9.
ディートリッヒはあの日、戦いから帰還すると真っ先にリシェーラの待つ宰相補佐官室へと足を向けた。
だがその途中に彼はとある侍女から聞いてしまったのだ。
宰相補佐官様と騎士団長様は結婚するらしい――と。
それはディートリッヒがリシェーラに想いを寄せていることを、そしてリシェーラもまたディートリッヒを想っていることを知った侍女達の、リシェーラへ対するささやかな嫌がらせであったのだが、それは彼が足を止めるには十分な言葉だった。
ディートリッヒは他の騎士団員がそうであるように団長のルミオンを尊敬している。見習い時代から目をかけてくれた恩もある。そんな男と共に歩もうとする女に想いを寄せていようが伝える気にはなれなかった。
そしてディートリッヒは彼らが式を挙げるのを目にするよりも早く王都を後にした。
その噂が嘘であったと知ったのはそれから数ヶ月が経った時のことだった。
ルミオン本人から聞かされたのだ。ディートリッヒはせめて王都から、彼女の前から逃げ出さなければと己の選択を深く後悔をした。
実家へと帰り、リシェーラと離れた後もふとした時に彼女の笑顔が頭に過ぎる。
王都へと招集されるたびに想いを伝えたくて、けれどディートリッヒは自分の知っている時よりも一層仕事に励むようになったリシェーラに話しかけることなど出来なかった。
それでも彼女のことを忘れられずにただひたすらに想うだけの日々を送っていた。
ルミオンにリシェーラと3人で久しぶりに酒を飲まないかと誘われたのはそんな時だった。
これは2人の良好な関係を目に焼き付けるいい機会だと思った。結婚はしないにしても、そう噂されるほどの仲の2人を見ればこの想いも消えてなくなるだろう、と。
けれどそんな考えはリシェーラと会話を交わせばすぐに吹き飛んでしまった。その声が、表情が愛おしくて、自分のものにしたくて堪らないのだ。
そしてディートリッヒは玉砕覚悟で、あの日と同じような約束をした。
今度こそリシェーラに想いを伝えよう――と。
もういい頃合いかと思い、彼女の部屋へと足を伸ばして震える手でノックをすると彼女の返事は返ってこなかった。
まだ仕事中かと、わざわざ宰相補佐官室まで訪ねるのは迷惑だろうと時間を置いて再び訪ねたがやはり返事はない。
そしてどうするべきかと迷っているところを騎士団員に酒に誘われたのだった。
「少しだけなら」
久々の仲間との対面に断れるはずもなく、リシェーラの仕事が終わるまではと酒盛り会場の鍛練場へと向かった。
入った瞬間、ディートリッヒは鼻にアルコールの匂いが付くのを感じた。彼を誘った団員も中々に酒臭かったが、それは比ではない。
「ディートリッヒ!」
入り口で立ち尽くすディートリッヒを素早く見つけると酔った団員達は彼にグラスを押し付け、その中に酒を注いだ。
「飲め飲め」
それを飲み尽くせばすぐに新たな酒が注がれると長年の経験から理解していたディートリッヒ はこの後リシェーラと会うことを考慮して、少しずつ口をつけていた。
それでも減るごとに注がれる酒に呑まれていた頃、ようやく眠り始めた彼らから逃れることに成功した。
すぐ抜けるつもりが時計の針はもう頂点に近くなっていた。宿舎から出る直前、酔い覚ましの水を2杯ほど飲み干すとディートリッヒは急いでリシェーラの部屋へと向かった。そして切れた息を整えて戸を叩く。
けれどリシェーラの返事はなかった。
この部屋に来る前にディートリッヒは何人かの文官と、リシェーラの部下達とすれ違っていた。
まさか彼女は宰相補佐官室で待っているのでは?と思い立ったのはその時で、ならば彼女をずっと待たせてしまっていると再び足を走らせた。
――けれど遅かった。
「リシェーラ!」
ディートリッヒが発見したのは酒に酔って床にへばりつくリシェーラの姿だった。
彼はリシェーラを身体の前で抱きかかえると彼女を揺らさないように医務室へと運び込んだ。
「ルギウス、リシェーラが!」
「へ? リシェーラ? どうしたの?」
「部屋で倒れていた。すぐに見てくれ!」
「わかった」
夜も更け、患者も居ないからと部屋を閉めようとしていたルギウスは白衣を羽織る間もなく、リシェーラを診た。
そして混乱状態にあるディートリッヒに「飲みすぎて寝ているだけだよ」と告げた。
「そう……か」
「僕が診ているから帰ってていいよ」
「その……」
「何?」
「俺が運んできたってこと、リシェーラには……」
「言わないよ。醜態を見られたって凹みそうだもん」
「ありがとう」
そして翌朝、ルギウスからあれからずっと寝込んでいるのだと聞かされた。
ディートリッヒはいち早く彼女に気持ちを伝えたかったが、具合の悪い彼女に無理はさせたくないのだと、彼女と会える日を、ルミオンと3人で酒を飲める日を待った。
けれど当日、リシェーラはディートリッヒの顔を見るやいなや足早にその場を去った。
2度も約束を破った男に怒るのは当然だと、ディートリッヒは今度こそリシェーラを諦めようと翌日には予定通り王都を去ろうと決意した。
そんな彼を止めたのはルミオンだった。
「リシェーラのことが好きなんだろう? なら帰るのはあいつの気持ちを聞いてからにしろ。それからでも遅くはないだろう?」――と。
そしてディートリッヒは王城のゲストルームからルミオンの家へと身を移した。
家具も何もなく、埃がたまり放題の屋敷を見てディートリッヒはひどく驚いたが、それもルミオンからことの経緯を聞き出すと納得した。そしてしばらく置かせてもらうからにはと屋敷の掃除に名乗りを上げた。どうせなら家具も買っておいてくれと言うルミオンから欲しい形や色を聞き出して揃えたのは彼だった。
そしてその間、リシェーラの元に通い続けたルミオンはディートリッヒとの約束通り、彼女を屋敷へと連れてくることに成功した。
そして彼は問うた。
ドアを挟んで向こう側で待つディートリッヒにリシェーラの本心を聞かせるために。
そしていよいよ我慢できなくなったディートリッヒはリシェーラに想いを告げたのだった。