杏はしばらくぼーっとしていたが、教室に戻らなくちゃいけないと思い、歩き出した。
けれど、足に上手く力が入っていなくて、おぼつかない。教室に戻る道に保健室があったので、杏は我慢できずにそのまま入っていた。
「先生。」
保健室に入ってきた杏を見て、先生は保健室を人払いした。金森くん以外に人はいなかったが、金森くんは言われる前にそっと出ていってしまった。
先生がお茶を入れてくれる。
いっそう黒くなった腕の跡を杏は隠した。
ことん。先生がコップを置く。
「話せそう?無理に言わなくても大丈夫よ。」
「··········。」
なにを言ったらいいのだろう。私の中でもにも整理がついていない。
「さっき、隣のクラスの子に告白をされて。」
「その人と何かあった?」
「いや、その人は全く関係ないんですけど、」
「うん」
声のトーンがあたたかい。杏がカーテンの中に籠っている時、保健室で他生徒と楽しそうに話していた。
杏も軽く笑い話をしたり、先生は友達みたいに話す印象だったけれど、こんな時に、この人は保健の先生で私は子供なんだなと実感する。
「えっと、」
杏はストーカーに遭ったこと、そして男の人が少し怖くなってしまったことを話した。
「あと、手の掴まれたところが黒く見えるんです。幻覚みたいなものだと思うんですけど。黒い跡取れなくて。」
「そう。深く、傷ついちゃったのね。」
傷つく。杏は下を向く。間違わないように今まで生きてきた。なのに、傷つくなんて。
頑張ってきたのに。真っ当に生きるために。
「そんなには、傷ついていないはずだったんですけど、」
「こんなにも、影響を受けたことが、悔しい?」
「····················っ、」
とめどなく涙が溢れ始めた。これまでたくさん、我慢して色んなことを頑張ってきた。
「くやし、··········。」
迷惑をかけないように、心配をかけないように。
それなのに。こんな、ひとりじゃ打ち勝てないようなことに出会って、どうしたらいいか分からなくて。
無作為に傷ついたことが悔しかった。
心の中をぐちゃぐちゃにされたことが悔しかった。
誰だって、自分を自分で必死に保ってきているのに。
「立花さん、大丈夫よ。」
「··········何が、ですか。」
何が。なんて八つ当たり、反抗。後になったらわかって恥ずかしくなるものが、今はこんなにも頼りだ。
「あなたのこれは、治るから大丈夫よ。」
「治る·····?」
「うん、治る。」
「··········。」
情けないほどにぐちゃぐちゃな気持ちになって、抜け出したいのに。
「どうしたら、治せますか。」
「少しずつ。少しずつよ。すっかり忘れちゃうくらい楽しいことをしていても、ふと思い出してしまう時もある。そんな時に、そんなこともあったなと思えるまで。自分自身の中で興味が無くなるまで。」
「そんなの、いつになるか分からないじゃないですか。なんで·····」
「浸っちゃいけないよ。立花さん。立花さんは今、ちゃんと悲しんだ、涙を流せたよ。だからもう終わりに向かわないと。潜在意識は無意識に出てくるの。だから、立花さんがずっと悲しんだままだったなら、こころのどこかで、ずっとその出来事に浸っていたいって思っていることになっちゃうのよ。」
自分の甘さを脱ぎ捨てなくてはならない。きっと、そういう事だ。私は助けて欲しかったのだろうか。
「··········。」
「そんなの、嫌でしょう?」
「はい。··········いやです。」
先生が頭を撫でてくれた。とても優しい。最後の涙がぽろりと流れ落ちた。
「少しずつだよ。ちょっとずつ。」
「はい。」
「またここにおいで、今度は普通にお茶飲みに。金森くんみたいに入り浸るのはオススメしないけど·····。あ、あいつあんまり男感しないから好きに使いなさいな。」
「え、使うって·····」
杏が戸惑うと、先生はくくっと笑った。
「また、·····来ます。あ、でも友達になんて言おう、いつも一緒にお昼食べてるから、」
「話せないの?」
「··········心配かけたくないです、気にさせていちいち迷惑かけちゃうかもしれないですし。」
「そう。それならそれでもいいけど。頼られたら人って嬉しいもんだよ?立花さん。」
「え、でも。」
「立花さんが話してくれて、先生嬉しかったよ。」
にっこり笑って先生が言う。
「·····はい。」
後日、友達に色々なことを話したら、やはり本当に心配された。でも、杏が前向きな気持ちであることもきちんと伝えられた。
そして最近はよく保健室に通っている。
黒い跡だって忘れることが多くなった。
「あ、先輩〜!いらっしゃいませー。」
「ここは金森くんの場所じゃないでしょう?」
「もう半分そうじゃないですか?」
「ちがいます。」
杏は楽しくて笑う。ここへ来ては、たわいもない会話をして帰るだけだった。いつもの椅子に座る。
しっかり最近のルーティーンになっていた。
でも、今日こそは聞いてみよう。
「あ、そういえば。金森くん、校長室の隣の部屋ってピアノ弾いてるよね?」
「あー、あの部屋。弾いてますよ。」
「やっぱり!すごいね!すごく綺麗なピアノでびっくりして、たまに聞きに行ってるの。」
「? ··········あ、聞きに来てる人って、先輩ですか?」
「え、······ばれてたの?ご、ごめんなさい。気持ち悪いし、迷惑だよね。こんなのストーカーと変わらないような。」
ここぞとばかりに仕事をし始めた先生が、ちらりとこちらを見る。
「あっはは、ストーカーって!そんなわけないと思いますよ!ていうか、先輩も入ってくればいいのに。」
「え?邪魔じゃないの?」
「んー、たぶんためになると思います。」
「·····ために?」
「今度来たら入ってきてくださいよ。」
「う、うん。私あのピアノ好きなの。楽しみにしてるね。」
「俺も楽しみです!」
「噛み合ってないわね·····。」
「?」
「金森くん、会わせるのはいいけどちゃんとしなさいよ?」
「はーい!」
会わせる·····?
そんなことより、やっぱり金森くんだった。
ピアノ、あのピアノを弾いているところを見られる。
杏はすごくドキドキしていた。
もうたくさん聞いてきたので、杏の中では無いと困るくらいの存在になっている。
杏は、次にあそこへ行くのが楽しみになった。
徹は廊下で立ち尽くしていた。
何を言っているのかは分からないが、楽しそうな声が聞こえる。
「·····好きなの。楽しみにしてるね。」
「俺も楽しみです!」
あきと、立花先輩の声だ。
来たらいいと言われたから来てみたら、こういう事だったのか··········。
気になっているのを知っていて、わざわざ呼んで·····、仲の良さを見せるために?
あきのことは信じている。唯一、ずっと一緒にいてくれた。
けど、知らないうちに何かしてしまっていたのだろうか。だったら、こんなことしないで直接言えばいい。··········言ってくれればよかったのに。
「あ、私もう行くね。」
「はーい、先輩またー!」
「ばいばいじゃないでしょ。金森くんも帰りなさい。」
「えぇーー、」
立花先輩がドアの手前まで出てきた。
優しい顔をした人。
徹は驚いて反対方向を向き、急いで教室に帰った。
授業が全部終わり、帰るだけになった。徹もあきも荷物をまとめる。
「徹ー、なんで今日も来なかったんだよー?」
「··········もう行かない。」
「えぇー。」
あきはいつも通りだ。こんなの気づけるわけが無い。別に、あきに嫌われるようなことをした覚えはない。
けど、あきがあんなことをするのは、俺を嫌っているんだろう。それなのにずっと一緒にいた。
理由は··········。
「なんで、俺をあそこに呼んだ?」
「え、なに?」
「··········、なんでもない。」
「なんか徹、今日体調悪い?大丈夫?」
一体なんなんだ。あきが良い奴なのは知っている。
だからもういいんだ。
「·····お前、もう俺と一緒にいなくていい。」
「は?」
「無理して一緒にいなくていいんだよ。」
「え、何言ってんの?どうした?」
「そういうのもういいから、じゃあな。明日も特に話しかけなくていい。」
「は?どういうこと?ちゃんと説明して·····」
徹はそのまま教室を出た。クラスがざわついている。
「はぁ·····、なんか勘違いしてんのかなぁ。そもそもあいつ知ろうとしなすぎるだろ。」
あきはスマホのメールを開いた。
徹は家までの道を歩いていた。もう、ちゃんと自分のそばにいる人はいない。
ピアノの部屋に寄れば良かったか。
徹は早足で歩き始めた。いつもそうする場所だ。でも今日は本当に悪い意味で大切な日になりそうだった。
「徹、くん、?」
立ち止まってしまった。立ち止まっても何もいいことは無いのに、その声に、雰囲気に反応してしまう。
少し泣きそうになった。
「ねぇ、徹くんだよね!まって!」
急いでいこうとすると、腕を掴まれた。華奢で、体の弱い彼女の手は、やっぱり振り払うことが出来ない。
「久しぶり·····。」
「なに?」
徹の尖った態度と悲しそうな目に、彼女はびくつき、また彼女にもそんな目が移った。
「あの時は、本当に。本当にごめんなさい。別れ話された理由ってやっぱり··········。だから。本当に·····」
「··········」
謝られても、関係が癒えることはきっとない。
「もういいよ。もう。」
「怖くて、傷つけてしまって、謝りに行くことも出来なかったの。ごめんなさ、」
「もういい。俺、行くから。」
「え、」
どうせ最初からそういう関係だ。謝るも何も無いだろう。俺が勝手に信じて傷ついただけなのだから。
「徹くん!私、こんなこと言う資格、もうないけど、あんなことしたくなかったの。してしまったらから
なにも、言えないけど。徹のこと本当に好きだった。」
徹はまた立ち止まってしまった。
「·····けど、親には逆らえなくて。やっぱりした事実は変わらない。それでも、徹くんのこと大好きだったのは本当、それだけは嘘じゃないの、信じて·····。」
そうだ、事実は変わらない。あの光景は消えない。
けど、それまでの全てが徹だけの気持ちだと思っていた。彼女との日々は本物だった。
それは本当か·····。簡単に安心していいものか。
また取り入ろうとしているだけ·····。
徹は振り返って彼女の顔を見た。
あの日以来、初めてちゃんと見た。
·····あぁ、そうだ。こんな顔をしていた。前より少しお互い、大人になったかな。
長い間、隣にいたのは誰だ。ずっと見てきて、今の彼女が嘘なんて言えるわけなかった。
「··········そう。··········わかったよ。さつき。」
徹が久しぶりにした微妙な笑顔に、彼女はボロボロと泣き崩れた。子供みたいに、バカみたいに泣くものだから、仕方なしに徹は家まで送って行った。
彼女の家の前で別れて、徹も家に帰る。ドアを閉じる時に透明な風が部屋に入り、空気が入れ替わったみたいだった。
荷物を置いてスマホを見ると、あきからのメールと着信がいっぱいになっていた。
なんだか、今まで思い込みばかりだったのではないかと考え始める。あきにはもっと人の話聞けとか言われていたな。
徹は通話のボタンを押した。
「徹ーーーー!!」
「うっ!!ゲホッゲホッ、うぁ。なに?」
翌日、校門を通ると、あきが後ろから勢いよくぶつかってきた。
「良かったよーー!全くもー!俺が立花先輩をとか、かわいい勘違いで。」
「うるさい黙れ。」
「ひど!俺も傷ついてたのにー!」
「それは·····、早とちりが過ぎて悪かった。」
あきがいつもよりご機嫌すぎて、うっとおしい、が、前よりも仲が深まった気がした。
「そうだ。俺、さつきとちゃんと話した。」
「え、さっちゃん、?え、そっか。ちゃんと?」
「あぁ、ちゃんと。」
「そう。元気にしてた?」
「馬鹿みたいに泣いてた。」
「あははっ、そっかー、よかった。ねぇ俺も会いたい!さっちゃん!また3人でどっか行かないー?」
「うん、そのうちな。」
授業が終わって走ってあの部屋に向かう。
今日は?今日は弾いてる?
金森くんから部屋に入っていいと言われた昨日はいなかったけど、今日はきっといる·····。
ピアノの音がかすかに聞こえてきた。
あ、あの音だ。どうしよう。
校長室のある廊下まで来てしまった。入っていいと言われたけど、いざ入っていいと言われると·····。
どうしよう。なんて言って入る?
こんにちは?·····聞きに来ました?
は、入っちゃった?
なんだか気持ち悪いかもしれないな。
部屋の前で立ち止まる。今日はいつもよりもまして、本当に優しい音だ。何かが溶けたような。
ぐずぐずしていても仕方ない、ヒヤリとした戸に手をかけ、そっと引いた。
戸の音に気づいて演奏が止まる。
「··········なんだよ、入って来、」
お互い動きが固まってしまった。
え、·····誰? 金森くんじゃない人が弾いてる·····。
なんか、でも··········。
··········この人だ。
あのピアノの音は。この人がずっと弾いていたんだ。
じゃあ金森くんは?
状況確認で精一杯だった。
「あ、立花、先輩?」
「え、あ、はい!えっと、おかしいな。私、金森くんに入っていいよって言われて。」
「あ。はぁー、あいつ。なるほどな。」
「え、ええーっと、私なんか勘違いしてたみたい。勝手に入ってごめんなさい!それじゃ、」
「あ、まってください。」
「え、?」
窓の逆光であまり顔が見えない。けど困らせてしまっている。急に入ってきたらそりゃそうだろう。
「もしかしてですけど、たまにドアの向こうにいた人って、立花先輩ですか?」
「あ··········はい。」
こんな、知らない人と、知らない男の人と話していても、何かの手違いで、勝手に部屋に入ってしまったこんな緊張する状況でも。
怖いとか嫌だとか、そんなことは思いつかなかった。
変な時間·····。遠慮とか、身構えることとかそんなものが要らない、変な時間。
この人の事、もっと知ってみたい·····。
「あ、あの、」
「とーるーー!あ、あれ?立花先輩先に来ちゃってましたか〜」
「·····金森くん。」
「あき、お前なぁ、呼んだなら先に言っとけ!びっくりするだろ。」
「だって、先に行ったら徹、断れって言うでしょ?あれ、·····なんか顔赤くね?」
「··········うるさい。」
「あ、あの、ピアノは金森くんが弾いてるんじゃなかったの?」
「え?俺そんなこと言ってないですよ?」
「でも、この部屋ピアノ弾いてるって、」
「はい、この部屋、ピアノの弾いてます。」
そう言って金森くんは目の前の男の子を指さした。
あ··········。
たしかに、金森くんが弾いてるとはひと言も··········。
なんだか、勝手にいつもどきどきしていたのが恥ずかしくなった。
「こいつ、徹って言うんですよ。ピアノは徹がいつも弾いてます。」
「あ、あの·····、あきが、なんか勘違いさせたみたいですいません。」
「全然!大丈夫です。」
「先輩〜、徹も後輩ですよー!敬語じゃなくても!てか、なんか大丈夫そうですし、俺先帰りますね!」
「え!」「おい!」
金森くんはそう言って帰って言ってしまった。急に来たと思ったら急に·····。
杏はあっけに取られる。
そういえば、2人きりになってしまった、どうしよう。私も、帰った方がいいのかな。
「あの·····。」
「はい!」
「何か弾きましょうか?」
「え、いいんですか?あ、じゃなくて、·····いいの?私勝手にいつも聞きに来てて、迷惑じゃなかった?」
「そんな、迷惑なんて」
徹くんはとても優しい笑顔で笑った。杏もつられて笑顔になる。
胸の高揚感はおさまらないが、肩の力が抜けるようだった。
「じゃあ、徹くんの好きなの聞かせて欲しいな。」
「えっと·····これとかですかね、」
徹くんはピアノを弾き始めた。杏も何回か聞いたことのある曲だ。扉の向こうで聞いていた。
こんなふうに弾いていたんだ。
じっと見ていると恥ずかしそうに目をそらされた。
徹くんのピアノのを弾く手を見て、ふと自分の腕を思い出す。··········そういえば、黒い跡。
そう思ったけれど、確認しなかった。
見るのが怖かったのではなくて、見なくてもいいかな、と。そんなことよりも今ここにある、今の状況が大切に思えたのだ。
杏はピアノの隣にあるソファーにゆっくり座り、ピアノの音を大切に聞いた。
【くっつけおまけ】
「おそくなってごめ、ん·····」
「先輩ー!お久しぶりです!」
徹くんが疲れた顔をしている。
土曜日のお昼すぎ、駅前で徹くんと待ち合わせをしていた。杏の好きなジェラート屋さんに付き合ってもらうのだったが·····。
「金森くん·····」
「着いてきちゃいました〜、すみません!」
「はぁ、ほんとにな。立花先輩すみません。」
「だ、大丈夫だよ!えぇーっと、こっち、いこっか?」
3人はジェラート屋さんに向かい始めた。
2人きりで出かけるのは初めてなので、本当に緊張していたから拍子抜けだった。
··········でも、ちょっと惜しいような。
3人はそれぞれ好きな味のジェラートを買うと、席に座って分け合った。
「そういえば、先輩って、いつくらいからあそこ来てたんですか?」
「んー、春くらいかな?」
「「えっ!」」
2人が手を止めてこっちを見てきた。なんだか恥ずかしくなる。
「えっ、そんなびっくりする·····?」
「や、そんな前だと思わなかったんで、」
「ご、ごめんね。」
「えぇーー、残念だなぁ、俺のが先に会ってると思ってたのに〜」
「はぁ?なんなんだよ。」
「可愛い先輩だから、次の彼女、先輩にしよっかなーって、見つけたのは俺が先なつもりだったんだど、」
「へっ?そんな·····」
「先輩真に受けないでください、こいつ女関係適当なやつなんで、」
「あ、あぁー·····」
「そんなことないっすよー。」
「てか、俺は入学式のときだから、勝てるわけねーだろ。」
「「え?」」
杏と金森くんが徹くんを見ると、徹くんははっとして、顔を真っ赤にした。
「徹、おま、」
「そんな前から知っててくれてたの?」
「··········。」
「お、俺、先帰りますね〜」
「あ!おい!」
金森くんが先に帰ってしまった。そんなことより、入学式?そんな前から?
徹くんは居心地が悪そうにしている。
「入学式って··········」
「·····入学式のとき、案内してもらったんですよ。保健室に。体調悪くしてたところを助けて貰って、」
「え!あの時の?全然違う、背とか!」
「ま、まぁ。··········あれ、あいつ忘れ物、」
そう言って徹くんが椅子から拾ったのは、明らかに映画の券だった。しかも2枚。
2人でよく見ると15:40〜と書いてある。今は15:25だ。
「え、え!あと15分だよ!これどうするの?」
「うわ!ほんとだ!あいつ、どうするつもりで!走ればギリ?いや、でも走らせるのは·····」
「何言ってるの!早く行くよ!」
「あ、はい!」
2人は映画館に走っていった。