白いバラが染まるまで
ソフィー・リンチェとラルフ・ウィッフェンが出会ったのは、二人がまだ幼い頃だ。二人とも侯爵家の出とちょうど釣り合う家柄だったため、ごく自然に二人は婚約を結んだ。婚約の意味が理解できる年齢ではなかったものの、ソフィーはすぐラルフに好感を持った。悲しいかなその思いは、ソフィーの一方通行であったけれど。
ラルフはソフィーよりも2つ年下であったことが、両者の認識のずれにより拍車をかけてしまったのかもしれない。子供の2歳差は、とても大きい。ラルフはきちんと男の子の格好をしていたものの、整った顔立ちや同年代より華奢な体つきも相まって、ソフィーには女の子、もっといえば婚約者というよりも、妹のように思えた。ソフィーはどちらかといえば物分かりの良い方であったから、頭でそう思っていても、決して口や態度に出さないよう、気を付けていた。自分の婚約者になるかもしれない人を、妹のように可愛がるのは失礼だと、言われずとも分かっていたはずだった。
しかし、つい、やってしまった。
はじめて顔を合わせてから数ヶ月後、ソフィーの住むリンチェ侯爵邸を訪れていたラルフを、ソフィーは庭に誘った。リンチェ邸の庭は季節ごとに様々な花で彩られ、貴族の間でも評判だった。花にはあまり興味の無さそうな小さな男の子でも、ところせましと花が咲き乱れる圧巻の景色には驚いているようだった。感嘆のため息をもらすラルフの横顔に、ソフィーは浮かれた。気が緩んでいた、と言い換えてもいい。
ラルフがリンチェ邸を訪れる時に庭を案内することがソフィーの楽しみのひとつになっていた頃、それは起こった。
「ほら、この花なんて、あなたによく似合いますね」
戯れに手折った白いバラの蕾を、ソフィーはラルフの髪に差した。それは確かに、ラルフの黒髪によく映えていたが。
「ふざけるな」
堅い声音で投げられた拒絶の言葉に、ソフィーははっと我に返った。こちらを向いたラルフの瞳は、今までに無いほど鋭い。その瞳に、心が一気に冷えていく。
「も、申し訳ありません」
慌ててバラを取り除こうとした手を、少し小さな手が弾いた。その衝撃で、ぽとりと花が落ちる。チッと彼が忌々しげに舌打ちをした。実際に当たった手のひらよりも、胸の内が痛かったのを、ソフィーは今でもはっきりと覚えている。
「あ、あのラルフ」
「……帰る」
一方的に宣言して、ラルフは一人で歩いていく。ソフィーはその背を追いながら、何度も声をかけるが、固く引き結ばれた口元が再び開くことはなかった。ソフィーは追い縋りながら、それを絶望的な気持ちで見送った。
ラルフが帰った後、ソフィーは自分の不注意で彼の気分を損ねてしまったと、両親に涙ながらに語った。自分の軽はずみな行いがラルフを傷付け、両家の繋がりにヒビを入れてしまったと。
しかし、両親から帰ってきたのは、穏やかな微笑みだった。目を見開くソフィーの頭を撫でながら、両親は諭す。
“大丈夫、ちょっとした行き違いだ。すぐに仲直りできるよ”と。
幼いソフィーは半信半疑だったが、大好きな両親がそう言うならばと、頷くしかなかった。
そして次にラルフに会った時、ソフィーは誠心誠意謝った。ラルフはじっとそれを聞いた後、“お前が謝る必要はない”と言葉少なに言い、それ以上そのことについて言及することはなかった。束の間、ソフィーはほっとする。よかった、これで仲直りできたと。
しかし、これ以降二人の仲は遠ざかることはなくても、縮まることもまたなかった。もう同じ失態をおかすまい、と細心の注意をはらってソフィーはラルフに接しようとするが、邪険にされないまでも、その態度はどこかよそよそしい。ふとした時に視線が合いそうになればそれとなく逸らされ、ソフィーが笑いかけても、ラルフの表情は変わらない。その距離感に焦ったソフィーは何とかラルフに近付こうとするも、一定の距離は頑なに保たれたままだった。周囲はそんなソフィーを、気難しいラルフにも臆せずかかわっていると見たらしく、二人の婚約は何事もなく継続した。
そうして、ラルフとの距離が変わらないまま、十数年が過ぎようとしていた。
「お久しぶりです、ラルフ」
「……ああ」
魔術学院へ進学したラルフは、勉学に忙しく、ソフィーをおとなう機会はぐっと減っていた。噂によると、かなり優秀な成績をおさめているようだ。順当に行くと来年には、学院を卒業する。卒業したら、ソフィーとラルフは結婚することになっていた。
ソフィーは、それを密かに悩んでいる。
紅茶を飲むラルフをこっそり見ながら、ソフィーは重いため息をついた。この十数年で、ラルフはすっかり成長した。整った顔立ちは精悍に、低くなった声、男性の平均よりも高い身長。間違っても女の子には見えない。もちろんソフィーも、もう妹みたいなんて冗談でも口にできないくらい、ラルフは魅力的な青年になった。だからこそ、だ。
自分はこのまま結婚してしまっていいのか。
ソフィーとラルフの仲は悪くもないが、良くもない。ソフィーとラルフの婚約は家同士の繋がりを強めるための政略結婚なのだから、恋愛関係にないとしても当然だ。それでも、親愛程度の情はあっても良さそうな気はするが、ソフィーとラルフの仲はせいぜい“顔を見知った仲”くらいでしかない。もう十数年近く経つのに、その程度でしかない自分たちが結婚して、果たして夫婦としてやっていけるのだろうか。
「……何だ?」
ソフィーの視線に気付いたらしく、ラルフが問いかけてくる。ソフィーはしばし考えた。もう、何度も考えていることだ。
思いきって、ラルフに聞いてみようか。
──私たち、本当に結婚しますか?と。
「あの、ラルフ………………いいえ、その」
無言で促してくる鳶色の瞳に、ソフィーは言葉を濁した。その一言を言ってしまえば、もう後には戻れない。
「……学院では、優秀な成績を修めていらっしゃるとうかがいました。さすがですわね」
結局、ソフィーは聞かなかった。この十数年でずいぶんと上手くなった作り笑いにのせて、当たり障りのない話題をふる。
「ただ、当たり前に課題をこなしているだけだ」
特に大したことはしていない、と聞くものが聞けば傲慢ともとれるラルフの謙遜を聞きながら、ソフィーは曖昧に微笑む。結局、こうやって問題を先送りにしたまま、十数年も経ってしまった。
「……聞いているか?」
「え、あ、……すみません、少しぼうっとしておりました」
少し、自分の内に入り込みすぎたらしい。ソフィーが聞き逃したことを謝ると、ラルフは感情の見えない一瞥をくれた後、再び口を開いた。
「今度、宮廷で開かれる舞踏会の魔術演出をすることになった」
「まあ、すごいですわ」
「お前に聞きたいのはその後だ。出番が終わった後、俺も舞踏会に参加することになる」
ラルフは、ソフィーを見た。その視線に嫌な予感を覚えたが、ソフィーには遮る術はない。
「お前には、俺のパートナーとして舞踏会に出席してほしい」
「……よろしいのですか?」
「何がだ?」
「あ、その……私は、魔術には詳しくないのに、参加しても良いのかと」
「演出でお前の手を借りることは何もない。言ったが、お前が必要なのは舞踏会のパートナーとしてだ。お前は、俺の婚約者だろう」
「……」
「どうした? 用事でもあるのか?」
「い、いえ……緊張しそうだなと思いまして」
「貴族の開く舞踏会には参加したことがあるんだろう? 宮廷で行われるものも、そう変わらない」
素っ気なく言うと、ラルフは立ち上がった。ソフィーも慌てて立ち上がる。ラルフの隣に並び、そっと見上げる。ソフィー自身は気付いていないが、その瞳には不安が滲んでいた。
「……あなたは本当に、私でよろしいのですか……?」
去っていった婚約者を見送りつつ、ソフィーは呟いた。
公の場で婚約者として紹介してしまえば、余程のことがない限り、結婚するしかない。彼は、それを理解しているのか。いや、自分などよりもはるかに賢い彼のことだ、知らないはずがない。
それとも、とソフィーはふと思う。
彼はソフィーとの婚姻を家同士の繋がり程度にしか感じていないから、自分の結婚する相手が誰であっても、関心がないのだろうか。
その考えに思い至った瞬間、ソフィーの胸はじくりと痛んだ。
ソフィーは深く息を吸い、呼吸を整える。
自分は、幸福なのだ。だって、好ましい相手と婚約し、結婚できるのだから。その想いが一方的であっても、例えば彼と引き離されることを考えれば、比べようもなく恵まれている。
胸の痛みが和らがないのを自覚しながらも、ソフィーはそう自らに言い聞かせ続けた。
──彼が事故にあった、と聞いたのはそれから幾日も経たない頃だった。学院で古い魔術の解析中に、運悪く巻き込まれたらしい。
知らせを聞くや否や真っ青になったソフィーは、矢も盾もたまらず彼の元へ向かおうとした。冷静に考えれば、魔術の素養などかけらもないソフィーが行ったところで何の解決にもならず、かえって邪魔になることは明白だ。そんな当たり前のことですら分からないほど、ソフィーは狼狽していた。父であるリンチェ侯爵に宥められ、届いた知らせを最後まで読み切ってから、ようやくソフィーは押し留まった。知らせには、ラルフの命に別状はない、と記されていたことも大きかった。ただ、事故の後遺症から一時的に衰弱が激しく、体力が回復するまで面会は控えてほしいとのことだ。
命の危機はないとはいえ、一刻も早く彼の所に行き、無事な姿をこの目で確めたい。はやる気持ちを懸命に抑えながら、ソフィーは煩わしい、と思われるのは承知の上で、ラルフへあてて手紙を送った。どうか、無事でいてほしい。祈るような気持ちで書いた字は震え、ひどく読みづらかった。
しかし、面会の許しはなかなか出なかった。彼の友人が見舞いに行き、意外と元気そうだったという噂を聞く一方で、ソフィーがリンチェ家を通じて何度か面会を申し込んでも、まだ本調子ではないためもう少し間を置いてほしい、とやんわりと断られた。
ウィッフェン家の対応に戸惑いを覚えつつも、ラルフからの返事が来ないこともあり、ソフィーはひたすら待ち続けた。
面会の許しが出たのは、はじめに知らせを聞いてからゆうに一月経った頃だった。
「この度は、面会の許しを出していただき、ありがとうございます」
「いえ、こちらこそ、……長い間待たせてしまって申し訳ない」
ウィッフェン家の応接室で頭を下げたソフィーに、出迎えたウィッフェン侯爵夫妻の態度は、注意深く見るとどこかぎこちないものだった。しかし、ソフィーは気付かない。やっとラルフに会えるという喜びと、無事とは聞いていたものの、ここまで面会の許しが出なかったのだから、どこか具合が悪いのかもしれないという心配がない交ぜになって、ソフィーに周囲を気遣う余裕を失わせていた。ソフィーは挨拶もそこそこに、ラルフの居場所をたずねた。
「ラルフ!」
彼は、侯爵邸にあたえられた自室で読書をしていた。そのいつもと変わらない彼は外見だけみると、事故にあったというのが嘘のようだ。健康そのもののラルフの姿に、ソフィーは涙ぐむ。ラルフの部屋のテーブルには、見覚えのある便箋が封も切られないまま放置されていたが、ラルフの無事に深く安堵したソフィーの目には映らなかった。
「ラルフ、……ご無事でよかった。心配しました」
「……」
「……ラルフ?」
何か、様子がおかしい。ここに来て、ソフィーはようやく違和感を感じた。ラルフは、確かにあまり愛想の良い性格ではないが、少なくとも他人に呼びかけられて無視するほど無礼者ではない。
「ラルフ、あの」
再び呼びかけようとして、ソフィーははっとする。まさか、事故の後遺症で、耳が聞こえなくなっているとか?しかし、ウィッフェン侯爵夫妻から、そんな話は聞いていない。もしソフィーの想像通りなら、侯爵夫妻は隠しだてなどせず、ソフィーが訪れた時点でそう告げているはずだ。
ならば、どうして。
ソフィーは夢遊病者のように、よろよろとラルフに近寄った。ラルフの目はじっと本に注がれている。
──こんなに彼に近付いたのは、あの時以来かもしれない。
「ラルフ」
呟くようにソフィーがラルフの名前を呼んだとき、ラルフは本を閉じた。そのままソフィーに向き直り、立ち上がる。あ、とソフィーの口から狼狽した声が漏れた。
ソフィーは後ろに下がるが、避けきれない。
訪れるだろう衝撃にソフィーは目を閉じた。
「……え?」
確かに、ぶつかるはずだった。
しかし衝撃はなく、ソフィーが目を開いた時、ラルフは部屋を出ていくところだった。
「どうして?」
ソフィーは戸惑いつつ、ラルフの後を追った。
「あの、ラルフ?」
恐る恐る背に問いかけるも、ラルフは反応しない。ソフィーの胸のなかに、雨雲のように黒々とした不安が広がっていく。
ラルフの向かった先は、彼の両親──ウィッフェン侯爵夫妻の元だった。
ラルフとその後ろに現れたソフィーを見て、侯爵夫妻の表情は明らかに強ばる。その表情の変化に、ソフィーは嫌な予感を覚えた。一方のラルフはそれらに頓着せず、話し出す。
「父上、母上。俺はもう十分休みました。いい加減、学院に戻ってもいい頃合いでしょう?」
「だが、お前にはまだ事故の後遺症が残っているのだろう」
重々しい侯爵の返答に、ラルフは鋭く返した。
「それでしたらなおのこと、完治させるにはここよりも専門家の多い学院の方が何かと都合が良い」
ラルフはため息をつく。何度も話したようなうんざりした調子で、彼は続けた。
「まあどのみち、後遺症があろうがなかろうが、俺には何の損失もありませんけど」
「ラルフ! 何てことを言うの!」
顔色を変えて叱った夫人に、ラルフは肩をすくめた。
「だってそうでしょう?」
ラルフは特に感慨もなく、至極あっさりと口にした。
「今の俺は後遺症のせいで、“最も愛するものを認識できなくなっている”そうですが」
ソフィーは息をのんだ。
──そんな。そうだったら、今までのラルフは、まさか──。
「恋人や婚約者など……生まれてこの方、俺にそういった方がいないのは、ご存知でしょう?」
「……何て」
静寂の落ちた室内に、か細い自分の声が響くのを、ソフィーは他人事のように感じていた。
「何て、おっしゃったの? ラルフ」
冗談を言っているのだと、彼に限ってあり得ないことをソフィーはうまく働かない頭で考えた。恋人はともかく、婚約者はいないなんて、ひどい冗談だ。だってソフィーとラルフの婚約は、家同士のつながりで、ソフィーの一方的な片想いで、それでも確かにあって。
“最も愛するものを、認識できなくなる”
そんな、まさか。
いくら小さくとも、咳ひとつしないこの部屋なら確かに耳に届くはずなのに。
ラルフは振り返らない。
まるでソフィーの声が聞こえていないかのように。
いや、まるで、なんて生易しいものではない。
どこか場違いなほど、ラルフは冷静に訊ねている。
「父上、母上、どうかなさったのですか? 何やら、顔色が優れないようですが……」
「お前には、見えていないのですか?」
押し殺した夫人の問いに、ラルフは首を傾げた。
「何がです?」
ラルフが、夫人の視線を追って振り返る。鳶色の目が、ようやくソフィーの姿を映し──。
「何もないようですが」
「──ラルフっ!」
離れていくラルフの視線を繋ぎ止めたくて、ソフィーは叫んだ。彼の背にすがり付くように手を伸ばして。
手は、無惨にも空を切る。
ソフィーの手はラルフをすり抜け、触れることができなかった。
呆然と立ちつくすソフィーをよそに、ラルフは言った。
「とにかくお二人が何と言おうと、来週には学院に戻ります」
ラルフは両親に宣言すると、踵を返した。当然、ソフィーには目もくれない。
彼には、認識できないのだから。
彼が去って、一体どのくらい経っただろう。
気付けば、目の前に侯爵夫妻が立っていた。
「ごめんなさい、ソフィーさん」
涙ながらに謝罪する夫人の隣で、侯爵が懺悔する。
「すまない。君が送ってくれた見舞いの手紙が、息子には見えていなかった。それを知った時から、私たちは君を息子に会わせるべきか、迷っていたのだが……こんなに君を傷付けてしまうなら、やはり会わせるべきではなかったな」
侯爵に返事をしようとして、喉がつまっていることにソフィーは気付いた。必死に嗚咽を堪えようとするソフィーを見て、侯爵は意を決したように口を開く。
「今の君に、惨いことかもしれないが、……事故の元になった魔術は元々、耐え難い失恋を忘れるためのもので、それ故に解く方法が存在しないそうだ」
「あなた!」
咎めるような夫人の制止を振り切り、侯爵は続ける。侯爵の顔色は平静を保とうとしてか、紙のように白かった。
「君が望むのなら、息子との婚約を解消してくれて構わない」
「嫌です」
その一言は、止める間もなく滑り落ちた。瞠目する侯爵夫妻をどこか遠く感じる。ソフィーの口からは先ほどまで閊えていた言葉が、涙の代わりにあふれ出した。
「婚約解消は、しません。したくないのです。私は、私だって、ラルフのことが……」
ソフィーは、ぐっと手を握り締めた。
ソフィーとラルフの婚約は、両家をつなぐための政略だ。ラルフがあの状態のままなら、遠からず解消せざるを得ないだろう。
それでも、ソフィーは願った。
「どうか、どうかもう少しだけ、……両家の事情が許す間だけ、ラルフの婚約者でいさせてください」
ラルフが宣言通り学院に戻ったと聞いてから、数日経ったある日のことだ。
「……ラルフが、うちにいらっしゃるの?」
「もちろん、お前が良ければだが」
ラルフの状態については、あの日帰ってきたソフィーの様子と後日リンチェ家に自ら説明に来たウィッフェン侯爵から、父は知っている。ソフィーをぬか喜びさせないためか、父は彼の後遺症が残っていることを前置きして、話し始めた。自分のことを慮ってくれる父に感謝しつつ、ソフィーはつとめて平静に答える。
「私は、構いませんが……」
どうして、と言外に訊ねるソフィーに、父は言う。
「舞踏会の魔術の演出で、うちの庭を参考にしたいそうだ」
ああ、とソフィーは頷いた。同時に、彼にパートナーとして舞踏会に参加するよう言われていたことを思い出す。
今から思えば、あの時、あの問い──“私たち、本当に結婚しますか?”──を投げかけなかったのは、失敗だったのかもしれない。もし口に出して、彼との仲をこじらせ、悪化させていたなら、こんなに苦しまずにすんだだろうか。
そんなこと、今さら考えても仕方がない。
ソフィーはもう一度言葉少なに、構わないことを告げた。
「この度はお招きいただき、ありがとうございます」
久しぶりに見たラルフは、少し疲れた様子だった。父の話によれば、舞踏会の魔術演出の準備があまり順調ではないらしい。いつも要領の良い彼にしては、珍しいことだった。
「いえ、うちの庭でよろしければ、好きなだけご覧ください」
父と挨拶をかわした後、ラルフは庭へ向かっていく。
本当は、姿だけを見て、あとは自室に籠っていようと思っていた。しかし、彼の常にない様子が気にかかり、ソフィーはそっと彼のあとを追った。
色とりどりの花で溢れる庭を、ラルフは真剣な表情で歩いていく。何かをひとつひとつ確かめるような足取りに、ソフィーはもしや、と思い至る。ラルフが庭の奥へ進んでいくほど、それは確信に変わっていった。ラルフが辿っているのは、リンチェ邸の花を鑑賞するのに最も適した道筋だ。四季折々の花が植えられているリンチェ邸は、季節によってその道筋は微妙に変化しており、それを知っているのは身内でもごく限られている。ラルフにそれを教えたのは、他ならぬソフィーだ。ソフィーの表情が、わずかに明るくなった。もしかして、後遺症が薄れ、ラルフはソフィーに関わることを少しずつ認識しているのかもしれない──。
「ラルフ」
彼の名前を呟く。ラルフが答えないのは分かっていたが、それでも名前を呼んだ声は期待で震えていた。
ソフィーは、進むラルフの隣に並んだ。
何だか、顔色が悪い。近くに来て分かったが、鳶色の瞳の下には隈があった。表情も、どことなく憔悴しているようだった。それほど、舞踏会の件は行き詰まっているのだろうか。
「……確か、あそこに……」
不意にラルフは独り言をもらすと、歩き出した。ソフィーは彼のくたびれた様子に心を痛めながら、彼の後についていく。
彼がたどり着いたのは、あの花──かつてソフィーがラルフに飾ったバラが咲く場所だった。
「そうだ、ここだ」
確信を持ったラルフの呟きに、やはり快復に向かっているのでは、とソフィーの胸も弾む。
しかし、その期待は次の瞬間跡形もなく潰えた。
倒れこむように、ラルフは膝をついた。ソフィーが慌てて支えようと近付くも、ソフィーの手はすり抜けるばかりで、何の役にも立たない。人を呼ぼうとしたソフィーは、ラルフの言葉に固まった。
「俺は一体、何を失ったと言うんだ?」
唇を噛み締めながら、ラルフは叫びを圧し殺すように続ける。
「何もない、はじめからないはずなのに、……常に何かが足りない、何かが欠けている!」
ソフィーは、ただラルフを見つめていることしかできなかった。
「それが、こんなにも苦しい」
ラルフはバラに手をのばす。指の腹でバラを撫でながら、ラルフはかすれた声で呟いた。
「そんなにも愛していたのか、俺は……誰かを」
ラルフの苦悩する姿を最後まで見ていられず、ソフィーは庭を後にした。
その胸に、ひとつの決意を抱いて。
ラルフがリンチェ邸を辞してから、ソフィーは父に申し出た。
「ウィッフェン家との婚約を解消する、だと?」
驚く父に、ソフィーはこくりと頷いた。目の奥には、庭でのラルフの姿が焼き付いている。
覚悟はできていた。
その証拠に、冷静に、落ち着いてと言い聞かせなくても、平坦な声で話すことができた。
「ラルフに後遺症がある以上、私とラルフの婚約は成り立ちません。ラルフは私に関わることを認識できないのですから。私の我儘で婚約を継続していましたが、……勝手を申し上げて、申し訳ありませんでした」
それに、とソフィーは心の中でつけ加えた。
ラルフの苦しむ姿をもうこれ以上見ていたくなかった。彼をあれほど苦しめているのは自分の存在なのだ。
あれほど愛してくれた彼に自分ができることは何か、ソフィーはようやく分かった。
後遺症に苦しむ彼を救うには、ソフィー以外に愛する人を見つければ良い。幸い、後遺症の元になった魔術は、術が対象にかけられた時点で“最も愛するものを認識できなくなる”ものらしい。一生認識できないソフィーのことなど忘れて、誰か別の人を愛して、苦しみから解き放たれてほしい。
さようなら、ラルフ。どうか、元気で。
ソフィーは心の中で別れを告げた。
ウィッフェン家に婚約解消の書状を送ってから、数日後。今日は、ラルフが宮廷で魔術演出を披露する舞踏会の日だ。
ラルフの婚約者ではなくなったソフィーは、もちろん舞踏会に招かれていない。夜であるため相当渋った侍女を説き伏せて、ソフィーはリンチェ邸の庭にいた。どうしても、一人になりたかった。白いバラの植え込みで花を愛でながら、ぼんやりと彼のことを考える。今頃、ラルフは演出を終え、ダンスを踊っているだろうか。新しい婚約者を、パートナーにして。
ラルフの手を取る誰かを想像して、ソフィーの胸がずきりと痛んだ。ソフィーの唇に自嘲の笑みが浮かぶ。自分から婚約解消を切り出しておきながら、自分本位な反応をしてしまう自分が、滑稽だと思った。それでも、頬を伝う涙は止まらない。止まらなくていいのだ、今はソフィーしかいないのだから。
苦悩する彼の姿は、昨日のことのように思い出せる。これ以上、彼を苦しませるくらいなら、ソフィー自身の気持ちに蓋をすることなんて、造作もないことだ。そう明日から笑えるように、けじめをつけるためにここに来たのだ。
「これで、これでよかった」
「何がだ」
背後から聞こえた懐かしい声に、ソフィーはさして驚くこともなく振り返った。心の迷いが聞かせる幻聴だと思ったのだ。しかし予想に反して、そこにいたのは普段のローブではなく礼装用のローブに身を包んだラルフだった。いつも落ち着いている彼には珍しく、息をきらし、額には汗が浮かんでいる。まるで、どこかから急いで駆けつけてきたような──。
ふらりと、ソフィーは一歩踏み出す。思わず伸ばした手が、しっかりと繋がれた。そのあたたかさと感触に、ソフィーは目を見開いた。
「本物の、ラルフ……ですか?」
「偽物の俺がいるのか?」
鳶色の瞳に、はっきりと自分が映っている。どこか夢見心地に、ソフィーは聞く。
「ラルフ……どうして、私が見えるのですか? こうやって、触れることもできて」
「魔術を解いたからに決まっている」
「でも、あの魔術には解術方法がないと」
「ないなら作れば良い」
すっぱり言い切るラルフに、ソフィーは目を丸くした。
「それじゃあ魔術の後遺症は」
「解いたのだから、あるはずがないだろう……現に、お前を見て、触れている」
ぎゅ、と握られた手に、別の意味で泣きそうになりながら、ソフィーははっとする。
もう二人は、婚約関係にあるわけではないのだ。手をはなそうとしたソフィーだが、ラルフの手の力は緩む気配がなく、失敗に終わった。
「はなしてください、ラルフ」
「何故だ?」
「……私たち、もう婚約者ではないのですから」
ソフィーは言いながら、唇を噛む。改めて口にすると、かなり心が痛かった。
「お前との婚約は解消していない」
断言するラルフに、ソフィーは当惑する。
「リンチェ家から、書状を送ったはずです」
「ウィッフェン家──俺は承諾していないから、無効だ」
「承諾も何も、あなたは私に関することを認識できないのですから」
言いかけて、ソフィーはラルフを見上げる。
「ラルフは、いつ魔術が解けたのですか?」
ソフィーの問いに、ラルフは簡潔に答えた。
「完全に解けたのは、今朝だ。リンチェ家からの書状を確認して、……舞踏会の演出さえなければ、直ぐ様お前の所に行きたかった」
ラルフの手が、ソフィーの手をより強く握り直す。
「先に聞いておく。お前が婚約解消を願ったのは、俺に愛想が尽きたからか?」
「まさか」
即座に否定したソフィーに、ラルフは続けてたずねた。
「それなら、どうして婚約を解消しようとした?」
半ば反射的に、ソフィーは答えた。
「ここで、あなたが苦しんでいる姿を見て、……もう苦しんでほしくなかったからです」
「あの時、見ていたのか」
ラルフが嫌そうな表情になる。ソフィーは俯いて、続けた。
「私以外の人を最も愛するようになれば、あなたはもう苦しまなくなると」
「お前……」
ラルフの言葉が途切れる。不思議に思ってソフィーが見上げると、ラルフは真剣な表情でこちらを見下ろしていた。
「正直に答えてほしい。……お前は婚約を解消するとき、平気だったか?」
「そ、れは」
咄嗟に頷きかけて、思い止まる。違う、この反応は明日、建前で準備したもので、ラルフの後遺症が解けたのなら、必要ない。だから、──。
「……すまない、お前にばかり聞きすぎた」
ラルフはソフィーの濡れた目尻を拭いながら、謝罪する。喉がつかえて、ろくに声が出せないソフィーに、ラルフは安心したように言った。
「死ぬ気で解いてよかった」
「……」
「お前に嫌われていたら、改めて術をかけ直そうと思っていた」
「……その、冗談は、笑えません」
「そうか」
ソフィーの背中にラルフの腕がまわり、ソフィーの顔がラルフの胸に近付く。僅かに残っていた距離に、ソフィーは自分から近付いて、ラルフの胸にすがって泣いた。ラルフの手が、優しく自分の頭を撫でている。その感触に、また涙が溢れた。
「ずっと、ずっと、あなたには嫌われていると思っていました……あの時から」
「あの時? 逆ならともかく、お前が俺に嫌われるようなことをしたのか?」
「私が、ここであなたにバラの花を飾った時から。あれ以来、あなたはどこか私に対して距離を置いているようでしたから」
ソフィーの言葉に、ラルフは仏頂面になる。
「あの時か……」
少し低くなったラルフの声に、ソフィーはびくりと体をすくませた。ソフィーを安心させるように、ラルフは繊細な手つきでその背を撫でる。弁解するように、ラルフの言葉が続いた。
「あれは、俺の早とちりと、意地を張ったせいだな」
「え?」
首を傾げたソフィーに、ラルフは気まずげに説明した。
「お前のが俺の髪に差した白バラの蕾には、“恋をするには若すぎる”という花言葉がある」
そういえば、とソフィーも思い至る。ソフィーは幼い頃から花には詳しかったが、当時は流石に花言葉までは知らなかった。
「俺では恋愛対象にならない、と暗に言われたのかと思って──ただでさえお前の方が2つは年上で、大人っぽく見えて焦っていた俺は悔しくて、他ならぬお前に素っ気なくあたってしまった。どこかで改めようとはしたんだが、引っ込みがつかなくなって」
「そ、そんなつもりじゃ……」
慌てて否定しかけたソフィーは、はたと気付く。
「どうして、花言葉を知っていたんです? それに、悔しいって……」
「……」
不意に黙りこんだラルフの顔をソフィーは窺う。気のせいか、いつもより赤い気がする。
「ラルフ? ……もしかして、後遺症のせいでどこか具合が悪いのですか?」
「……お前とはこれ以上すれ違いたくないから、はっきり言っておく」
そう宣言してから、観念したようにラルフは言った。
「花言葉は、……お前が花について楽しそうに話していたから、花を調べるついでに覚えた」
ラルフの言葉を理解するや否や、ソフィーの顔色が青くなる。
「それでは、私はあなたがとうに知っていることを説明していたということですか?」
「いや、俺にとってはお前の声が聞けることが重要だから、それは良い」
ソフィーの憂いをあっさりはらってから、ラルフは口を開く。
「悔しかったのは……」
一呼吸おいてから、ラルフは一気に言った。
「俺は一目見たときから、お前に惚れていたからだ。もちろん、今も」
ソフィーは、瞳を瞬かせた。驚きのあまり、涙も止まっている。
「……言い足りないか?」
「いえ……いいえ」
「どっちだ」
「少し……実感がわかなくて」
本音を口にしたソフィーに、ラルフはしばし黙った後、白いバラをひとつ摘んだ。
「赤いバラの花言葉は知っているな?」
「はい」
ソフィーが頷くと、ラルフは低く呟く。
ソフィーの目の前でバラは淡く輝き、そして深紅に染まった。
言葉もなく驚いているソフィーの髪にそのバラを差し込むと、ラルフは満足そうに笑った。
「ふざけるな、お前の方が似合う。──ようやく、言えた」
 




